僕の得意先に小さな化粧品店がある。その店のオーナーは50代前半の小柄で上品な女性だ。スキンケアをちゃんとしているのか、精神的に若いのか、一見しただけでは40代で通用する。2年前自動車の自損事故の処理をしたお客様だ。 彼女は人並みはずれて勘がよく、また他の人が見えないもの見ることができるようだ。
3月の終わり、まだ肌寒い曇り空の日、僕は久しぶりに彼女の店に立ち寄った。彼女の店舗の火災保険の更新の手続きのためだ。
僕が自動ドアの前に立とうとすると、店の中からサングラスをかけた長身の女性が出てきた。その威圧的な空気に触れ、僕は反射的に身体を横に滑らせた。その長身の女性は何事もなかったかのように足早に去っていった。
店の中に入るといつもとは違った重い空気があった。オーナーは少し困った顔をして「彼女に会った?」と訊いてきた。僕は「ええ、誰ですか? あの人」っと素直に訊き返した。
「興味があるのだったら、あとで教えてあげる。だけど絶対他の人には喋っちゃだめよ」とオーナーは悪戯っぽく笑った。
僕は保険の更新の手続きを終えると、先ほどの件について再び尋ねた。オーナーは僕のために熱いコーヒーを入れてくれた。時刻は午後7時を回っており、そろそろ閉店の時間だった。
「あの人はあなたの目の前にいるわよ」
オーナーは謎めいた微笑みを浮かべながら言った。
「えっ?」
僕の前には化粧品とそのパンフレットしかなかった。
「ほら、この人よ」
オーナーはパンフレットの表紙で笑っている女優を指差した。テレビをあまり見ない僕でも知っている、今売り出し中の女優だ笑顔がそこにあった。彼女はその美しさには以前から評価だ高かったが、現在出演中の高視聴率のドラマで人気がブレイクしたのだ。
「へーぇ」
確かに見られることに最大限注意を払っている人種だ。
「この人、美しい人だけど、ちょっと変なのよ」
オーナーの目が意地悪く光った。
「変って、どういうことですか?」僕は緊張をほぐすために、さめたコーヒーを口に含んだ。
「ほら、この人の写真を鏡に映すと」
「あっ!」
「ほら、ねっ」オーナーは嬉しそうに笑った。
その女優の顔は鏡に映すと、左右のアンバランスさが際立った。誰しも左右のバランスは多少の誤差はあるが、彼女の場合は美しいがゆえにそのアンバランスさが不自然な印象を与えていた。それも強烈に!
オーナーは「誰にも言っちゃダメよ」と楽しそうに釘を刺した。
その言葉が、この世界で僕が聞いたオーナーの最後の言葉となった。
僕が訪問した日の次の日からオーナーは行方不明になってしまった。最初は旅行でも行ったのではないかと、友人や家族は思っていたが、1週間経ち2週間経っても何の連絡もなかった。そしてオーナーを知る人は誰も彼女の行き先も所在をわからなかった。まるで煙が空に消えていくように、彼女はいなくなったのだ。
オーナーがいなくなってしばらくして僕は不思議な夢を見た。
そこは薄暗い店の中だ。古ぼけた椅子や空き瓶がゴロゴロと床に転がっている。しかし理髪店のように、大きな鏡が3枚壁に掛かっている。そしてその3枚の鏡が全て大きなひびが入っていた。まるで稲妻が落ちたように、左上から右下にかけて深い亀裂が走っている。
「・・・・・・」
誰かの声が聞こえる。
「誰にも言わないから」
細く弱々しく、その声を発する人間は途方にくれている。
「あなたの秘密は誰にも言わないから・・・・・・」
3枚の鏡の亀裂から、その悲しい絶望的な声は漏れていた。
「だから、ここから出して」
オーナーは割れた鏡の中から、助けを求めていた。
月の光が僅かに差し込むその部屋で、僕はただ立ち尽くしていた。
3月の終わり、まだ肌寒い曇り空の日、僕は久しぶりに彼女の店に立ち寄った。彼女の店舗の火災保険の更新の手続きのためだ。
僕が自動ドアの前に立とうとすると、店の中からサングラスをかけた長身の女性が出てきた。その威圧的な空気に触れ、僕は反射的に身体を横に滑らせた。その長身の女性は何事もなかったかのように足早に去っていった。
店の中に入るといつもとは違った重い空気があった。オーナーは少し困った顔をして「彼女に会った?」と訊いてきた。僕は「ええ、誰ですか? あの人」っと素直に訊き返した。
「興味があるのだったら、あとで教えてあげる。だけど絶対他の人には喋っちゃだめよ」とオーナーは悪戯っぽく笑った。
僕は保険の更新の手続きを終えると、先ほどの件について再び尋ねた。オーナーは僕のために熱いコーヒーを入れてくれた。時刻は午後7時を回っており、そろそろ閉店の時間だった。
「あの人はあなたの目の前にいるわよ」
オーナーは謎めいた微笑みを浮かべながら言った。
「えっ?」
僕の前には化粧品とそのパンフレットしかなかった。
「ほら、この人よ」
オーナーはパンフレットの表紙で笑っている女優を指差した。テレビをあまり見ない僕でも知っている、今売り出し中の女優だ笑顔がそこにあった。彼女はその美しさには以前から評価だ高かったが、現在出演中の高視聴率のドラマで人気がブレイクしたのだ。
「へーぇ」
確かに見られることに最大限注意を払っている人種だ。
「この人、美しい人だけど、ちょっと変なのよ」
オーナーの目が意地悪く光った。
「変って、どういうことですか?」僕は緊張をほぐすために、さめたコーヒーを口に含んだ。
「ほら、この人の写真を鏡に映すと」
「あっ!」
「ほら、ねっ」オーナーは嬉しそうに笑った。
その女優の顔は鏡に映すと、左右のアンバランスさが際立った。誰しも左右のバランスは多少の誤差はあるが、彼女の場合は美しいがゆえにそのアンバランスさが不自然な印象を与えていた。それも強烈に!
オーナーは「誰にも言っちゃダメよ」と楽しそうに釘を刺した。
その言葉が、この世界で僕が聞いたオーナーの最後の言葉となった。
僕が訪問した日の次の日からオーナーは行方不明になってしまった。最初は旅行でも行ったのではないかと、友人や家族は思っていたが、1週間経ち2週間経っても何の連絡もなかった。そしてオーナーを知る人は誰も彼女の行き先も所在をわからなかった。まるで煙が空に消えていくように、彼女はいなくなったのだ。
オーナーがいなくなってしばらくして僕は不思議な夢を見た。
そこは薄暗い店の中だ。古ぼけた椅子や空き瓶がゴロゴロと床に転がっている。しかし理髪店のように、大きな鏡が3枚壁に掛かっている。そしてその3枚の鏡が全て大きなひびが入っていた。まるで稲妻が落ちたように、左上から右下にかけて深い亀裂が走っている。
「・・・・・・」
誰かの声が聞こえる。
「誰にも言わないから」
細く弱々しく、その声を発する人間は途方にくれている。
「あなたの秘密は誰にも言わないから・・・・・・」
3枚の鏡の亀裂から、その悲しい絶望的な声は漏れていた。
「だから、ここから出して」
オーナーは割れた鏡の中から、助けを求めていた。
月の光が僅かに差し込むその部屋で、僕はただ立ち尽くしていた。
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