気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

二条城4 本丸櫓門、本丸庭園

2025年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鳴子門から南へ進むと、右手に本丸へと渡る東橋と本丸東櫓門が見えてきました。嫁さんが「時代劇とかでよく見る建物ですよー、水戸黄門だったかな、水戸城の門とお濠、て感じで出てたの見ましたよー」と嬉しそうに指差し、スマホを向けていました。

「これから本丸に向かうわけやが、家康が慶長八年に竣工させた時は二の丸部分だけやったから、この本丸はまだ無かったのよ」
「あ、そうなんですか。じゃあ、寛永の後水尾天皇行幸の際の改修の時に本丸を追加したんですかね?」
「そう、そういうこと。それで規模的には倍ぐらいになってる」
「なんでそんなに大きくしたんですか?改修って言うより増築と言う方が当たってません?」
「うん、実質的には増築なんやな。天守閣も慶長の時はいまの二の丸の北西隅に建ってたけど、それを撤去して、本丸の南西隅に新たに建ててるし、縄張り全体も大きく変わったから」
「後水尾天皇行幸の際に城を立派に造り直したってことですよね、それは、たぶん、天皇に徳川家の力を誇示するためですよね」
「そう。その解釈は正しい。後水尾天皇の時期ってのは紫衣事件があったりして幕府と朝廷が揉めてた時期やし、後水尾天皇もけっこう我儘やったから徳川将軍家は秀忠も家光も対応に苦慮してて、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)との絡みで、幕府としては圧力をかけざるを得なかった経緯がある」
「でも、結局は行幸で二条城に入られてるから、そのときは和解してるわけですよね。江戸時代の天皇で二条城に行幸したの、後水尾天皇だけでしょう・・・なんでかなあ・・・」
「ヒントは、中宮や」
「中宮・・・?・・あっ、分かった、東福門院ですね、德川和子(まさこ)ですね・・・。なるほど、そっかあ、正室の中宮は徳川家の出で家康の孫でしたね、つまり、奥さんの実家の城が二条城なわけで、旦那の後水尾がそこを訪問したという構図なわけですね」
「やっぱり分かったねえ、流石やな」
「えへへへ」
「要するに正室東福門院の実家としての徳川家の威信にかけて、本丸を増築して二の丸も大幅に改修したわけや」
「そういうことですね、なるほどー」
「だから、本丸部分は、実質的には後水尾天皇に見せる為に造られたといっても過言じゃない。本丸の天守閣もそのために建てたけど、狙いが当たって天皇は天守閣を気に入って二度も登られてる」
「ふーん」
「寛永の行幸御殿は二の丸の庭園の南側にあったんで、そこから天皇は廊下を渡って本丸へは東橋の廊下殿から入ってる。いまの東橋はただの橋やけど、寛永の時は二階の廊下橋になってたから、天皇は御殿からそのまま下へ降りることなく、建物づたいに本丸へ行ってた」
「じゃあ、いまのあの東橋は、その後で造り直したものなんですか」
「そういうことになる」

 

 その東橋を渡って、本丸東櫓門に向かいました。本丸に繋がる重要な東からの連絡路をかためる防御拠点として、窓の無い総塗込の白壁に包まれて防火耐火の備えを示しています。
 寛永の改修時の本丸増築に伴って東の虎口に設けられた城門で、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」には「二階御門」と記されます。その通りの二階建ての櫓門です。

 この櫓門が二階建てであるのは、寛永の後水尾天皇行幸時に建てられた天皇用の行幸御殿がいまの二の丸庭園の南側にあり、そこから長局殿と廊下殿が伸びていて、本丸の東橋も当時は二階建ての廊下橋となって櫓門に繋がる構造であったことの名残でもあるようです。後水尾天皇は行幸御殿からずっと建物づたいに本丸へ渡り、そのまま本丸御殿や天守閣に登っていましたから、現在の東櫓門の二階部分を通っていたことになります。

 なので、二階部分の正面に窓が無いのも、もとは廊下橋が取り付いて通路空間になっていたからで、それを廊下橋の撤去後に壁で塞いだだけであったから、と推測出来ます。

 

 案内説明板です。「本丸の西にも西櫓門てのがあったんですねー、焼失とあるから今は無いわけですねー」と嫁さんが言いましたが、西櫓門に関しては疑問も少なくないことを話しておきました。

「西櫓門の何が疑問なんですか?」
「櫓門であったのかどうかは不明なんや・・・」
「違う形の門であった、という事ですか?」
「その可能性があるんやな。江戸期の二条城の古絵図とか見るとさ、こっちの東櫓門は「二階御門」と書いてあって建物の構造が正確に示されるんやけど、西のほうは単に「御門」としか書いてないのよ・・・」
「ふーん、二階じゃないんですかね」
「あと、門の配置や石垣との組み合わせも東と西では異なるんや。西の門跡は後で見に行くから、またその時に説明しようか」
「うん」

 

 話しながら本丸東櫓門をくぐりました。振り返って背面を見た嫁さんが「こっちにも窓が無いんですねー、側面にしか窓が無いわけだ、防御のために窓の数も最低限におさえたんですねー」と感心していました。

「窓は無いけどな、銃眼や狭間は内側にしっかり造ってある。隠し狭間や。戦闘になったら、中から白壁を突き破って狭間を現して、東橋を渡ってくる敵を弓や鉄砲で迎え撃つわけやな」
「やっぱり狭間が隠されてるんですかー、平和な江戸時代であっても、德川家は、幕府はいざというときの備えはしてたんですね」
「それが武家政権の本質やで」

 

「ちょっと戻って、内部の窓の造り方とか見たいです」
「なら、見ようか、・・・こんな感じやで」
「ふーん、こんなんなってるですか、窓の戸を開けても、太い格子がはめてあるから、中に入れないようになってますねー」
「窓を破られたら、本丸が危うくなるからな・・・」

 

 ついでに門口の内側も観察しました。御覧の通りの鉄板張りの堅固な造りでした。東大手門のそれと同じ手法で作られていますので、寛永の改修時に櫓門に造り替えたのも、東大手門と一緒の工事であったことが分かります。

 

 門扉に付く潜り戸を見ました。御覧のように頑丈に造られています。

「これは内側からしか開閉出来ないようになってる。外側は取っ手も引手もないから扉を動かせないのよ」
「あ、そうなんですか、ちょっと外側をもういっぺん見てきます」

 

 外側は御覧の通りでした。

「あー、ほんまに取っ手も引手もありませんねー、扉を動かそうにも出来ない。こういうのが門の防御の工夫なのかー」
 
 納得したらしく、何度も頷きながらスマホで撮る嫁さんでしたが、ふと何かを思い付いたような表情になり、訊いてきました。

「ここの護りを固めるには、こういう櫓門の形が一番だったということですか?他の形式の門では不足だったんですか?」
「というよりは、本丸自体は二条城の中心防御区画になるんで、有事の際には二の丸じゃ戦えないから本丸を陣場にすることになる。それに伴う対策としては、城郭としての最低限の構えを、可能な限りの固い防御施設で護る、ということに尽きるから、攻防の要となる東の虎口は櫓門でガッチリ護る、ということや」
「櫓門が一番固いんですか?」
「そう。屋根が付くから風雨もしのげる。雨が降ってても火縄銃が使える」
「あっ、そういうこと・・・」
「他の形式の門なら、雨の時は鉄砲が使えないけど、櫓門なら二階に鉄砲組を配置すれば、雨でも撃てる。高い所からの狙撃も、つるべ撃ちも可能になる。近代戦でいうとトーチカに機関銃が入ってるようなもんで、敵にとっては脅威この上ない」
「なるほどー、納得です」

 

 本丸東櫓門からの空間は、上図のように左右の高い石垣にはさまれています。現在は何もありませんが、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」によれば、かつては高い石垣にはさまれた場所に「御門」がありました。現存する東櫓門と合わせて二重の門構えになっていたわけです。そして高い石垣の上には「御多門」と記される長い櫓が本丸の東辺いっぱいに続いていました。

「あのうえに塀じゃなくて櫓が続いていたんですか、で、この空間にも門があったわけで、今よりも厳重な守りの構えになってたわけですね。今も残っていたら、ものすごく立派に見えるでしょうね」
「だろうな、日本の城郭としては姫路城に次いで建物がよく残ってるとされる二条城だけど、残ってる建物よりも失われた建物のほうがはるかに多い。当然ながら城の外見の風景とかも、昔のままじゃないのやな」
「そうなんですね、江戸時代の二条城はもっともっと立派だったんですね」

 

 高い石垣に挟まれた「御門」跡を通ると通路は右にクランクし、二方向に設けられた階段へと続きます。嫁さんが「こうやって通路を屈折させるのもお城の防御のひとつなんですね」と言いました。

 敵が「御門」も破って侵入してきた場合、正面に石垣があるので真っ直ぐ進めず、石垣が左にも続くので左にも行けません。それでいったん足踏み状態になったところへ右の階段上から守備側が弓鉄砲をあびせてやっつける、という防御戦が展開されるわけです。

 ですが、この二方向の階段は、もう一つの意味を持ちます。かつての本丸御殿は寛永の改修時に新築されたものですが、その玄関口は東に向いており、ここの二方向の石段がそのまま本丸御殿玄関への登段部となっていたのでした。

 現在の本丸御殿は、二条城が皇室の離宮になった後の明治二十七年(1894)に、明治天皇の命によって京都御所の北にあった桂宮家の御殿の主要部を移したもので、寛永建立の本丸御殿とは外観もレイアウトも全く異なります。その玄関は反対側の西側にあります。

 

 その、かつての桂宮家の御殿主要部の建築群の南側へ回りました。旧宮家の御殿ですから、城郭の御殿建築とは全然違う雰囲気でした。嫁さんが「五摂家の邸宅とかも、こんなんだっただろうと思いますね」と言いました。

 

 本丸御殿は、長い間一般公開されていませんでしたから、嫁さんも私も今回が初めての見学でした。特に嫁さんは平安期以来の皇室、公家の歴史や宮廷文化、宮家の建築などに関心を持って、大学でも研究テーマにしていましたから、かつては京都御所の北側の旧桂宮邸跡に建っていたこの御殿が、現存する唯一の宮家建築であり、明治天皇や皇后、また皇太子時代の大正天皇や昭和天皇もここを利用されたのもよく知っています。

 それで、二条城本丸御殿のことを「もうひとつの京都御所でありますよ」と話していましたが、確かに離宮二条城の中心部の御所であったわけです。

 

 園路は、広い本丸御殿の芝生の庭園の中を回る感じで、歩きながら本丸御殿の建築群の様子を眺めることが出来ました。分岐からはかつて五階の天守閣が建っていた天守台へも行けるようになっていたので、嫁さんが「天守台に登りましょう、城内で一番高い場所でしょ、登ったら本丸御殿の全部が見えますよ」と言い、私の手をグイグイと引っ張ってゆくのでした。

 

 本丸庭園の案内説明板です。現在の本丸御殿が旧桂宮家御殿の移築で成立する前は、15代将軍徳川慶喜が建てた仮の御殿がありましたが、明治十四年(1881)頃に撤去されました。

「その仮の御殿ってのも残して欲しかったですねえー」
「残そうにも出来なかったんと違うかな、仮の御殿だったし、長く持たないような建物だったかもしれんて」
「あー、そうですよねー。残せなかったから、代わりに桂宮家の御殿を持ってきたのかー」
「でも、桂宮家は御殿を二条城へ持っていかれたあと、どこに住んどったのかね?」
「あっ、それはですね、その桂宮家はですね、天正の頃の八条宮の流れで、常磐井宮、京極宮と改称して、それから桂宮と改称して12代続いたんですが、最後の12代当主の淑子(すみこ)内親王が世継ぎが無いまま明治十四年(1881)に亡くなりまして、それで断絶となったんです。それで桂宮御殿も空き家になってしまったので、明治天皇が桂宮家を顕彰すべく二条城へ移して保存したという成り行きなんです」
「そうなのか、桂宮家は断絶していたのか・・・、あれ、ちょっと待った・・・、桂宮家宜仁(よしひと)親王殿下って居られたろ?・・・ええと、十年ぐらい前まで居られたよな?・・・確か、三笠宮家の次男にあたられる・・・」
「あー、その桂宮家は別なんですよー。宜仁親王が独身のまま宮家を創設して昭和天皇から「桂宮」の称号を賜ったのでして、一代限りで断絶になってます・・・」
「そうやったんか・・・」

 

 天守台に登って本丸御殿を一望しました。わー、なかなか立派ですね、と嫁さん。

「もとの徳川家の本丸御殿って、どのくらいの規模だったんですか?あの旧桂宮御殿と同じぐらい?」
「中井家伝来の古絵図、例えば「二条御城中絵図」とかを見ると、現在の二の丸御殿とほぼ同じぐらいの規模があるんで、ここの天守台の近くまで御殿の建物が並んでて、天守閣とも多聞櫓と廊下殿で繋がってた」
「わー、そしたらここの庭園のいっぱい木が並んでる所にも建物が並んでたわけですか、大きかったんですねー」
「そうやな。いまの本丸御殿の倍ぐらいの規模にはなるかな」
「残ってたら、間違いなく国宝になってますね」
「うん、天明の大火の飛び火で燃えてなければな・・・」

 天明の大火とは、天明八年(1788)正月30日に発生した京都の歴史上最大の火災です。鴨川の東、いまの団栗橋の付近より出火、東からの強い風に吹かれて鴨川を超えて西へひろがり,北と南へも拡大して二昼夜燃え続け、2月2日の朝にようやく鎮火しました。
 この大火で、北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川の東、西は千本通までの範囲がまるまる焼けました。当時の京都市街がこの範囲でしたから、文字通りの焼け野原になってしまったわけです。

 被害は、幕府の「罹災記録」によれば、京都市中1967町のうち1424町が焼失、焼失家屋は3万6797、焼失世帯は6万5340、焼失寺院は201、焼失神社は37に及んだということです。幕府の京都所司代および東西両奉行所は全滅、京都御所や摂関家屋敷、東西の本願寺も焼けてしまいました。応仁の乱の被害をはるかに超えたとされています。

 このとき二条城も類焼し、本丸御殿のほかに隅櫓および多聞櫓の殆どを失いました。現在、石垣のみが残っている箇所がその類焼の範囲ですが、二条城の全盛期の建物全体の四割ぐらいに達しています。  (続く)

 

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