<天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも>
(大空はるかに ふりあおげば
明るい月がかかっている
あれは その昔 私が故郷の日本で見た月だ
奈良の春日にある三笠山に
さし出た月だ)
・昔から日本人にたいそう愛された望郷歌である。
歌の姿も大きく、しらべも美しく、
望郷の悲しみをうたって余情は深い。
『古今集』巻九の羇旅の歌にある、
「唐土(もろこし)にて月を見てよみける」
という詞書があり、長い註釈がある。
仲麿は遣唐留学生であった。
当時、唐と呼んだ中国へ「ものならはし」に遣わされた。
養老元年(717)一行は四艘の船で出発した。
この時の遣唐船は奇蹟的に四艘とも帰還した。
遣唐船は、
行くのはどうにか中国大陸のどこかへたどりつけるが、
帰るのが難儀で、
難破漂流して、一、二隻欠けるのが普通である。
ところが、この養老度の一行は無事に生還している。
仲麿たち留学生や留学僧を中国に残して。
仲麿が唐の地を踏んだのは十七歳のとき。
その都、長安はどんなさまであったろう。
時に玄宗の開元五年、
唐は最盛期を迎えようとしていた。
長安の繁華はさぞかし日本の留学生を、
有頂天にさせたであろう。
酒、音楽、詩、
仲麿は長安の魅力に取りつかれた、
それで、長いこと留学して帰って来なんだ、
ということであろう。
もっとも仲麿は遊んでばかりいたわけではなく、
いずれは故国に帰って役立てようと、
せっせと先進国の政治経済、文化一般を勉強した。
優秀な人材であったとみえ、
唐朝に出仕し、玄宗に仕えて高級役人ともなった。
しかも詩才のあった彼は、
同じような年ごろの詩人、李白や王維らと親交を結び、
いよいよ人生が面白くなっていったろう。
名前も中国風に朝衡(ちょうこう)と名乗った。
そうしていつか三十六年の月日がたった。
天平勝宝五年(753)
藤原清河を大使とする遣唐使の一行が入唐した。
この一行と共に帰らなければ、
次はいつになることやらわからない。
遣唐使は定期便ではないのである。
十七、八年から二十年くらい、間をおいている。
仲麿は思い切って帰国することにした。
李白らは親友との別れを惜しんだ。
そして明州(浙江省寧波)で餞別の宴を張ってくれた。
その時、海辺に出た月を見て、
ああ、奈良の春日山に出た月だ、
と仲麿は感慨をもよおした。
故郷の山河、かわらずにありや否や。
もうすぐ、それらと再会できるのだ・・・
ところが何という運命の皮肉、
仲麿と清河らの乗った船は暴風にあい、
安南に漂着、命からがら、再び長安に舞い戻って、
二人共終生、日本の土をふむことは出来なかった。
仲麿は唐朝に仕え、七十で、かの地で死んだ。
その運命を思うと、この歌はあわれ深い。
(次回へ)