新、真、神、深、進、辛、震、親、芯、thin、sin、
シン・ゴジラの「シン」は何を表しているのか。
製作者はもちろん意味を持って「シン」という言葉を使っていると思うが、
カタカナで表記した意図は「観る人がそれぞれの感性で受け止めてね」というところにあるのだろう。
今までの怪獣映画のストーリーと違う「新説」の「新」であり、
リアリティを重視したという「真実」の「真」であるかもしれない。
単体で形態が変化していく「進化」の「進」とも考えられる。
僕が勤務する大学の日本文化学科に、1954年に上映された初代の「ゴジラ」の映画を研究して卒業論文を書いて卒業していった卒業生がいる。
高校での進路ガイダンスなどで「大学で学ぶということ」、「日本の文化を学ぶということ」など説明するときに、日本文化学科の先生の受け売りではあるが、よくゴジラの話をする。
「ゴジラ」が作られた1954年は高度成長の時代で「もはや戦後ではない」と言われていたが、戦争の要素があちこち見られる映画だということ。
同じ年に第五福竜丸の事件があったこと。
そしてゴジラが破壊した東京の街のシーンはまさしく空襲によって焼け野原となった東京の風景であること。
女子学生たちによって行われる、ゴジラによって殺されてしまった人たちの魂を鎮めるためのセレモニーは戦争で亡くなった人たちの魂を鎮めるセレモニーの再現であること。
娯楽であるはずの映画を丁寧に観て、調べていくことによって、作られた頃の時代性や社会的背景、製作者が映画に込めたメッセージなどがわかってくる。
同じように考えるなら、シン・ゴジラでゴジラが破壊した後の風景は間違いなく震災の風景の再現である。
つまり「震」である。
「水と空気があれば捕食なしでもゴジラは生きていける」
ゴジラはコミュニケーションの取れない厄介なモノであり、もはや生物でさえないのかも知れない。
それは「神」であり人間は神からの戒めを受けている、神から試されていると捉えることができるし、人間のエゴによってゴジラを誕生させてしまった「sin(罪)」なのかも知れない。
ゴジラは怪獣ではあるがこの映画ではメタファーであり、
違うモノ(生物、現象)への置き換えが可能であろう。
しかし「ゴジラ」が「ゴジラ」である必然性がないということではなくて、
それは、これほど社会性がテーマで大人向きな映画でありながら、
小学2年生の息子が純粋に夢中になれるということが表していると思う。
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