
20/17℃ こどもの日・立夏
端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在では新暦の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。 子供の頃の生まれ故郷の越後、新発田では1ケ月遅れの6月5日が「端午の節句」でだった。 節句の前日は姉と一緒に近くの川辺の土手へヨモギの新芽を摘みに行き、父親は何処からか菖蒲の葉っぱを調達してきて菖蒲湯をわかして入浴した。 母や姉たちは朝早くから数う多くの笹団子とチマキ作り、蒸篭で蒸し上げ家中の部屋に団子とチマキが吊るされた。
(笹団子とチマキのイメージ画像検索引用)
当時の越後地方では各家庭では笹団子とチマキ作りが盛んで出来上がると早速、遠く離れた子供や親戚縁者へ送られる。 「笹団子や粽」は室町幕府の関東管領で越後国高田の戦国武将で知将で名高い上杉謙信が戦時の携帯兵糧として作られた新潟独特の端午の節句の供物とされている。 現在は一般家庭で作られるのは稀で現在は「越後名物銘菓」として1年中作られ新潟駅の売店などに並べられている。
上画像は先月27日、神戸港中突堤へ行ったときのものだが、一般家庭で鯉幟の役目が終わり、神戸市に寄贈された鯉幟が飾られていた。
神戸メリケンパーク・オリエンタル・ホテルの中央ロビーには大きな鯉幟が掲げてあった。 昨今は神戸の街中で散策しても鯉幟がある家は見ることは難しく、せいぜい保育園くらいだが、住宅構造がマンション化し、時代の移り変わりであろう。
(神戸サンチカ・ショーウインドー)
現在は新発田の「端午の節句」も暦通り「こども日」に実施されているだろう。 今日は雨で生憎の「こどもの日」だったが小庭も雑草が伸びて見苦しいので明日は小庭の除草作業だ。
何時も買って食べてたように思います。菖蒲湯は経験が有ります、懐かしく香りが漂って来るような気がします。
新発田での、いい思い出ですね、6月にもう一度お出かけになっては、如何ですか。
私は「故郷は遠きに有りて思うもの」ですね、友人は居りますが尋ねるところもありません、今もゴルフのお付き合いはしております。今日も打ちに、行って来ました。
明日は草抜きされるのですね、頑張って下さい。
ちまきはよく作っていました。きな粉で食べます。
京都で細長いおもちのちまきを見た時には、驚きました。
このアパートで鯉のぼりを吊るしているいる家は、1軒だけです。ちょっとさびしいですね。
お宅の3匹の稚鯉は順調に生育していますか。
上海育ちの3番目はブログをさぼっているようなので、喝!を入れておきました。
薫風のゴルフ・プレー、時には森林浴羨ましい。
昭和29年、上京した学生時代、6月に郷里から送られてきた「笹団子」を伯母宅に持参したら懐かしみ大変喜ばれました。
東京の端午の節句は5月で柏餅を食べると言われ「へー
時の移り変わりは地域開発で子ども時代の風景は失われ、幼き友も高齢となり今は「故郷は何処にありき」で「故郷は遠きにありて思うもの」と思っています。
近畿は住みよい地域で神戸には長女家族も近くに居り、神戸が故郷の感じです。
(神戸には新発田藩の藩主の末裔も住んで居られるやに聞いております。)
ご来訪有り難うございます。
加治川へヨモギ採り、新発田にご縁のある方と察します。
新発田ではこの時期から入梅頃までは大変好い季節で良く加治川へ遊びに行きました。
加治川の土手の下の綺麗な湧き水でヤツメウナギを手掴みして遊んだのがまだ、忘れられません。
ヨモギ採りは戦中の土手盛りで採った記憶があります。
「土手盛り」とは当時の言い方たで「水原新道」と呼び、戦争で路線工事が中止となった白新線の路線を敷く土盛りのことです。
京都の祇園祭で山車から投げ出される細長い円錐形のチマキを3個ゲットして家に帰って開けたらワラばかり
翌日、会社へ行き女子職員に聞くと「あれは祇園さん」のお祭りの厄除けチマキと、大笑い。(ほんまに、お上りハンどすナー
「ほんまのチマキは和菓子店で買いなはれ」と粽の美味しい、お和菓子店を紹介してもらいました。
よんでいます。 竹の皮にモチコメと普通の米を包み、灰(灰汁)で煮ます。 径が4cm長さ20cmでアクがでますので別名を「アクマキ」とも言います。 最近は自宅で作る家庭は無いようです。
毎年田舎のマキを味わってています
「孟宗竹に鯉のぼり」すくすく伸びる。端午の節句に似合っている。
所変われば品変わるですね
端午の節句の一般的な供物の柏餅も遠い国、薩摩国ではドンナもでしょうかねー