むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、夕顔 ⑩

2023年07月25日 08時47分05秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「なぜ、私に隠し続けたのだろう、あの人は。
誰の娘、どんな身分と、
打ち明けてくれてもよかったのに」

「お隠しになるつもりは、
なかったのでございましょうが・・・
どうせ一時の浮いたお心から、
通っていらっしゃるのに決まってるわ、
とおっしゃって、
そんなことなら、と、
何もお打ち明けにならなかったのでございます」

「つまらぬ意地の張り合いをした。
私も世間がうるさかったし、
あんなに忍んで通わなくてはならない、
差し障りもあった。
今はもういいだろう。
あの人のことを話してくれ」

右近はまた涙ぐむ。

「何をお隠し申しましょう。
御方さまの父君は、
三位の中将でいらっしゃいました。
たいそうお可愛がりになっていらしたのですが、
ご不運続きで若死にされました。

そこへ頭の中将さまが、
まだ少将でおいでのころ、
ふとしたことで、
お通い初めになったのでございます。

三年ほどはこまやかにお通いでしたが、
北の方さまのご実家の右大臣家から、
こわいことを申されて参りまして、
御方さまは、おびえてしまわれました。

身を隠してあの五條の家へいらしたのです。
お気弱でいらして、
一人、くよくよ物案じなさるお性質の方で、
いらっしゃいましたから・・・」

「小さな女の子を行方不明にしたと、
中将がふびんがっていたが」

「はい。
一昨年の春、お生まれになりました。
とてもお可愛い姫君でいらっしゃいます」

「あの人の形見に引き取りたいものだ。
頭の中将にもいずれ話はするが、
あの人を恐ろしい目に遭わせて死なせた、
と恨まれるのが辛い。

その姫君を引き取って世話したいのだが」

「そうなりましたら、
どんなにかうれしゅうございましょう」

右近は涙ぐみながら、
嬉しそうにいった。

「夕顔の年はいくつだった?
いたいたしいほどかよわく見えたが・・・」

「十九におなりでございましたろう・・・
弱々しくやさしい方でいられました。

右近はあの方をあるじと思って、
生きてまいりましたものを」

「弱々しい女は好きだ。
あまりはきはきして勝気な女は、
私にはなつかしく思えない」

「お好みにあった方で、
いらっしゃいましたのに・・・」

右近はまた泣いた。

この女房は美人ではないが、
情趣ありげで、まだ若く素直で、
そば近く召し使っていい感じの女だった。

五條の家では、
女あるじと右近が突然、
蒸発したように姿を消したので、
みんな心配していた。

右近が何もいって来ないのもおかしい、
と言い合った。

右近の方も、
夕顔の死に責任があるように、
責めたてられるのが辛く、
心にかかりながら、
姫君の消息も聞けないでいるうちに、
日は過ぎていった。

伊予の介は、
十月はじめに伊予へ下ることになった。

源氏は餞別を送ったが、
秘めやかな贈り物として、
かの空蝉に、
夏の一夜の思い出の、
うすい衣を返してやった。

空蝉もしみじみした返事をよこした。

源氏はいつまでも空蝉を忘れられないが、
空蝉もそうであるらしかった。

しかし彼女は、
源氏が自分を忘れないのを嬉しく思いつつも、
二度とあの夜の物思いを、
重ねようとは思わなかった。






          


(了)

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