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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

京都鉄道博物館1 京都鉄道博物館へ

2025年02月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日の午後、二条城から地下鉄とJR嵯峨野線を乗り継いで、上図の京都鉄道博物館に行きました。この日の嫁さんの本来の目的地がここだったのでした。二条城へ行ったのは、近いからついでに行けるよね、という思い付きで午前中から出かけたわけでした。

 

 京都鉄道博物館は、周知のように国内では最大級の鉄道博物館です。日本では埼玉県にも鉄道博物館がありますが、敷地の規模や展示車輌の数では京都のほうが上であるそうで、「トップナンバー」と呼ばれる第1号の車輌が多く展示されているのも特徴であるそうです。

 私自身は昔、まだ梅小路機関車館だった頃に三度ほど行ったことがあるだけで、2016年にオープンしたこの京都鉄道博物館のことは全く知りませんでした。2023年の6月に鉄道模型Nゲージを初めて鉄道にも関心を持ち始めるまでは、あんまりその種の施設には興味が無かったからです。

 

 ですが、嫁さんはオープン直後に一度行ったことがあるそうで、同じようにNゲージに熱中し始めてからは、もう一度行っておかないといけませんねー、と何度か話していました。梅小路機関車館だった頃しか知らない私を「昭和ですか?遅れてますねえ、時代は令和ですよ?時勢に遅れてはアカンですよね」とこきおろしつつ、「Nゲージやってるんなら、いっぺん行かないと駄目ですよ?」とけしかけてくるのでした。

 それで、実質的には引っ張って行かれたわけですが、いざ入ってみると、かつての梅小路機関車館の頃とは全く違った立派な施設と数多くの展示車輌の姿に驚かされました。エントランスから入ると、上図の長い駅構内をイメージしたプロムナードに並ぶ新旧の車輌の姿がドンと表れて、ジリジリと迫力をもって眼前にせまってくるのでした。

 

 おお、栄光のC62形だ・・・。おや、26号機?・・・これ見た事あるような・・・、確かこれは大阪弁天町にあった交通科学博物館の展示機だったかな・・・。そうか、交通科学博物館が閉鎖したからこっちに引き取られたわけか。

 すると、京都鉄道博物館には梅小路機関車庫の1号機と2号機も居る筈なので、C62形が3輌もあるわけか・・・。

 

 私の記憶に間違いがなければ、このC62形26号機は、現存する唯一の川崎車輌製造の車輌だった筈です。亡父の資料類か何かで読んだのですが、C62形は計49輌が発注され、日立製作所、川崎車輛、汽車製造の三つのメーカーが分担して製造しましたが、現存するのは5輌のみで、その4輌までが日立製作所の製造になります。

 嫁さんが「銀河鉄道999」の機関車やー、と楽しそうにスマホで撮っていました。そういえば、この前ゆるキャン聖地巡礼で行ってきた、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらの屋外展示の蒸気機関車に「銀河鉄道999」のヘッドマーク付けてたなあ、あれはC62形じゃなくてD51形のナメクジだったなあ、と思い出しました。

 

 C62形26号機の隣には、何やら古めかしそうな車輌がいました。車体カラーこそ115系でお馴染みの湘南色ですが、そのカラーの最も古い車輌かなあ、と思いました。

 

 その説明板です。なるほど、戦後初の長距離電車として東海道本線や山陽本線で活躍した車輌だったか、と知りました。後ろに同系のモハ80形が繋がっていて、2輌編成のような形で展示されています。

 嫁さんが「これはクハだから制御の機械がついてて、運転席付きで、向こうがモハだからエンジンがついてる・・・」と自身の鉄道知識を確認するように呟いていました。その横顔へ、エンジンじゃなくてモーターやで、モはモーターの事や、と小声で言い添えておきました。

 

 プロムナードの一番右側には、新幹線の0系車輌の4輌編成がありました。子供の頃の昭和40年代、初めて新幹線に乗ったときはこの0系でしたし、今でも新幹線の基本的なイメージはこの懐かしい姿のままです。

 いまの新幹線の最新の車輌は数えて6世代目にあたるN700Sで、これは前回の群馬ゆるキャン聖地巡礼の時にも乗りましたが、初めて乗った0系の印象にくらべると隔世の感があり、乗り心地も静粛性も格段に向上しています。それでも個人的には「夢の超特急」といえば0系だなあ、と思います。

 0系の保存車輌はいまも各地にありますが、ここ京都鉄道博物館の展示車輌はトップナンバー車で、1964年3月に落成した1次車の先行製造車にあたります。1978年に廃車後、交通科学館に保存展示されていたのを引き取ったものです。日本の鉄道史の金字塔的な存在であることにより、2007年に機械遺産に、2008年に鉄道記念物に、2009年に重要科学技術史資料に指定され、文化財に準じた扱いを受けています。

 

 プロムナードの奥には幾つかの旧型の客車が並んでいます。そのうちの上図のナシ20形食堂車は、寝台特急「ブルートレイン」の食堂車であったもので、現在も館内の食堂車、お弁当販売ブースとして公開されています。

 嫁さんが「ちょっと中見てきていい?」と言うので外で待っていたら、すぐに出てきて「家族連れで満席でしたー」と戻ってきました。子供達にも人気があるようで、館内での食事をここで楽しむ人も多いそうです。

 

 プロムナード内には旧型の食堂車であった上図のスシ28形301号車も展示されています。嫁さんが「スシって、寿司のこと?」と訊くので「いや違うで、車輌記号のひとつで、スは37.5から42.5トンのクラス、シは食堂車の意味や」と説明しました。

 

 続けて「そしたら28形ってのも何かの意味があるんですか?」と訊かれましたが、「これは確か10の位の数字と1の位の数字でそれぞれに意味があって・・・、ええと、20はちょっと分からん・・・、8は車台の形式が3軸のボギー車であるんやったかな・・・」と述べるにとどまりました。

 

 嫁さんはすぐに台車を見にいき、「ほんまですねー、3軸ですよ。こういうのがボギー台車なんですねえ」と感心しつつスマホで撮り、メモしていました。

 それで、ボギーというのは、車体の方向とは独立に曲線部などを走れるようにした台車のことで、それを装備した車輌のことをボギー車と呼んだんだ、と説明しておきました。

 20のほうは、全然分かりませんでしたので、帰宅後に亡父の資料類にある「車両記号表 昭和16年(1941年)制定  昭和28年(1593年)改訂分」をひも解いて調べ、昭和32年以降に製造された軽量客車の慣習記号だと知りました。横で読んでいた嫁さんが「慣習記号なんてあるんですねえ、正式な記号じゃないんですねえ・・・」と感心していました。

 この「車両記号表 昭和16年(1941年)制定 昭和28年(1593年)改訂分」は、日本車輌の公式サイトでも公開されていて見られます。こちら
 これを含めた記事群「鉄道知識の壺」は、Nゲージを初めて以降、鉄道知識を学ぶための基本資料として重宝しています。嫁さんもよくプリントアウトして使っています。

 

 さらに嫁さんは妻面の下方に打たれた上図の複数の銘板を熱心に見ていました。

「これ、一番下の右の日本車輌の昭和八年ってのが最初の銘板ですよね」
「そうやな、製造されたときのな」
「その上の日本国有鉄道ってのが、納車先なわけですね」
「そう」
「あとの三つはそれぞれの工場で改造した年の銘板ですね」
「うん、あちこち改造してるんやな」
「旭川って、北海道ですよね?・・・高砂は兵庫県の高砂市ですよね、あと、他で鷹取ってのもよく見ますけど、鷹取はどこかなあ・・・」
「神戸や。須磨区にあった」
「あった、って過去形?今は無くなってるんですか?」
「うん、阪神淡路大震災でやられてな、跡地も市街地復興事業で提供して、工場の機能そのものは兵庫県の網干(あぼし)ってところに移して、いまの網干総合車両所になってる筈」
「ふーん」

 

 スシ28形301号車の隣には上図のマロネフ59形1号車があります。戦前に製造された皇室・貴賓客用の寝台客車で、御料車の一種です。いわゆる「お召列車」を編成したうちの1輌です。戦前からの製造順に1号、2号と付けられたなかの14号御料車にあたり、1938年に国鉄鷹取工場にて昭和天皇の弟宮や貴賓客専用として製造されました。

 マロネフのマは42.5から47.5トンクラス、ロネは戦前の上級寝台車、フは車掌室および制御器を有する客車の意味で緩急車とも呼ばれます。59形の5は鋼製客車、9は3軸ボギー車を意味します。

 戦前、戦後を通じて製造された御料車は、幾つかが埼玉の鉄道博物館や愛知の博物館明治村にて保存されており、外見は公開されていますが、皇室の専用車という特殊性の故に、車内への立ち入りは不可となっています。
 ですが、ここのマロネフ59形1号車だけはイベント等で内部が公開されたことがあります。つまり、車内に入れる可能性がある唯一の皇族・貴賓用客車であるわけです。
 それで、嫁さんが「次の公開イベントに絶対中に入りたい」と言いましたが、私も車内に入りたいです。

 

 プロムナードの一番奥には、上図のクハ103形1号車があります。国鉄の通勤電車の代表格として長く親しまれた形式です。嫁さんも「大阪環状線で最近まで走ってましたよね?何度か乗りましたー」と話しました。

 

 運転席上の表示窓にもしっかり「大阪環状線」とあります。

 103系は、日本国有鉄道(国鉄)が設計し製造した直流通勤形電車の一種で、1963年から1984年までの21年間に3447両が製造され、東京、名古屋、大阪などの大都市および近郊区間にて活躍しました。大阪環状線では1969年からの約48年間を走り、2017年に最終運行便が引退しています。
 上図はそのトップナンバー車で、末期は阪和線で2011年まで活躍し、引退後は吹田工場に保管されていたのを、京都鉄道博物館の開館に際して収容されました。  (続く)

 


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