<見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色はかはらず>
(見せたいわ あのひとに
あたしのこの袖を・・・
みちのくの雄島の磯で働く
漁師さんの袖だって
そりゃあ 波のしぶきに
ぬれるにぬれるわ
だけど袖の色は 変わりゃしない
そこへくると あたしの袖は
涙にぬれるばかりか
血の涙で 袖の色も変ったわ)
・古来の歌の伝統では、
恋や哀傷に心を破られると、
血の涙が出るということになっている。
この歌は袖の色を強調するため、
「見せばやな」と、
強く言い出しているところが面白い。
雄島は宮城県松島の一島、というが、
歌枕としてよく使われている。
彼女が旅して見たわけではない。
作者の生没年は不詳であるが、
正治二年(1200)ごろ、
七十歳で亡くなった、
といわれる。
殷富門院(いんぶもんいん)に仕えた女房である。
勅撰集に五十九首とられているが、
この人は恋の歌を作らせると、
激越で感覚がするどい。
人知れぬ悲恋を経験した女性だったのかも。
彼女の仕えた殷富門院は、
後白河天皇の皇女・亮子内親王のことで、
かの式子内親王の姉君である。
伊勢の斎宮となり、
のちに安徳・後鳥羽両帝の准母として、
院号を宣下され、
殷富門院と称せられるようになった。
この院号は、
皇族女性の誰にでも与えられるものではない。
天皇の生母とかそれに準ずる准母、
三后、内親王などに、
朝廷から与えられるもので、
「院」となると待遇が違う。
すべて上皇に準じ、院司が設けられる。
お手当ても昇級して経済的にも安定する。
称号には宮城の門号が用いられる。
ついでにいうと、この宮城の門、の
十二門の名に私は興味がある。
平安京の大内裏の門は、
古い昔、都が飛鳥にあったころの、
宮城の門につけられていた名前を、
そのひびきに通わせている。
都は平城京、平安京へと変わり、
宮城も変わったが、
門の名前はそのまま伝えられた。
門の額字には空海らが麗筆をふるった。
殷富門というのは、
大内裏の西の門である藻壁門(そうへきもん)の、
北である。
(次回へ)