気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

戦車工場、作ります!! その28

2021年10月17日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン戦車工場B棟内のガントリークレーンの制作の続きです。高脚のトラスにプラ板で側板を貼りつけました。これを二つ作りました。

 

 その二つを組み合わせました。これで高脚のパーツが出来上がりました。

 

 台車にセットしました。

 

 高脚の頂部に天板を貼りました。

 

 クレーンガーダーとの接合部をプラ材でコの字形に作りました。

 

 高脚の片側の側板面にエレベーターを付けるので、その上下用のレールを貼りました。

 

 エレベーターの基部をこのようにプラ棒の組み合わせで作りました。

 

 エレベーターのリフトをレールにはめ込んで、上下するかをテストしました。

 

 リフトは問題なくおさまりました。

 

 台車にプラ棒で手摺を作り、取り付けました。

 

 こんな感じで仕上げました。台車上の視察ステップとします。

 

 エレベーターのリフトにも手摺を付けました。

 

 これで台車部分も完成しました。  (続く)

 

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新たな仲間のガルパンプラモデル事始め その2

2021年10月16日 | ガールズ&パンツァー

 S氏の質問はこうであった。「公式のプラモデル、ぎょーさん売ってますけど、例のブラッツの不評の部分とかは改善されてるんですか?作っても劇中車にならへんとか、部品が足りなくて他から持ってこなアカンとか、そういうのは星野さんたちが作っておられた頃から変わってきているんですか?」と。

 それについては「いやー、どうだろうな・・・」と明快に答えられなかった。大勢としては企業努力がなされて以前よりはマシになってきている部分もみられるが、抜本的に改善されているかと問われれば、肯定には消極的にならざるを得ないからである。
 例えば、プラッツの公式キットは周知のように旧シリーズから現在の新シリーズにリニューアルされているが、新シリーズになってもキット内容は変わらないケースが多い。一部のキットでパーツの差し替えを行なってより劇中車仕様に作れるように配慮されているものの、ズバリで劇中車になる、というケースは殆ど見当たらない。

 公式キットにはファインモールドも参加しており、知波単学園の戦車については元がファインモールドの3Dデータであるのでほぼズバリで劇中車に作れるが、サンダース大付属高校のM4シャーマンや聖グロリアーナ女学院のチャーチルのほうはタミヤからのOEMでキットもそのままなので、ガルパン劇中車との相違点は常につきまとっていた。M3中戦車は後にプラッツに扱いが移ってリニューアルされたが、中身は変わっていなかったので、タミヤの元キットを買うのと本質的には変わりがない。

 そういう現状のうえに、海外の各メーカーから新規に開発されたキットがどんどん出てきて、一部は公式キット化されている。それらのほうがキットの出来も良く、劇中車に近いので製作も容易になってきていると思う。さらに適応キットが各メーカーから次々と新製品で出ている現在においては、適応キットのほうが魅力的に見えたりする。
 タミヤも頑張っておられるけれど、海外メーカーの怒涛の新製品開発攻勢にはとてもかなわない。国際市場にて衰微と減退を繰り返す日本企業の姿が、模型メーカーにも及んでいる情勢を象徴しているような気がしなくもない。

 そうした事柄を述べると、S氏は何度も頷き、三、四の質問を挟んでは私の返答をメモに記し、とにかく熱心に情報収集に打ち込むのであった。そのうえで、こう話しかけてきた。
「やっぱしですね、初心者のボクとしては、プラッツの公式プラモデルを最初に買うよりは、作り易いと言われるこっち(上図)のタミヤのプラモデルを買っていったほうがええんですかね?」

 私がかつてそうであったから、この質問に対しては明確に「それでええと思います。作り易いし、費用的にも安く済む場合が多いので」と答えた。相手は大きく頷いた。

 

 S氏は続いて海外メーカーの製品の陳列(上図)を見て「こっちも色々とぎょーさん出てますねえ、良さげなプラモデルがあったら買って作るのはええですかね?」と問いかけてきた。

 最近は海外メーカーの製品も新しくなるたびに初心者向けを意識してか、作り易いように配慮を重ねている傾向がみえてきているので、品によってはタミヤと大して変わらないレベルのキットもある、お好みで自由に選んでゆけば良い、思ったよりも難しかったなら、それも経験なので、自分でこれを作りたいと思った品を買って楽しむのが一番だと思う、という旨の事を話した。

 話しながら、ガルパンのプラモデルは以前よりも色々と「進化」しているのは間違いない、と考えた。プラッツ発の公式キットの大半も元はドラゴンなどの海外メーカーの製品であるので、初心者レベルであってもタミヤに安直に流れることなく、新製品も増えてきている海外メーカーのキットに意欲的にチャレンジするのも良いだろうと思う。

 今は、とにかく新製品がドンドン出てきているためにガルパンプラモデルの世界も広がってきている。車種によっては幾つもキットが出ていて、ある意味羨ましい状況である。私が製作していた頃は、とにかく選択肢が限られていたなあ、と思い出す。今のほうが制作の環境としても格段に良くなっていると感じる事が多々ある。

 なので、私がS氏の立場だったなら、幅広くキットの情報を集めてチェックし、公式キットやタミヤ製品にこだわることなく、自由自在に好きなように選んで作ってゆくであろう。難しいキットに当たったならば、よき修行の機会と捉えて何とか完成させる方向へと向かって努力するのが私の性分なので、プラッツ製品に関しても周囲の評価は気にせずにドンドン作っていたわけである。

 そのような私の制作の数々の流れをS氏もブログで全部読んでいるわけだから、私の説明が全部理解出来るようで、キット一つ一つの情報についてもいちいち頷きながらメモをとっていた。今回は下見を兼ねた見学であったので、キットの購入はしなかったが、「別にどうしても買いたいものがあるので・・・」と言ってきた。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その27

2021年10月15日 | ガルパン模型制作記

 今回より、内部のガントリークレーンの製作レポートに移ります。建設作業責任者のカチューシャが相変わらず張り切っているので、戦車工場総括責任者の角谷杏も安心してお任せしているようです。

 

 ガントリークレーンは、台車、高脚、クレーンガーダーの3つのパーツから成る形式を採用し、クレーンガーダーは片側を高脚、もう片側を工場内部の支持架に載せるホイスト式天井クレーンの形状に作ることにしました。まずは台車から作り始めることにして、台車の車輪のパーツを上図のトライスターのⅣ号戦車系列の転輪セットから調達しました。

 

 車輪は6個作ります。あとのパーツは全てプラ板からのカットで作りました。

 

 台車部分のパーツ群です。

 

 このように組み立てました。

 

 車輪も全て取り付けました。

 

 台車部分が完成しました。

 

 次に高脚部分を作りました。プラ棒をカットして、組み合わせてゆきました。

 

 両側の主枠部分が組み上がりました。

 

 同じものを二つ作りました。これらが左右のトラス面になります。

 

 それぞれに支持桟を組み込みました。

 

 斜材を組み付けてゆきました。

 

 全ての斜材を組み込んで、左右のトラス面が出来上がりました。  (続く)

 

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新たな仲間のガルパンプラモデル事始め その1

2021年10月14日 | ガールズ&パンツァー

 去る10月8日に共にイオンシネマ京都桂川にてガルパン最終章第3話MX4Dを視聴したS氏は、この9月にガルパンに初めて出会ってハマり、熱狂的なまでに没頭して楽しんでいる、いわゆる新規ファンの一人である。サークルには8月に入ったばかりで、アニメが趣味ということで所属はアニメ部会になっているが、ガルパンにハマった方の常として、プラモデルにも興味を示し、その流れで私たちの模型部会にも参加するようになった。

 現在、サークルの模型部会には2021年10月現在で74名が在籍しており、そのうちの26名がAFV部会に参加するが、ガルパン戦車をメインに楽しんでいるのは私の他にはT氏とI氏の2人だけで、交流サークル仲間のモケジョさん達はコロナ禍下の自粛期間中にガンプラに「原点回帰」していたためにガルパンからは実質的に離れている。
 そんななかでの新規ファンの参加なので、このところ話題にもなかなか上がらなかったガルパン要素が、一気に息を吹き返した感があった。緊急宣言解除を受けて10月より再開された会合でも、S氏が殆ど一人でガルパンの事ばかりを熱っぽく語りまくっていたのであった。

 そんなS氏なので、私のブログも新旧あわせて端から端まで三週間で読破したそうである。それには驚かされたけれど、熱中しているファンならそんなものかな、と考え直したことであった。
 しかし、プラモデルに関しては、45歳になる現在まで全く作った経験が無いそうである。子供の頃はファミコンやゲームばかりやっていて、ゲームからアニメに入って趣味のメインに据えたそうである。ただし、アニメといっても藤子不二雄作品アニメから鬼滅の刃に至るまでのキッズ系が大好きだったそうなので、ガンダムやガンプラにも縁がなく、プラモデルとの接点は全く存在しなかったらしい。

 だから、S氏がガルパンの戦車のプラモを作りたい、と言い出した時、AFV部会では歓迎よりも困惑の声が多かったそうである。大丈夫?作れるんか?という心配が先走ったのであろう。そして、ガルパン関連なら星野さんや多田さんに聞け、というお決まりの展開に至って、AFV部会のガルパン同好会に4人目のメンバーが加わったのであった。

 そして10月8日のイオンシネマ京都桂川での視聴後、S氏が「京都で行きやすくて品物が豊富な模型店を教えて下さい」と言うので、まずは京都駅前のヨドバシに案内した。私の知る限り、ガルパンの公式キットも豊富に揃えている京都の店舗は、京都駅前烏丸のヨドバシと西院のジョーシン1番館、西大路のボークスの3ヶ所ぐらいである。

 上図は10月8日時点の京都駅前烏丸のヨドバシのガルパン公式キットコーナーである。S氏は模型店へ入ること自体が初めての体験であったそうなので、ヨドバシのプラモデルフロアに入った時にはテンションが上がりまくっていたようである。
 そして、上図のガルパン公式キットコーナーの前に立った瞬間には、感動のあまり涙ぐんでいたのであった。が、そのうちに普段の冷静な氏に立ち返ってやおら腕組みをし、横で陳列棚を見ている私に小声で質問を投げかけてきたのであった。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その26

2021年10月13日 | ガルパン模型制作記

 窓の細部の製作レポートの続きです。御覧のように窓は三段から成り、上段が遮光ガラス、中段が採光ガラス、下段が可動窓、となっています。

 

 下段の可動窓を内側から見ました。窓の中央の桟を軸にして両端の筒棒にはめ込んであります。

 

 このように桟の軸によって縦に回転して上下に窓が開くようになっています。

 

 内側からみた下段窓の回転開閉の状態です。クルクル回りますから、どのような開け方も可能です。

 

 窓は二ヶ所にありますので、もう一方の下段窓の框を製作しました。

 

 桟の軸棒を取り付けて窓枠にセットしました。

 

 これで二ヶ所の窓の細部が仕上がりました。

 

 外からみた窓の仕上がり状況です。もう少し工作に手間取るかと予想しましたが、案外スムーズに進んで1時間もかかりませんでした。

 

 最後に透明ガラスを透明プラ板で貼り付ける予定ですが、内装と備品機材の製作を進めてから行うことにしました。  (続く)

 

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ガルパン最終章第3話MX4Dを視聴しました

2021年10月12日 | ガールズ&パンツァー

 去る10月8日、サークルにこの8月に入ったばかりの、新規ガルパンファンのS氏に誘われて、京都桂川イオンモールの中にある上図の「イオンシネマ京都桂川」に行きました。私自身は振動だらけの4Dは落ち着いて観られない性質なので、あまり気乗りがしなかったのですが、S氏が「そんなん言わないでホンマにお願いします、晩飯おごりますよ」というので、それならば、とついて行きました。

 最終章第3話を観るのはこれで5回目ぐらいでした。見落としたシーンや気付かなかった場面などは一切見当たらず、ストーリーが完全に頭の中に入っていることを再確認しました。続きの第4話を早く観たいものだ、と何度も揺れまくるシートの中で思いました。

 

 第1週目の入場特典の「知波単学園 福田の手紙」です。まだ開封していませんが、文面はアニメにも出ていて読声も付くので分かっています。

 この日の入場者は、S氏や私を含めても15人に満たず、50人席のシアターが広々と感じられました。公開初日でこれでしたから、やっぱりガルパンというアニメ自体がピークを過ぎているのだろうな、と思いました。1話ごとに一年余りという長いブランクがあるのが、相当数のファンに飽きられ、他のアニメに行ってしまう流れに繋がっているのも大きいだろうな、と改めて考えました。ガルパンはオワコンだ、とよくアニメファンの中では言われるのも、仕方の無い成り行きだろう、と思います。

 私自身も、いまは「ゆるキャン△」のほうで色々楽しんでいますから、この9月に初めてガルパンを知り、一気にハマって熱狂的ファンになっているS氏の現状が、とても眩しく感じられます・・・。

 

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戦車工場、作ります!! その25

2021年10月11日 | ガルパン模型制作記

 レンガ壁面の製作に続いて、今回からは窓の細部の製作レポートを、とダージリンが依頼しました。カチューシャも短く応じて説明に入りました。
 御覧のように2つの窓の下段が自在に開かれています。その可動部の製作についても紹介します。

 

 作業前の、2つの窓です。窓枠のみが仕上がっていました。中の枠は差し込んだだけで接着していませんでした。これは枠内に框や板を貼る過程で接着固定する予定だったからでした。

 

 窓は、三段に分けて中央で分けて、6面にしてありました。

 

 上段は遮光ガラス面としてプラ板を貼り、中段は固定の採光ガラスとしてプラ角棒で框を作りました。明治期のレンガ建築にはこのようなタイプの窓が多く、私の職場に幾つかある国指定登録文化財の明治期レンガ建物の窓も同じ形式です。それらを参考にしました。 

 

 2つの窓を同じように仕上げました。

 

 残る下段は、上下に回転する可動窓に作る予定でした。

 

 中段と同じように框をプラ角棒で作りました。上図のようにスコヤを治具として片側2面ずつを作りました。

 

 双方を貼り合わせました。この框を2つずつ、2セット作りました。

 

 2つのセットは、軸棒となる丸棒を桟代わりにして接着し、この軸棒を両端で受ける筒棒の金具もプラ材で作りました。

 

 窓にはめ込んでセットしました。桟代わりの軸棒によって上下に回転して開閉する仕組みです。明治期のレンガ建築の窓は、上下にスライドする形と、中央の桟軸によって上下に回転する形とが大半を占めており、観音開きのタイプはあまり見られません。

 なぜかというと、レンガ建築には大抵の場合雨庇が付きませんから、雨が降ってきた場合、観音開きの窓だとストレートに雨が内部に降りこんでしまいやすいです。なので、下段の窓だけを上げ下げするスライド式か、上下回転式で窓が庇の形にもなる方式のいずれかが、雨天時の室内への降りこみが防げるために多く用いられたわけです。

 特に日本では、建物の窓は左右にスライドさせる連子窓のタイプ、窓の半分だけを上に半回転させてはね上げる蔀戸のタイプの2種類が古代以来の伝統的な窓の設えとして続いていたため、明治期の洋風建築の窓にもそれらが継承されて上下スライド式か、上下回転式の2方法が採られていたのだろう、と思います。  (続く)

 

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今出川通の南北10 相国寺とラーメン

2021年10月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の相国寺伽藍の中心堂宇である法堂(はっとう)です。本来の中心である仏殿が再建されなかったため、仏殿も兼ねていて本堂とみなされています。創建以来4度も失われ、現在の建物は慶長十年(1605)に豊臣秀頼の寄進によって再建されたものです。国内に現存する禅刹の法堂建築としては最古の遺構であり、国の重要文化財に指定されています。

 

 法堂の内陣には、現在は本尊の釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像、迦葉尊者像がまつられています。天井にある蟠龍図は狩野光信の手になるもので、特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれています。

 

 法堂とは、禅宗寺院において僧侶が仏教を講義する建物です。古代寺院の伽藍の講堂(こうどう)に相当します。今でいえば大学の講義室にあたるでしょうか。

 

 法堂に向かって右側、東側に高くそびえるのは鐘楼です。山内の諸堂のなかで最も目立ちますが、平成22年(2011)に再建されたばかりです。正式名称は天響楼といい、中国の開封にある大相国寺により二つ鋳造された梵鐘のうちの一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されて懸けられています。

 

 法堂の右脇から参道を通って奥の庫裏の横を通りました。庫裏は香積院とも呼ばれ、江戸期の文化四年(1807)の再建です。京都府の有形文化財に指定されています。

 相国寺の主要堂宇は普段は非公開で、春秋にのみ法堂、方丈、開山堂の3棟が特別公開されます。今回はその時期では無かったので、行先は、ひとつだけでした。

 

 その行先とは、寺域の北東寄りに位置する承天閣美術館でした。 相国寺とその塔頭(鹿苑寺、慈照寺など)の文化財を収蔵展示する目的で昭和59年(1984)に開館した施設です。その翌年に初めて見学に行って以来、10回ぐらいは訪れていると思います。

 

 なぜかというと、有名な山外塔頭の鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)の主な寺宝、文化財は殆どこちらに収蔵されているため、鹿苑寺や慈照寺へ行っても見られない貴重な品々が見学出来るからです。
 いまでもそうですが、鹿苑寺や慈照寺へ行って見ることが出来るのは、建物と庭園だけなので、それだけでは鹿苑寺や慈照寺の歴史や価値が分かりにくいのです。

 

 ですが、今回は珍しく相国寺自体の歴史と寺宝にスポットをあてた特別展示を行っていました。この種の展示はなかなか実施されないので、今回はもともとこの特別展示を見に行こうと決めての外出だったのですが、同行者に相談したところ、京都御苑の散策と京都御所の一般参観にも行こう、と提案され、今回の歴史散策となったものです。

 

 特別展示の内容は、室町幕府と足利家の歴史をも学べる立体的な構成になっていて結構色々学ぶことも多かったです。同行者は初めての入館で、館内に復原されている鹿苑寺の夕佳亭(せっかてい)」や、伊藤若冲筆による重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画」の一部、鹿苑寺不動堂の安置像であった不動明王立像などを興味深そうに見ていました。

 館内は撮影禁止でしたが、第一展示室と第二展示室の間にある上図の中庭の石庭だけは撮影可でした。同行者が手前の石塔を指して「なんだか古そうな石塔ですね、室町時代のものなんですか?」と尋ねてきましたが、脇に説明板があるのに気付き、読んでいました。

 この石塔はかつて鹿苑寺の境内にあったものですが、石塔自体は朝鮮の高麗時代(918~1392)の作です。足利義満が高麗および李氏朝鮮と交流を始め、それから約1世紀ほどの間に日朝貿易が展開されていたため、その時期に請来されたものではないかと思われます。

 

 承天閣美術館の見学を終えて相国寺を辞した後は、同行者のすすめで「寒梅館」の東にある、同志社大学学生御用達のラーメン専門店「麵屋あくた川」に行きました。

 私自身はラーメンが好きで京都のたいていの有名店は行っていますが、あくまでも京都のラーメンを出すお店が殆どでした。なので、東京の家系ラーメン「武蔵屋中野本店」出身の店主が経営する「あくた川」系の店にはこれまで入ったことがありませんでした。

 

 ですが、同行者は同志社大学出身なので、在学中にはまだ無かったこのお店には大変興味があったようで、朝から三度ぐらいは「帰りに「あくた川」のラーメン食べましょうよ、絶対。忘れちゃダメですよ」と念押ししていました。

 この「あくた川」は、現在は5号店までが出ていて京都市内ではけっこう知られるようになっています。4号店および5号店は百万遍の勤務先大学の近くなので時々前を通りますが、入ったことはありません。同じ百万遍の「中華そばたく味」の元祖京都風のラーメンが大好きでそちらへよく行くからです。

 

 ですが、同行者が絶対に入る気でいますから、良い機会かなと思って初めて入りました。

 

 いただいたのは「らーめん並」700円でした。同行者が、ラーメン店の基本の味をまずは味わう、という主義なのでそれに合わせました。関東の家系は濃くて辛いんじゃないかと予想していたのですが、意外にサラッとしていました。お酢を少しかけると更にさっぱり感が増して美味しかったです。

 特に麵は初めて食べた気がしました。この中太ストレート麵、京都ではあまり味わった記憶がありませんでしたので、店員さんに訊ねてみたところ、東京の家系ラーメン店に卸している酒井製麺の製品だと教えて下さいました。
 同行者はかなり気に入ったらしく、「今度は4号店か5号店に行きましょうよ」と提案してきました。それもいいかな、と思って頷いたことでした。  (了)

 

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戦車工場、作ります!! その24

2021年10月09日 | ガルパン模型制作記

 扉口のある壁面のレンガ貼りに移りました。こちらはレンガ面の面積が少ないのですが、レンガのサイズも減らしたり、寸法をカットするなどの調整が必要だったため、作業量はあまり減りませんでした。

 

 茶紙をカットして作ったレンガを、両面テープの上に丁寧に貼りつけました。一段ごとに寸法を確認し、ズレが出ていないかをチェックして、異状がなければ二段目に進みました。上図のように一段に3、4枚を貼りましたが、交互にずらして貼ってゆくので、見栄えも確かめながら進めました。

 

 上図の状態になるまで3日かかりました。1日あたり2時間ぐらいをかけてチマチマ進めましたが、思うようにスピーディーには進みませんでした。気力と根気が試される細かい作業なので、30分を過ぎれば次第に疲れてきて、作業スピードが遅くなってゆくのでした。

 

 扉口の両側のレンガを全て貼るのに5日を要しました。

 

 まだ上部の細い範囲が残っていましたが、この部分のレンガ貼りはサイズ変更が必要でしたので、手間取りました。

 

 ですが、なんとか1日で仕上げました。

 

 これで扉口のある壁面も外装が仕上がりました。

 

 全体観を確認するために、床面と二方向の壁面の3枚のパーツを仮組みしてみました。

 

 床面と窓のある壁面が共にB4サイズなので、寸法が分かり易いです。あと半分もB4サイズのスチレンボードで組み上げて追加すれば良いので、作業そのものは楽なほうだと思います。

 

 何日もかけて苦労して作ったレンガ壁面ですが、なんとか見られる状態に仕上がりました。手作り感を大切にしたので、若干の歪みやズレが各所に見られるのは想定内でした。

 

 スタジオラマとして計画したので、壁は二方向のみです。今後は内装を進めて備品や機材などを配し、内部でのガルパン戦車の組み立てを進めながら、製作シーンを見て楽しめるようになれば、と思います。  (続く)

 

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今出川通の南北9 室町殿遺跡から相国寺へ

2021年10月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大聖寺で「花の御所」石碑を見た後、烏丸通に戻って北へ進み、左手の同志社大学の施設のひとつ「寒梅館」の敷地内に入りました。同行者の出身大学ですから、同行者は当然ながら「寒梅館」にも馴染みが深いようでした。普通に施設の西出口へ進むと思いきや、脇にそれてレンガ造りの塀に沿って北へ進み、上図の北東隅の区画へ入りました。私はただついていくだけで済みました。

 

 この区画は、「寒梅館」敷地内の発掘調査にて出土した室町殿つまり足利将軍家御所の遺構を保存展示しているエリアです。御覧のように案内板や解説板が各所に設けられて、展示遺構の概要が分かるようになっています。

 

 保存展示遺構は、屋外レプリカ展示とガラスケース内保護展示の2方法にて整備されています。上図は屋外レプリカ展示となっている室町期の石組水路遺構です。遺構の実物は埋め戻されており、その忠実なレプリカを位置を移してこのように展示しています。

 

 同行者はこちらの遺跡についてはよく知っていて、学生の頃から見ているそうです。ただし、この「寒梅館」の範囲が室町殿の遺跡だと思い込んでいたそうで、その南側に実は室町殿の主要部が広がり、その殿舎の一部の岡松殿が現在の大聖寺の前身であったことは、今回私が教えるまで知らなかったそうです。

 

 私はここの展示遺構自体は今回初めて見たのですが、それまでに発掘調査報告書や京都市考古資料館の資料などを何度か呼んで遺跡の概要は把握していましたから、上図のガラスケース内保護展示の石敷き遺構を見て、ここが足利義晴再築の時期の北東隅の社の辺りか、と理解出来ました。

 

 見事な石敷きです。古代以来、建物や庭園の周囲にこうした川原石などがびっしりと敷かれて、美観と水はけ機能の二つの役割を果たしたとされています。古代でいえば飛鳥池遺跡や飛鳥寺西門前などの広い石敷きが有名ですし、中世では建物の周囲の犬走り部分や敷地内の通路空間を石敷きにしているケースが一般的です。これは江戸期までずっと続きますから、発掘していて石敷きが出土すれば、なんらかの建物が近くにあっただろう、と推定されるわけです。

 

 なので、室町期の石敷きが室町殿遺跡の範囲内で見つかったのならば、間違いなく足利将軍家の室町殿の関連施設に関係があるだろう、と推察されるわけです。
 室町殿の往時の景観は、洛中洛外図などにも描写されており、ある程度の理想化表現が施されるものの、建物の配置や庭園などの存在は、実際の発掘調査成果とほぼ一致することが分かっています。

 

 発掘調査当時の遺跡図面を見ると、二つのガラスケース内保護展示の遺構は原位置をとどめていることが分かります。遺跡範囲の赤枠の右側に縦長の長方形と横幅がやや長い方形の部分が並びますが、それがいまの二つのガラスケース内保護展示遺構です。
 そして、さきに見た屋外レプリカ展示の石組水路遺構の現物は、現在の展示位置よりも西側にあることが分かります。そこは今は「寒梅館」の北側の通用口の駐車場になっているので、遺構展示に際して位置を移したわけです。

 

 遺構の解説文です。遺跡は2004年の「寒梅館」の新築に先立って2002年から2003年にかけて同志社大学が発掘調査して確認しています。その詳細は、同志社大学歴史資料館刊行の「同志社大学歴史資料館調査研究報告第4集」に「学生会館・寒梅館地点発掘調査報告書 : 室町殿と近世西立売町の調査」としてまとめられています。

 

 室町期の歴史に関心がある私にとっては、実に興味深く楽しい場所でした。室町殿遺跡の遺構は他にも素晴らしいものが幾つか検出されていますが、市街地化の弊害により殆どが埋め戻されてしまい、このように保存展示がなされにくい傾向があります。残念なことです。

 

 「寒梅館」の北を通る上立売通を東へ進み、相国寺の西門に行きました。いまは同志社大学今出川キャンパスの北に境内地が隣接しますから、同行者にとっても馴染みの深い寺であったと思うのですが、話を聞いてみると「境内を通ったのはしょっちゅうだったけれど、相国寺そのものはよく知らないし、お堂の中へ入ったこともない」ということでした。いかに平安時代だけに興味を持って熱中していたかがうかがえます。

 

 なので、相国寺に関しては私が案内役になりました。

 相国寺は、室町幕府第3代将軍の足利義満が花の御所の隣接地に足利家の菩提寺として永徳二年(1382)に発願創建した臨済宗の禅刹です。寺号は足利義満の職であった左大臣の唐名「相国」にちなみ、また当時の中国の明の五山制度の始まりの寺院である大相国寺にもあやかったとされています。

 その後、足利義満は権勢にものをいわせて至徳三年(1386)に五山の制度を定め、京都と鎌倉のそれぞれに五山を制定したうえで、まだ建設中であった相国寺を京都五山の第二位に定めています。寺が竣工したのはその6年後の明徳三年(1392)でした。京都五山の第一位はこれも足利家創建の天龍寺、第三位は足利家が保護した鎌倉幕府ゆかりの建仁寺でありましたから、五山の制度というのは、要するに足利家および室町幕府の宗教上の布石であったわけです。

 なので、創建当時の相国寺は足利義満の権勢をバックに一大伽藍を揃え、塔頭は50余にも及んで隆盛を誇り、応永六年(1399)には七重大塔が歴史上最高の360尺(約109メートル)をもって空に聳え、それまでの平安京内外の諸寺の塔を一気に凌駕しました。いまでは観光地として有名な鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)も相国寺の山外塔頭に連なっています。

 

 相国寺はその後の室町幕府の流転混乱と衰退の影響を受けて衰微に向かい、応仁の乱では戦場に含まれて被害を蒙り、多くの堂舎を失いました。戦国期までに4度も全焼の憂き目にあいましたが、復興はその都度なされていて、室町幕府の底力がいかに大きかったかがうかがえます。

 その後の伽藍は江戸期の天明八年(1788)の大火で法堂以外が失われてしまい、文化年間(1804~1818)に再建されたのが現存の伽藍の大部分です。
 ですが、伽藍の正門たる三門、および本堂にあたる仏殿は再建されないまま、いまも土壇のみを残しています。上図は仏殿跡の土壇です。

 

 仏殿跡の土壇の中央の通路を進みました。左手には江戸期の万延元年(1860)に再建された経蔵が見えました。かつて同位置に建てられていた宝塔の外観を踏襲して宝塔形式で建てられています。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その23

2021年10月07日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン戦車工場B棟のレンガ壁面の制作の続きです。レンガを貼り始めてから一週間で、上図の状態になりました。その時点で100枚余りのレンガを無駄にしました。全部が全部綺麗に貼れるわけはなく、位置がズレたり、サイズが合わなかったりして、仕方なく剥がすことになりました。そうすると、茶紙がボロボロになって再利用が出来なくなるのでした。

 

 なのでレンガのカットをさらに重ねてドンドン追加してゆきました。これだけで1時間を軽く超えましたから、このカット作業だけで1日が終わってしまうのでした。

 

 毎日、ひたすらチマチマ貼っていました。職場でも休憩時間にやっていましたから、同室の教職員仲間全員がこの作業を一度は見て、「星野さん何を作ってなさる?もしかしてここの学舎?」などと尋ねてくる方もいました。確かに職場に幾つか点在する明治期以来のレンガ建築の学舎がありますが、その外見を参考にしてるだけで、そのまま学舎を模型で作るわけではない、と訊かれるたびに説明しました。

 

 とにかく一枚一枚を丁寧に並行に、定規やスコヤで測ってチェックしながら慎重に貼り続けました。どこかで1枚でもズレると、その続きのレンガがみんなズレてきてしまうのですが、十数回はそういう失敗をやってしまって、貼ったレンガを剥がしてもう一度貼る、といったことの繰り返しでした。

 

 作業開始から19日目の状態です。

 

 作業開始から22日目の状態です。

 

 とにかく手間も日数も想定以上にかかりましたが、出来栄えは御覧の通りです。

 

 拡大して撮りました。ちゃんとレンガが壁面より浮き出ていて立体感はバッチリでした。実際のレンガ壁の状態に近い仕上がりになりましたので、いろいろ苦労した甲斐はあったと思います。
 ですが、現時点でまだ建物が半分だけなので、もう半分を作る際に、同じようなレンガ貼り作業をやらなければなりません・・・。  (続く)

 

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今出川通の南北8 近衛邸跡から大聖寺へ

2021年10月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都御所の参観を終えて清所門より退出し、築地塀ぞいに北へ進みました。

 

 京都御所の西辺築地の一番北の門、皇后門(こうごうもん)です。名前の通り、後宮専用の出入口として使用された門です。その内部には皇后宮常御殿などの施設群がありますが、通常は非公開です。

 同行者は、2005年の安政御造営150年記念、2009年の天皇皇后両陛下御結婚満50年記念、の二回にわたって皇后宮常御殿の一般公開に行ったそうです。その際にこの皇后門(こうごうもん)は開かれたのか、と尋ねたら、「いいえ、今日と同じで清所門からの出入りでしたよ」と答えました。

 

 皇后門(こうごうもん)の北の辻を左折して西へ進み、上図の乾御門を見ました。京都御苑の西辺の4つの御門のうち、最も北に位置しています。

 これも江戸期の門なんだろうね、と同行者に聞くと、「でしょうね、位置は変わってるけれどね・・・」と答えました。位置が変わってるとはどういうことだ、他からの移築なのか、と問い返すと、「移築といっても、50メートルぐらいですよ。もともとは乾御門はもうちょっと内側に建っていたんです」との答えでした。

 同行者の説明によれば、京都御苑の四囲の九つの御門のうち、江戸期からの位置を保っているのは東の寺町御門と西の中立売御門の二ヶ所だけで、あとの七つの御門は現在地より内側に位置していたそうです。あの蛤御門も実は位置が移動していて、もともとは50メートルほど内側に南向きで建っていたそうです。
 これらの江戸期以来の各御門を、明治十年に明治天皇の指示により京都御苑を整備した際に四方の外郭線上に移築したのが、現在の状態であるそうです。

 

 乾御門から折り返して、北側に広い敷地跡を示す上図の近衛邸跡へ行きました。

 

 現地の案内板です。近衛家は、藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の嫡流にあたり、公家の五摂家の筆頭で、明治期以降の華族の公爵家のひとつです。初代は藤原忠通の四男の基実で、平清盛の娘と結婚して平家が朝廷に権勢をおよぼす流れを作った張本人として知られます。

 近衛家は、藤原北家が天皇家の外戚として長く摂関職を務めた歴史を反映してか、明治から昭和においても、人臣で最も天皇に近い地位にある家とされました。
 なので、第29代で首相も務めた近衛文麿は、唯一、昭和天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったそうですが、国家総動員法などの制定によって日本を太平洋戦争に突き進めた戦争犯罪人の一人としてGHQにより告発指定されたため、それを屈辱として服毒自殺しています。

 現在の当主は第31代の近衛忠煇氏で、日本赤十字社社長などを務めています。先代の近衛文隆氏の妻の養子として肥後細川氏から入った方で、政治家で首相も務めた細川護熙氏の実弟にあたります。

 

 近衛邸跡にいまも残る庭園の池の跡です。水は無くなって久しいようですが、さきに見てきた九條邸跡の庭園の九條池に対し近衛池とよばれています。池の周囲には「近衛桜」と呼ばれるしだれ桜があり、お花見のシーズンには近隣の市民でにぎわうそうです。

 近衛邸の屋敷などの建物は、いまは全て移築または撤去されて何もありません。屋敷の江戸期の政所御殿は奈良の西大寺に寄進されて愛染堂となり、京都の東福寺塔頭の毘沙門堂勝林寺には屋敷の大玄関が移築されています。ほかに愛知の西尾城歴史公園には近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されています。

 

 近衛邸跡から京都御所の北側築地塀沿いの通りを西に進み、上図の朔平門(さくへいもん)を見ました。御所の真北に位置する門で、かつては姫宮御殿や皇后御常御殿などに勤めた宮中の女官達の通用門であったそうです。

 

 朔平門(さくへいもん)の北へ折れて今出川通へ向かいました。右手に上図の桂宮邸跡の築地塀と表門が建っていました。

 

 桂宮邸跡の表門から少し北には、上図の勅使門が建っていました。奥に見える門は今出川通に面した今出川御門です。桂宮邸の屋敷は二条城本丸に移築されて本丸御殿として扱われており、また邸宅跡には庭園および池が残っていますが、現在の邸宅跡は宮内庁職員宿舎の敷地として使われていて、内部は非公開になっています。

 桂宮家は、安土桃山期の正親町天皇の第一皇子である誠仁親王の第六皇子・智仁親王を祖とし、12代を数えましたが、12代目の仁孝天皇第三皇女淑子内親王に継嗣がなく断絶しています。なお昭和期の桂宮家とは無関係です。

 この桂宮邸跡から今出川御門を出て、京都御苑の見学散策を終えました。

 

 それから今出川通を西へ進んで烏丸通との交差点で右折、北へ少し進んで上図の大聖寺へ行きました。同行者はこの寺に入るのは初めてだったそうで、「何かあるんですか?」と聞いてきました。この質問には面くらいました。

「・・・君はすぐ向かいの大学に4年間通っていたのに、このお寺のこと、全然知らへんの?」
「・・・うん・・・、勉強不足で御免なさい・・・」
「いや、謝らなくてもええけどな・・・、大学では平安期の王朝文学と朝廷空間を調べてたんなら、室町期の歴史には興味が無かったってことか」
「うん・・・、えっ、じゃあ、このお寺は室町時代の史跡なの・・・?」
「そうです・・・、入ってみればすぐに分かります・・・」

 

 大聖寺の門をくぐってすぐ右手に上図の石碑があります。同行者は早速石碑に近寄って、碑面の刻字を「花の御所」と正確に読み取って、次の瞬間に「えっ!」とびっくりしていました。
「花の御所って、室町時代の足利将軍家の幕府のこと?」
「そうです」
「ええー、知らなかった!ここが室町幕府の御所の地だったのかあ・・・、道理でここの西に室町通なんて通りがあるわけだ・・・」
「室町幕府の御所の正門が面した通りだったから、室町通の名が付いたんですよ・・・」

 この大聖寺は、現在は御寺御所とも呼ばれる、天皇家ゆかりの尼門跡寺院です。開基は日野宣子といい、足利義満の正室日野業子の叔母にあたります。日野宣子は光厳天皇の妃となり、光厳天皇の没後に出家して無相定円と名乗りました。
 足利義満は、ここ花の御所内にあった岡松殿に無相定円を住まわせ、彼女が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にして供養しました。その寺が大聖寺であり、いまもその位置をほぼとどめています。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その22

2021年10月05日 | ガルパン模型制作記

 今回より、ガルパン戦車工場B棟のレンガ壁面の製作レポートを綴ります。B棟の製作において最も手間がかかった部分でしたので、三回に分けて述べます。

 

 レンガの材料は、100均ショップで購入した、A4サイズのカラー画用紙の茶色1枚でした。

 

 これを長さ10ミリ、幅3ミリにカットしました。画用紙の長辺側を幅3ミリにカットして、これを10ミリずつカットする、という手順でのべ約3000枚のレンガを作りました。

 

 地味ですが時間がかかるので、とにかく根気の要る作業でした。画用紙とカッターは職場にも持ち込んでお昼の休憩時間にもチマチマとカットしていました。家でもチマチマとカットしていました。とりあえず最初の1000枚をカットするのに12日を要しました。

 

 カットしたレンガを、上図のように壁面に貼ってゆきました。まず壁面に100均で買った両面テープを貼り、剥離紙をはがして接着面を出し、レンガを貼る、という段取りで進めました。

 

 レンガのカット寸法に微妙な差があるため、手作りレンガ感が出ていました。並びが不揃いでしたが、この程度で良いと割り切って作業を進めました。

 最初はタミヤやセリアのレンガシートをベタっと貼ろうかと思いましたが、印刷されたレンガ壁というのはレンガとしての質感に欠けますし、単なる壁紙の一種に見えてしまいますので止めました。
 次いで、梅原屋のNさんに教えてもらった、スチレンボードにレンガ模様をスジ彫りして溝をコンパウンドで埋める、という表現手法を不要ボードの切れ端で試しにやってみましたが、自身の腕が下手過ぎるため、レンガの質感をなかなか出せずじまいでした。

 それで色々考えた末、レンガ壁というものはレンガが浮き出てみえるのが一般的だという点に思い至り、それならば壁面にレンガを貼りつければ、浮き出てみえるのではないかと考えて、それを試してみたら割と良い雰囲気でした。この方法でいってみよう、と決めた次第でした。

 

 とにかく丁寧に、慎重に、一枚一枚の貼り位置を確認し、時に定規で寸法をチェックしながら、貼ってゆきました。上図の範囲だけで1日かかりました。思ったよりも気力を消耗する細かい作業なので、1日あたり2時間までが私の限度でした。それ以上続けると疲労がきて、眠くなってしまうのでした。

 

 毎日、チマチマと貼り続けました。

 

 これだけで4日かかりました。一週間ぐらいでいけるかな、と予想しましたが、一週間では壁面の半分にも及びませんでした。  (続く)

 

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今出川通の南北7 京都御所 下

2021年10月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 建春門(けんしゅんもん)から参観順路を北へ進み、上図の小御所(こごしょ)の横を通りました。この建物はけっこう新しい感じがするなあ、と思っていたら、同行者が「昭和33年の再建です。前の建物が昭和29年に鴨川の花火が燃え移って焼失したので・・・」と、察したかのように説明しました。それを聞いて少しガッカリしました。

「すると、あの慶応三年だったか、明治の王政復古後の最初の会議・・・、ええと、確か大政奉還後の徳川慶喜の処置と徳川家領の辞官納地が決定された「小御所会議」が開かれた建物はもう無いわけか・・・」
「はい、残念ですよね。歴史的な会議の場所でしたのにね」

 

 小御所(こごしょ)は上図の庭園、御庭池(おにわいけ)に面して東面します。池を中心とした回遊式庭園の体裁をとっていますが、仏教の浄土系庭園の姿と大して変わりはなく、御所の東に位置し、東方薬師瑠璃光浄土の清浄空間を意識して造成されているものと思われます。

 

 御庭池(おにわいけ)の西辺は洲浜となっています。その中央あたりから東へ突き出て並ぶ列石は、船着への飛び石です。左奥に見える大きな建物は御常御殿(おつねごてん)です。
 この御庭池(おにわいけ)の造りは、さきに見てきた閑院宮邸跡の庭園と同じで、つまりは皇室系の庭園の特徴を示しています。

 

 小御所(こごしょ)の北に廊下で繋がる御学問所(おがくもんじょ)です。江戸期の建築ですが、平安復古調の建物ではなく、当時の御殿建築の一般的な形式にて建てられています。城郭の御殿建築に通じる要素が随所に見られますが、それよりもこの建物が、慶応三年(1867)に明治新政府が発した「王政復古の大号令」 の宣告の場所であったことが、歴史的には興味深いです。

 ですが、「王政復古の大号令」 という大変に重要な宣言は、明治天皇も出御なさってのことでしたが、なんで紫宸殿でやらなかったんだろう、と感じました。それを話すと、同行者は「皇室における最重要の公的儀式には該当しなかったからでしょう」と答えました。
 では最重要の公的儀式とはどういうものか、と聞き返したら、「天皇の即位とか、元服や立太子とか、大嘗会とか節会とか、そういう皇室特有の儀式ですよね」と説明してくれました。なるほど、政治的な事柄とは区別しているのか、と気付きました。

 

 北への参観順路は、上図の御常御殿(おつねごてん)の西側を通り、御庭池(おにわいけ)の北に繋がる御内庭(ごないてい)の所で折り返します。御常御殿(おつねごてん)は普段の天皇の住居空間にあたりますが、儀式や対面の場としても使われるため、表向きの紫宸殿や清涼殿と大して変わらない構造、格式にて建てられています。

 外見だけ見ていると、江戸期には一般的だった御殿建築の様相を示していて、特徴はあまり目立ちません。ですが、同行者の説明によれば、この御常御殿(おつねごてん)のみが、内部空間の全ての部屋が畳敷きであるそうです。

 

 御常御殿(おつねごてん)には幾つかの小殿舎が付属しています。上図右の建物もその一つで、迎春(こうしゅん)と呼ばれます。
 私は最初「げいしゅん」と読んでしまい、同行者に「こうしゅん、です」と訂正されました。孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせたと聞き、要するに天皇の書斎だな、と納得しました。

 

 迎春(こうしゅん)の北に並ぶ御涼所(おすずみしょ)の屋根が、御内庭(ごないてい)への通用門の奥に見えました。御涼所(おすずみしょ)は、その名前通り、京都の暑い夏を快適に過ごすための建物です。他と比べて風通しが良くなるような構造になっているそうです。

 ここまでが、今回の一般参観路の北限でしたので、折り返して御常御殿(おつねごてん)の西側まで戻り、それから南側に回って、清所門までの帰路に入りました。

 

 御常御殿(おつねごてん)の南側にて私の先を進む同行者。昨年秋にどういうわけか、嫁に来てくれたモケジョさんです。模型のほかに歴史や伝統文化がとても大好きな、いわゆる歴女です。特に京都御所が大好きなファンで、今回も色々詳しく説明しながら案内してくれましたが、特に御常御殿(おつねごてん)がお気に入りだそうです。

 

 御常御殿(おつねごてん)の南側で立ち止まって、建物を眺め続けていた同行者。大学時代に王朝文学と朝廷空間の関連性について研究していたそうですが、朝廷空間の現存例として特に参考資料に選んだのがこの御常御殿(おつねごてん)だったそうです。
 なぜかというと、建物の外も内も天皇家の私的空間としての装いで統一されている御常御殿(おつねごてん)こそが、天皇家の私的空間を舞台とした王朝文学たとえば源氏物語などに描かれる場所のイメージに最も近いから、だそうです。

 

 なので、私よりも源氏物語に親しんでいて詳しくもある同行者にとっては、この御常御殿(おつねごてん)が光源氏の六条院(ろくじょうのいん)とかに見えたりしてとても楽しいのだそうです。彼女の学生時代の楽しかった思い出が、いまも鮮やかに生きている、のだそうです。

 それで、立ち止まったままの同行者を、少し離れたところで見守りつつ、のんびりと待ちました。

 

 御常御殿(おつねごてん)の西に隣接する御三間(おみま)も、時間をかけて眺めている同行者でした。どういう建物かと尋ねると、なにか楽しそうに、「天皇家の四季の行事の場となったところ。例えば涅槃会とか、茅の輪くぐり、七夕、盂蘭盆とか・・・」と答えてきました。

 それらの四季の行事は、一般市民は寺社などへ行ってやっていますが、皇室は行事専用の建物を持っているのか、と感心しました。身分のこともあって社寺へ気軽にお出ましになれないから、御所のなかにこういった催事の場を設けたんだろうな、と思いました。

 

 御三間(おみま)を見終えたところで参観路は終わりとなりました。上図の清所門より退出して、御所の築地塀の外に出ました。同行者の詳しい解説案内のおかげで、学ぶことも多くて大変に楽しかった、初めての京都御所参観でした。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その21

2021年10月03日 | ガルパン模型制作記

 扉口のある壁面の製作の続きです。3ミリのプラパイプと2ミリの丸棒を使って、中央部の仮の支持柱を作りました。

 

 中央部の仮の支持柱が仕上がりました。B棟は建物の半分ずつをユニット方式で作りますので、半分の建物の片側は壁面がありますが、もう片側には何もないので、いざというときに支えるものがありません。仮に屋根も付けるとなれば、どうしても臨時の支持材が必要と名乗ます。そのための仮の支持柱でした。

 

 続いて、同じ3ミリのプラパイプと2ミリの丸棒を使って、扉のヒンジ部分を作りました。

 

 こんな感じで作りました。

 

 3ミリパイプの中に2ミリ丸棒を仕込んで5ミリほど突き出したものを4個、これを通す筒として3ミリパイプを4個作りました。

 

 このように両者を合わせるとヒンジが出来上がります。普通は羽根部分も作るのですが、ここでは軸棒部分のみとして、それぞれを扉口と扉とに付ける方法でやってみました。

 

 扉のほうには、このように3ミリパイプの筒を付けました。

 

 左右とも同じように取り付けました。寸法と位置を間違うと全てがズレてしまうので、何度も定規やスコヤで計測して確認し、接合状態の遊びを0.5ミリ設けて取り付け位置を算出しました。

 

 扉口のほうにも左右の上下に位置を定めて、3ミリパイプの中に2ミリ丸棒を仕込んだ軸棒を取り付けました。

 

 接着前に、マスキングテープで仮留めした状態で、扉のはめ込みリハーサルを3度ほど繰り返しました。

 

 接着固定が完了しました。寸分の狂いもなくピッタリとおさまりました。

 

 かくして左右の扉もこのとおり、観音開きに開きます。ヒンジ部分は上から差し込んではめ込むだけですので、扉を上に持ち上げれば、そのまま外せます。設計段階にて、なるべく取り外し自在の扉を作りたいな、と思って色々考えて、この方法に落ち着いた次第でした。
 全てを自作で作るのは大変ですが、あれこれ悩んで試行錯誤を重ねる分、面白さも増してまいります。  (続く)

 

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