<八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり>
(むぐら生い繁る この邸のさびしさ
荒れはてて いまは訪れる人もいない
そんな庭にも
見よ ひそかに秋は訪れている)
・この歌は『拾遺集』巻三の秋にある。
詞書に、
「河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を、
人々によみ侍りけるに」とある。
河原院(かわらのいん)は、
14番「みちのくのしのぶもじずり・・・」の作者、
源融が造営した別荘である。
前にも書いたが、
その善美は一世になりひびいた。
建物もさりながら、庭の作り方がすごい。
日本の一番美しい風景は、
みちのくの松島湾の名所、塩釜だというので、
その景色をそっくり庭にうつさせた。
池にはいろいろな魚や貝を放ち、
毎日、尼崎の浦から人夫数百人で海水を汲ませ、
塩釜を立てて塩焼くわざをさせたという。
都にいながらにして、
みちのくの名所を現出させた。
この邸は六条坊門の南、
万里小路(までのこうじ)の東、
鴨川の西に四町四万の地を占めていたという。
源融は底抜けの財力と美意識を有していた。
河原院という邸の名は伝説的にさえなった。
ところが融の死後、
河原院は奇怪なうわさにまつわられるようになる。
融の子、昇がこの邸を宇多院に献じたので、
しばしば宇多院はここで過ごされたが、
ある夜半、衣ずれの音がする。
ごらんになると正装した公家が控えていた。
「何者か」と問われると、
「この邸のあるじ、融でございます。
ここは私のすみかでございますのに、
院がおわしますのは、
恐縮ながら誠にもって迷惑至極」
「慮外なことを申すな」
院は一喝された。
「私が人の家を奪うとでもいうのか。
汝の子孫が献上したから住んでいるのだ。
霊鬼のくせに理非もわきまえぬか」
すると融の幽霊はかき消すように消えたという。
しかし宇多院の愛妃の御息所はこの邸で、
よくもののけにおそわれたという。
やがて宇多院もこうじられるころには、
河原院は荒れに荒れていった。
広大なだけに、維持するのは大変だったろう。
融の死後、七、八十年もすると、
この邸は寺になっていた。
そうして融の曽孫の安法法師という、
坊さんで歌詠みである人が住んでいた。
お寺になって坊さんが住んでいると、
怪異もあらわれないものらしく、
この頃の河原院の荒廃ぶりには風情があった。
安法の友人の歌詠みたちが、
この寺へよく遊びに来たからである。
恵慶(えぎょう)法師は安法の親友であった。
この恵慶は播磨国分寺の僧で、
仏典の講義をしていた。
このころは花山天皇(在位984~986)の時代だったから、
河原院が建てられてからほぼ百年ぐらい経っていた。
さて、河原院の荒廃を賞でた歌よみたちが死ぬと、
この邸はいよいよ荒れた。
王朝半ば、『源氏物語』が書かれるころには、
お化け屋敷の別名にさえなって、
人々は「河原院」というと、
おどろおどろしい怪異を連想した。
紫式部は『源氏物語』の「夕顔」の巻で、
夕顔が物の怪におそわれて急死する舞台に、
河原院を使っている。
そののち河原院は火災にかかり、
残った一部は他に移されたり、
賀茂川の川床になったりして、
いつかそのあたりは原野にかえった。
一つの邸が何百年にもわたり、
文学のモチーフになったというのは面白い。
(次回へ)