「おい有村君、例の書類はできたかい?」
「アッ、す、す、すいません。もう少しかかります」有村考一は、か細い声で答えた。
「あーっ、いいよ、いいよ。まだ会議には時間があるし」課長は投げやりにそう言った。
「有村さん、私、何か手伝うことないですか?」先週からパート職員としてこの職場に入ってきた越智菜々子が明るく言った。有村は彼女の元気さに気圧されるように「いや、別にないです」と黒縁メガネの中の小さな眼を見開きながら答えた。
「有村君。見神町二丁目三番地のゴミ収集でまたクレームがきてますわよ。あなた、ちゃんと対応したの?」係長は赤い眼鏡のフレームを動かしながら早く現場に行きなさい! と無言の圧力を有村にかけてきた。
「じゃあ、あたしも同行していいですか? 仕事を覚えるために、ねえ課長さん?」
「あっ、あああっ」課長は菜々子の若い美しさに圧倒されて首を縦に振ってしまい、既にそれを失ってしまった係長は憎々し気に課長を睨んだ。
「それじゃあ、よろしくお願いしまーす!」ミニバンの助手席に乗った奈々子は有村に顔を近づけ元気よく挨拶したので、中年運転手は思わずアクセルを踏み込みそうになった。
「アッ、ここですね」神社を登る階段の横にゴミステーションがあった。鉄製金網の中に可燃ごみの半透明ビニール袋が一つだけあった。今日はプラスチックゴミ回収日なのだ。
「有村さん、これ、どうするんです?」
「役所のゴミ焼却炉で燃やします」有村は申し訳なさそうに答えた。
「エーッ! このゴミ出した決まりを守らない人を見つけないのですか?」
「そういう人はたくさんいるのです」有村は元気なく言った。
「それで有村さんはよく外に行っているのですね」
「他にやる人がいないのです」
「エーッ、課長とか、女係長とか暇そうですよ」菜々子はピンクの頬を膨らませた。
「管理職は課内に居ないとダメだそうです」有村はゴミ袋をミニバンの荷台に入れた。
「うぇー、有村さん、超臭いです。窓開けていいですか?」
「はい、どうぞ」有村の返事を聞く前に菜々子はミニバンの窓を開けて外気を吸い込んだ。
「あれぇ?」暫くして運転している有村が不思議そうな顔をした。
「どうしたのですか、有村さん?」
「ひょっとして道間違えたのかもしれません。おかしいなあ。前もここに来たのに」
「いいじゃないですか、たまには気分転換も必要ですよ、少し臭いけど」菜々子は嬉しそうに答えた。
「ありゃー! 変な一本道に入ったみたいです。すみません、越智さん」
「フフフッ、面白そう」菜々子は楽しそうに窓の外を見たり、有村の生真面目な表情を見たりしている。ミニバンは薄暗い一本道を登って行っているようだった。その一本道の行き止まりには古ぼけた神社があった。野草が生い茂り背の高い楠や欅が周囲を覆っている。
「あれ? この辺りにこんな古い神社があったかな」有村はミニバンから降りて古ぼけた神社を眺めた。
「有村さん、この神社は人の手が入っていないようです。神秘的で面白そう」
「エッ? そうですか」小心者の有村は嫌な予感がした。
「ねえ有村さん、この神社の中に入ってみません? 凄いお宝がありかもしれませんよ」菜々子はそう言うと有村の返事を待たずに彼の右手を握って神社の階段を上がり始めた。若い女性に初めて手を握られた有村は激しく動揺しながら彼女について行った。
「土足のままで上がっていいのでしょうか?」有村は埃が積み重なっている床板を見た。
「あたしたちだったら許されると思います。それよりも孝一さん、開かずの間の扉が開いていますよ。フフフッ」菜々子は悪戯っぽく笑った。
「エッ、越智さん、あそこは神官さんしか入ってはいけないはずです」
「いいから、いいから」菜々子は有村にギュッとくっついて開かずの間に入って行った。有村は菜々子の柔らかい体の感触に呆然として、彼女のなすがままに歩いている。
「あれ、何か変ですよ。開かずの間なのに洞窟の中みたい?」有村は周囲を見渡したが殆ど何も見えなかった。彼は菜々子に優しく誘わられるようにフワフワと歩いていた。
「孝一さん、そろそろ出口ですよ」
二人の前方が少しずつ明るくなってきた。爽やかな風が吹いてきて有村は大きく深呼吸した。真っ暗な洞穴から出ると、そこは草原が広がっていた。彼の眼下には白い砂浜に規則正しく波が打ち寄せていた。
「ここは・・・・・・?」
「相変わらず孝一さんは忘れっぽいですね。まあ座りましょう」菜々子は草原の上に腰を下ろした。それにつられて有村も彼女の隣に腰を下ろした。すると菜々子は頭を有村の左肩にのせて体を預けてきた。有村は自然に左腕で彼女の体を引き寄せた。
陽は傾かず風は吹き止まず市役所勤務の中年男は空腹も尿意も感じなかった。
ひとつの同じ時間が引き延ばされている。
(ずっと前もこの感覚があった・・・)有村はそう思った。
「孝一さん、あなたの住んでいる場所はもう壊れています」新任のパート職員は低い声で告げた。
「えっ!」
「今の様子を見ますか?」菜々子は前髪をかき上げて額を有村の額にくっつけた。
その街は何もかも崩れ落ちていた。所どころ火の手が上がりどす黒い煙が漂っている。彼の勤めている五階建ての市役所も瓦礫の山になっている。
「何があったのですか?」
「あの場所に住んでいる人間は余りに汚れ過ぎていたのです。そして大地の怒りをかった。超巨大地震が発生しました。人々は自分の快楽と欲望のために他者を貶めて欺いてばかりいました。彼らは他の生き物も様々な恵みも貪欲に貪ってばかりいました。その罪のために罰がくだったのです」
「でも、どうして僕はここにいるのです?」
「孝一さん・・・」菜々子はにっこりと笑った。
「孝一さんはあの場所で唯一の優しい人です。お部屋の小さな蜘蛛を踏まないようにするしお話もする。お腹を減らした野良猫に鰯の干物を与える。毎日のご飯は感謝して一粒も残さない。野草を意味もなく駆除しない。足の不自由なお年寄りの荷物を持ってあげる。職場でも嫌な仕事を引き受けている等など。あの場所でこの世界を美しくしている人間はあなただけなのです」菜々子はそう言うと瞳を閉じた。
「そんな。僕なんかよりも優しくて思いやりのある人はたくさんいるでしょう?」
「孝一さん、時代の流れというものがあります。今は個人や会社の欲望が全てを飲み込んでしまって、正と負のパワーバランスが崩れてしまいました。分水嶺を超えてしまったのです。そうなるとまともな人たちも快楽の欲望に飲み込まれてしまいました」
「・・・・・・」有村は何も言わず目の前の変わらない風景を眺めた。隣に座っている菜々子の温もりが伝わって懐かしい喜びが沸き上がってくる。
「やっと巡り会えたのだから、しばらくここにいよう、孝一さん」菜々子は眩しそうに有村孝一を見つめた。
有村は菜々子の言う通りかもしれないと感じた。一週間前に初めて越智菜々子に出会ったとき、強張った彼の体と心がゆるゆると解けていく感覚があった。
「僕も越智さんと一緒にいたいけど・・・」有村は突然立ち上がり、先ほどまで歩いて来た洞穴の出口に向かって走り出した。
「越智さん! やっぱり僕はあの街で何かしないといけないのです。ごめんなさい」有村は全速力で走り続け、彼の姿は洞窟の暗闇に消えていった。
「あーあっ、やっぱり。コウイチさんはいつもこのパターンだもの」菜々子は微笑みながら洞窟の出口に向かって歩き出した。
きな臭いが黒い煙の中、有村はミニバンをゆっくりと走らせていた。彼の積み込んだ臭い可燃ごみ袋は無くなっていた。道路にはいたる所に建物の破片が散乱しており、大きな道路は軽自動車しか通行できない状況だった。主要道路のアスファルトは隆起して裂け、電柱が倒れていて通行できない場所がいたるところにあった。有村の運転するミニバンが市役所に到着できたのは奇跡的であった。
鉄筋コンクリート造りの市役所庁舎は見る影もなく崩れ落ちていた。あれほどいた職員たちはどこにもいない。所どころから灰色の煙があがり無機質的な匂いがたちこめている。
「・・・・・・てぇ」有村が立っている右前方から聞き覚えのある女性の声が聞こえた。
「助けてぇ」今度は弱々しいがハッキリと係長の声が聞こえた。有村はハンカチで口を塞ぎながら声のする方向に走り出した。ロッカーや机、パソコンが積み重なっている中から係長の声が聞こえてくる。よく見ると係長の声がする場所は地下に空洞が出来ており蟻地獄のように様々な物が地下に吸い込まれている。
「係長!」有村は今にも地価の空洞に落ちそうになっている係長の左腕を掴んだ。
「こらぁ! 有村―ぁ。早く私を助けろーっ!」係長は鬼の形相で有村に命令した。部下は自分の体重の一・五倍はある係長を渾身の力で引き上げた。そして彼はその反動で巨大な空洞に落ちて行った。落ちていく途中、有村の顔の前に部屋にいる小さな蜘蛛がぶら下がっていた。その小さな蜘蛛は言った。
「ねぇ、コウイチさん。今度は早くあたしを見つけてね・・・」
藤村公一はアルバイト先のファミリーレストランから出てきて駐輪場に向かって歩いていた。
「公一、そんな怖い顔していると、お客さんが逃げちゃうよ」彼の自転車の傍に立っている制服姿の落合奈々子が笑いながら声をかけた。
「奈々子、後ろに乗る? 歩いて帰る?」
「今日は後ろに乗る、フフフッ」
サドルに腰を下ろした公一を奈々子はギュッと抱きしめた。人見知りで警戒心の強い公一はなぜ奈々子に心も体も許しているのか不思議に思っている。でも彼女といると安心と喜びと優しさが沸き上がって来る。そして奈々子は公一のそんな胸の内をお見通しだという顔をしている。
奈々子のことを考えても分からないのは若さのせいだと思い、公一は力強くペダルを踏んだ。
二人を乗せた自転車は生暖かい夜の街を切り裂くように走って行く。
「アッ、す、す、すいません。もう少しかかります」有村考一は、か細い声で答えた。
「あーっ、いいよ、いいよ。まだ会議には時間があるし」課長は投げやりにそう言った。
「有村さん、私、何か手伝うことないですか?」先週からパート職員としてこの職場に入ってきた越智菜々子が明るく言った。有村は彼女の元気さに気圧されるように「いや、別にないです」と黒縁メガネの中の小さな眼を見開きながら答えた。
「有村君。見神町二丁目三番地のゴミ収集でまたクレームがきてますわよ。あなた、ちゃんと対応したの?」係長は赤い眼鏡のフレームを動かしながら早く現場に行きなさい! と無言の圧力を有村にかけてきた。
「じゃあ、あたしも同行していいですか? 仕事を覚えるために、ねえ課長さん?」
「あっ、あああっ」課長は菜々子の若い美しさに圧倒されて首を縦に振ってしまい、既にそれを失ってしまった係長は憎々し気に課長を睨んだ。
「それじゃあ、よろしくお願いしまーす!」ミニバンの助手席に乗った奈々子は有村に顔を近づけ元気よく挨拶したので、中年運転手は思わずアクセルを踏み込みそうになった。
「アッ、ここですね」神社を登る階段の横にゴミステーションがあった。鉄製金網の中に可燃ごみの半透明ビニール袋が一つだけあった。今日はプラスチックゴミ回収日なのだ。
「有村さん、これ、どうするんです?」
「役所のゴミ焼却炉で燃やします」有村は申し訳なさそうに答えた。
「エーッ! このゴミ出した決まりを守らない人を見つけないのですか?」
「そういう人はたくさんいるのです」有村は元気なく言った。
「それで有村さんはよく外に行っているのですね」
「他にやる人がいないのです」
「エーッ、課長とか、女係長とか暇そうですよ」菜々子はピンクの頬を膨らませた。
「管理職は課内に居ないとダメだそうです」有村はゴミ袋をミニバンの荷台に入れた。
「うぇー、有村さん、超臭いです。窓開けていいですか?」
「はい、どうぞ」有村の返事を聞く前に菜々子はミニバンの窓を開けて外気を吸い込んだ。
「あれぇ?」暫くして運転している有村が不思議そうな顔をした。
「どうしたのですか、有村さん?」
「ひょっとして道間違えたのかもしれません。おかしいなあ。前もここに来たのに」
「いいじゃないですか、たまには気分転換も必要ですよ、少し臭いけど」菜々子は嬉しそうに答えた。
「ありゃー! 変な一本道に入ったみたいです。すみません、越智さん」
「フフフッ、面白そう」菜々子は楽しそうに窓の外を見たり、有村の生真面目な表情を見たりしている。ミニバンは薄暗い一本道を登って行っているようだった。その一本道の行き止まりには古ぼけた神社があった。野草が生い茂り背の高い楠や欅が周囲を覆っている。
「あれ? この辺りにこんな古い神社があったかな」有村はミニバンから降りて古ぼけた神社を眺めた。
「有村さん、この神社は人の手が入っていないようです。神秘的で面白そう」
「エッ? そうですか」小心者の有村は嫌な予感がした。
「ねえ有村さん、この神社の中に入ってみません? 凄いお宝がありかもしれませんよ」菜々子はそう言うと有村の返事を待たずに彼の右手を握って神社の階段を上がり始めた。若い女性に初めて手を握られた有村は激しく動揺しながら彼女について行った。
「土足のままで上がっていいのでしょうか?」有村は埃が積み重なっている床板を見た。
「あたしたちだったら許されると思います。それよりも孝一さん、開かずの間の扉が開いていますよ。フフフッ」菜々子は悪戯っぽく笑った。
「エッ、越智さん、あそこは神官さんしか入ってはいけないはずです」
「いいから、いいから」菜々子は有村にギュッとくっついて開かずの間に入って行った。有村は菜々子の柔らかい体の感触に呆然として、彼女のなすがままに歩いている。
「あれ、何か変ですよ。開かずの間なのに洞窟の中みたい?」有村は周囲を見渡したが殆ど何も見えなかった。彼は菜々子に優しく誘わられるようにフワフワと歩いていた。
「孝一さん、そろそろ出口ですよ」
二人の前方が少しずつ明るくなってきた。爽やかな風が吹いてきて有村は大きく深呼吸した。真っ暗な洞穴から出ると、そこは草原が広がっていた。彼の眼下には白い砂浜に規則正しく波が打ち寄せていた。
「ここは・・・・・・?」
「相変わらず孝一さんは忘れっぽいですね。まあ座りましょう」菜々子は草原の上に腰を下ろした。それにつられて有村も彼女の隣に腰を下ろした。すると菜々子は頭を有村の左肩にのせて体を預けてきた。有村は自然に左腕で彼女の体を引き寄せた。
陽は傾かず風は吹き止まず市役所勤務の中年男は空腹も尿意も感じなかった。
ひとつの同じ時間が引き延ばされている。
(ずっと前もこの感覚があった・・・)有村はそう思った。
「孝一さん、あなたの住んでいる場所はもう壊れています」新任のパート職員は低い声で告げた。
「えっ!」
「今の様子を見ますか?」菜々子は前髪をかき上げて額を有村の額にくっつけた。
その街は何もかも崩れ落ちていた。所どころ火の手が上がりどす黒い煙が漂っている。彼の勤めている五階建ての市役所も瓦礫の山になっている。
「何があったのですか?」
「あの場所に住んでいる人間は余りに汚れ過ぎていたのです。そして大地の怒りをかった。超巨大地震が発生しました。人々は自分の快楽と欲望のために他者を貶めて欺いてばかりいました。彼らは他の生き物も様々な恵みも貪欲に貪ってばかりいました。その罪のために罰がくだったのです」
「でも、どうして僕はここにいるのです?」
「孝一さん・・・」菜々子はにっこりと笑った。
「孝一さんはあの場所で唯一の優しい人です。お部屋の小さな蜘蛛を踏まないようにするしお話もする。お腹を減らした野良猫に鰯の干物を与える。毎日のご飯は感謝して一粒も残さない。野草を意味もなく駆除しない。足の不自由なお年寄りの荷物を持ってあげる。職場でも嫌な仕事を引き受けている等など。あの場所でこの世界を美しくしている人間はあなただけなのです」菜々子はそう言うと瞳を閉じた。
「そんな。僕なんかよりも優しくて思いやりのある人はたくさんいるでしょう?」
「孝一さん、時代の流れというものがあります。今は個人や会社の欲望が全てを飲み込んでしまって、正と負のパワーバランスが崩れてしまいました。分水嶺を超えてしまったのです。そうなるとまともな人たちも快楽の欲望に飲み込まれてしまいました」
「・・・・・・」有村は何も言わず目の前の変わらない風景を眺めた。隣に座っている菜々子の温もりが伝わって懐かしい喜びが沸き上がってくる。
「やっと巡り会えたのだから、しばらくここにいよう、孝一さん」菜々子は眩しそうに有村孝一を見つめた。
有村は菜々子の言う通りかもしれないと感じた。一週間前に初めて越智菜々子に出会ったとき、強張った彼の体と心がゆるゆると解けていく感覚があった。
「僕も越智さんと一緒にいたいけど・・・」有村は突然立ち上がり、先ほどまで歩いて来た洞穴の出口に向かって走り出した。
「越智さん! やっぱり僕はあの街で何かしないといけないのです。ごめんなさい」有村は全速力で走り続け、彼の姿は洞窟の暗闇に消えていった。
「あーあっ、やっぱり。コウイチさんはいつもこのパターンだもの」菜々子は微笑みながら洞窟の出口に向かって歩き出した。
きな臭いが黒い煙の中、有村はミニバンをゆっくりと走らせていた。彼の積み込んだ臭い可燃ごみ袋は無くなっていた。道路にはいたる所に建物の破片が散乱しており、大きな道路は軽自動車しか通行できない状況だった。主要道路のアスファルトは隆起して裂け、電柱が倒れていて通行できない場所がいたるところにあった。有村の運転するミニバンが市役所に到着できたのは奇跡的であった。
鉄筋コンクリート造りの市役所庁舎は見る影もなく崩れ落ちていた。あれほどいた職員たちはどこにもいない。所どころから灰色の煙があがり無機質的な匂いがたちこめている。
「・・・・・・てぇ」有村が立っている右前方から聞き覚えのある女性の声が聞こえた。
「助けてぇ」今度は弱々しいがハッキリと係長の声が聞こえた。有村はハンカチで口を塞ぎながら声のする方向に走り出した。ロッカーや机、パソコンが積み重なっている中から係長の声が聞こえてくる。よく見ると係長の声がする場所は地下に空洞が出来ており蟻地獄のように様々な物が地下に吸い込まれている。
「係長!」有村は今にも地価の空洞に落ちそうになっている係長の左腕を掴んだ。
「こらぁ! 有村―ぁ。早く私を助けろーっ!」係長は鬼の形相で有村に命令した。部下は自分の体重の一・五倍はある係長を渾身の力で引き上げた。そして彼はその反動で巨大な空洞に落ちて行った。落ちていく途中、有村の顔の前に部屋にいる小さな蜘蛛がぶら下がっていた。その小さな蜘蛛は言った。
「ねぇ、コウイチさん。今度は早くあたしを見つけてね・・・」
藤村公一はアルバイト先のファミリーレストランから出てきて駐輪場に向かって歩いていた。
「公一、そんな怖い顔していると、お客さんが逃げちゃうよ」彼の自転車の傍に立っている制服姿の落合奈々子が笑いながら声をかけた。
「奈々子、後ろに乗る? 歩いて帰る?」
「今日は後ろに乗る、フフフッ」
サドルに腰を下ろした公一を奈々子はギュッと抱きしめた。人見知りで警戒心の強い公一はなぜ奈々子に心も体も許しているのか不思議に思っている。でも彼女といると安心と喜びと優しさが沸き上がって来る。そして奈々子は公一のそんな胸の内をお見通しだという顔をしている。
奈々子のことを考えても分からないのは若さのせいだと思い、公一は力強くペダルを踏んだ。
二人を乗せた自転車は生暖かい夜の街を切り裂くように走って行く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます