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竹中半兵衛の墓を発見

2010-06-17 19:03:36 | ぶらぶら お散歩
三木市平井山の葡萄畑の中にありました。


三木市内を走っていたら思わぬ所に「竹中半兵衛の墓」と道標があり、行ってみました。



山内一豊の「功名が辻」や司馬遼太郎の「播磨灘物語」に登場する竹中半兵衛の墓がこんな身近にあり驚きました。


    *三木市のホームページより拝借しました*

竹中半兵衛にまつわる話・・・三木城攻め途中に病没

羽柴秀吉が三木合戦で播磨に出陣したときには、世にもまれといわれた二人の軍師を平井山の本営において、周到な作戦にあたらせていた。一人はもとの小寺官兵衛で、秀吉が播磨へ一歩を印したとき、みずからの居城、姫路城本丸を提供した黒田孝高。
ほかの一人は美濃 (岐阜県)出身で、織田信長のはからいによって秀吉に属し、近江長浜城などにあって主従を超えた友情に結ばれてきた竹中半兵衛重治であった。

三木城攻防戦がたけなわのころ、竹中半兵衛は胸を病んでいた。秀吉のすすめで京都に移って療養していたが、折からはかばかしく進展しない戦況を案ずるあまり、カゴにのって戦場へ逆もどり。夜半に本営にのりつけた。
「なぜ、帰ってきたのだ。」と問う秀吉にやせこけたホオに不敵な笑みを浮かべて、「陣中で死にたかったまででござる。」くらやみのなかでキラリと目を輝かせたという。

天正7年6月、半兵衛は陣中でなくなった。36歳であった。秀吉は遺体にとりすがり、人前もはばからず泣きくずれたという。
本営のあった山に続いたぶどう畑のまん中。白い練りべいに囲まれて、半兵衛の墓がある。
三木方の兵士の子孫である作家司馬遼太郎のベストセラー「播磨灘物語」にその時の様子がくわしく書かれている。半兵衛の墓は平井山東南の山麓にある。志染町安福田にもあるが、あまり知られていない。




敵の武将でありながら今も地元の方に慕われている、欲の少ない竹中半兵衛にふさわしいお墓でした。







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