むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8番、喜撰法師

2023年04月09日 08時48分31秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<わが庵は 都のたつみ しかぞすむ
世をうぢ山と ひとはいふなり>


(わが庵は 都の東南 宇治山なのです
鹿の鳴く里に しかく 私は心も澄み
気もはればれと住んでいます
それなのに 世の人は
私が世を憂しとみて
かくれこもっているようにいうのです)






・『古今集』巻十八の雑。

宇治山に「憂」をかけ、
「しかぞすむ」は「然ぞ住む」、
それに「澄む」をかけている。

その上に「しか」は「鹿」も暗示している。

たつみは十二支の方位でいうと、
東南(辰巳)である。

宇治はまさに京都の東南にあたる。

この歌は十二支の遊びだといわれる。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・・・
とつづく十二支のうち、宇治山の「卯」
それに「辰巳」と入ってくる。

当然あとへ「午」とつづくべきところ、
「しか」を持ってきて人を意表外に笑わせる。

この時代の人々は、「馬」と「鹿」に関する故事、
「鹿をさして馬となす」という、
中国のお話をよく知っていたろう。

秦の腹黒い権力者が、
あるとき鹿を指して馬だといった。

硬骨の人は、
いやそれは鹿ではないと反発し、
おべんちゃらをいう人は、馬でございます、と追従した。

真実を述べた人は権力者に殺された、という故事から、
間違ったことを押しつけて人をおとし入れることを、
「鹿をさして馬となす」というのである。

喜撰はそれをふまえつつ、
「うま」というところを「しか」とやって、
人を笑わせたのだろう。

定家がこの歌を採ったことについて、
定家は「都のたつみ」に心そそられた。

その方角が示唆するもの、
それは後鳥羽院配流の地、隠岐からは、
京都はまさに東南にあたる。

隠岐を都とみれば、
定家のいる小倉山荘、定家の「わが庵」は、
「都のたつみ」である。

定家は院の憎悪をひしひしと感じつつ、
「憂し」とみて、せめて百人一首で、
院のお怒りを鎮め、おのがまことをあらわそうとした。

そのため、京と隠岐の位置関係を暗示する、
「都のたつみ」の歌を採った、といわれる。

簡単に定家と後鳥羽院の関係を述べておく。
なぜ、定家は院に憎まれたか。

後鳥羽院という、院政期の一大趣味人、
度はずれた遊蕩児で、好事家であった型破りな帝王、
この院が和歌に興味を持たれたのは正治元年(1199)。

まだ二十歳くらいであられたが、
当時四十近かったプロ歌人の定家の歌を愛され、
二人の仲は急速に緊密になる。

やがて『新古今集』撰進を定家らに命じられる。
この頃が二人の蜜月であった。

定家はこの光栄を喜び、
寝食を忘れてその仕事に打ち込む。

しかし、歌に生涯をかけたプロ歌人と、
帝王の趣味として歌を楽しむ院とでは、
芸術に関する信念がまるで違う。

しかもどっちも個性強く、
片や狷介であり、片や一徹である。

後鳥羽院は、専門歌人が心こめて撰んだ歌を、
あとから恣意的に自分好みに「切り継ぎ」し、
歌を捨てたり、入れたりされた。

プロの面目丸つぶれであると、
定家は憤り、次第に院との間が疎くなった。

院に疎まれることは、
社会的に逼塞することであって、
定家はこの時期、出世も出来ず、
経済さえたちゆかなくなってしまった。

この時代、歌人はみな政治家のパトロンを持たないと、
和歌の家として存続できなかったのである。

ところが後鳥羽院はエネルギッシュで、政治に興味を持ち、
幕府をつぶして天皇親政を実現しようという大望を抱かれ、
承久三年(1221)兵をあげて、あえなく敗退、
隠岐に流される。

あべこべに定家はそのころ、
親幕派の親類のおかげで、
めきめきと家運を盛り返していたが、
幕府の目を恐れて、隠岐の院とは文通もしなかった。

他の歌人は手紙のやりとりをしていたようであるが、
定家は内心はともかく、うわべはふっつりと交渉を絶った。

後鳥羽院の憎しみは定家に向かって、
絶えることはなかった。

老いた定家はその誤解を解くよしもなく、
わずかに百人一首で院への思いを托したのであろう。

ところでこの歌の作者、喜撰法師というのは、
不思議な坊さんである。

作品としてはこの一首しか伝わらないのに、
六歌仙の一人と重んじられている。






          


(次回へ)

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