護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

葫蘆島からの引き上げ

2007年01月09日 17時45分02秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  葫蘆島からの引き上げ
            
私は実戦に参加する歳ではありませんから、当時の一学生としての戦争体験ですが、政治が介入した戦争というのは、個人としては何の利害もない人々が殺しあう行為です。それが普通の国民にどの様な影響を与えるのか、この簡単なことが、愚かな世界の指導者たちには判らないのでしょうか。

 先日、小学校六年生で三年生の妹と二人だけで返って来た弟が、散歩の途中立ち寄り、少し当時を語ってくれました。

 葫蘆島よりの引揚げ最終船に子供だけで乗船していたのは、弟たちのグループでは自分たちだけでした。日本上陸後は、子供だけで家族ではないからと、家族としての援護金も貰えず、孤児だからと施設の紹介もなく、今の拉致家族の方とは偉い違いだと笑っていました。
 又、前々ページの地図を見て頂いたら分かりますが.朝鮮・満州・ソ連の国境地帯から葫蘆島まで幼い二人がどの
様にして移動したのか不思議でなりません。
 帰って来た兄妹は、それは凄い格好で、栄養失調状態。
体中は疥癬であちこちから膿みが出ていました。その疥癬兄妹が抱き合って一日泣いて泪も涸れ、かえって気分転換ができたと、今考えればそう思います。

 ここで不思議なのは、兄妹で逃避中に妹を置いて行けという中国の家庭が多くあったという事実です。弟は、「中国の方は、なぜか子供、特に女の子を欲しがり、泣く子を殺すよりはと、中国の家庭に置いてきて、五升程の粟や雑穀と交換した家族も有った。」「栄養失調で死なすより、子供を助けることを優先すると、その選択になり、誤っていない」と言っていました。

「親としては究極の選択、このような親としての究極の体験をされている方に当時を語れと言うのは、惨すぎるし、語る人は皆無に近いのではないか」とも言っていました。

 それと、「ソ連兵にレイプされた女性は大勢居たが、抵抗して殺された女性もいた。その方達は現在では、もう可成りの年配になられていると思うが、このような経験は語るはずがない」とも言っていました。

 私たち兄妹が、戦後行政の世話にならず生活できたのは、子供でも労働力として雇ってくれた店があったためで、弟は小学校も行かず、敦賀の海産物問屋で手がきのとろろ昆布作り。私は京都の小さなお店で製粉や麺作りをしていましたが、辛い時代でした。

 後世の子供達には、私と同じ思いはさせたくはありません。今、紛争地で親を失くした子供たち、死んでいった子供たち。生きているのが幸福か、死んでしまった方が幸福か、私には判定はしかねます。

九条が有っても軍隊が有ります。憲法が改正され九条が無くなると、益々軍拡はエスカレートするでしょう。改憲は何とか阻止したいと思います。