・あの直後から何日か、人々は夢見心地だった。
余震の続く何日か、人々は思いやりを示し合った。
大地の怒りにおびえおののく、
微小な存在の人間たち。
お互いがそう思い、
いたわり合おう、思いやりを示し合おう、
そうして一緒に大地の怒りに堪えよう、
そう思っているようだった。
それは被災者同士でも同じだった。
神戸の友人で、
活断層上のマンションで地震に遭い、
<まるで洗濯機の中へ入れられてるみたいだった>
といった女の子は、
ワンちゃんだけをリュックに入れて背負い、
九死に一生を得た感じで逃れたが、
玄関のはきものをとりにゆくひまがなく、
裸足であった。
同じマンションから逃れた近くの人が、
それでは怪我をするからと、
今にも倒壊しそうなマンションへ危険を冒して戻り、
彼女の履けそうな靴を持ちだしてくれたそうだ。
救出されたものの、
腰を打って戸板で病院へ運ばれた友人は、
ごったがえす患者たちと共に待合室の片隅で寝かされていた。
通りすぎる人たちが、
次々に飴玉一つ、ミカン一つ、
というふうに恵んでくれる。
もちろん見も知らぬ人々である。
<どこ悪うしとって?
あ、腰打ったん。
大丈夫やわ、それより体力つけなあきません。
おあがりなさい>
といってくれる。
友人は好意に甘え、
片端から口に入れたといっていた。
避難所では朝から何も口にしていない人が多かった。
午前五時四十六分の地震発生と同時に避難したのだ。
場所によってすぐ、
<ローソン><イカリスーパー><ダイエー>へ走って、
食料や水を入手した人もいるが、
老人幼児を抱えた人々はどうしようもなかった。
自動販売機は停電で使えず、
倒れたり売り尽したり。
市はやっと十二時に避難所へ食料を運び、
給水車を出すが、あまりにも少ない。
そういうとき、不思議なことが起きていた。
人々は紙コップの水を分け合い、
おにぎり一個を半分ずつに割って分け合った。
一緒に被災した仲間やもん。
そういわなくても自然に譲り合ったのである。
余震におびえながら、
避難所の寒さ、飢えに苦しみながら、
一体感を共有した。
地震の翌日、奇跡的に倒壊を免れた、
芦屋市のガソリンスタンドの店主から、芦屋署に、
<二千リットルのオイルがあるので、
緊急車両用にどうぞ>
と提供の申し出があった。
やはり翌日の十八日、
西宮の酒造会社「菊正宗酒造」は、
<宮水>を住民にふるまった。
これは酒の仕込みに使う名水である。
宮水は戎さんのお宮である西宮神社の水、
というところからそう呼ばれるが、
この宮水によって灘の銘酒が生まれるのである。
西宮神社一帯で湧く、
「カルシウムやリンなどを豊富に含んだ純度の高い硬水」
「酒の仕込み以外では昔からつきあいのある、
神戸市内の喫茶店に出しているだけ、
大切な水だが当分は出しつづけます」
と菊正宗さんはいう。
工場は断水で操業できないが、
菊正宗さんはいう。
「地域に貢献するのが企業の役目」
と無料提供している。
(大阪読売新聞)
半壊の市場の中の菓子屋さんは、
在庫の菓子を人々に無料で配っていた。
これはテレビで見た。
一週間目ぐらいから、
食料はかなりゆたかに配られるようになったものの、
皆はあたたかい食べ物に飢えていた。
ライフラインがまだ整備されず、
水、ガスは出ないのだ。
神戸元町の南京町。
<あったかい豚まん買うてよ>
一週間目から中華料理店の集まる南京町で、
元気な声があがる。
豚まんを蒸すせいろから白い湯気が立ち、
人々は思わず立ち止まる。
ガス・水道が止まっては料理なんかできない。
しかし電気はきている。
<やったろ。
わしらにできることは料理を作って売るしかない>
<店を開けてもうかるわけやないけど>
お客さんは、
今何よりほしい「活気」を求めてやってくる。
(産経)
(次回へ)