嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

眼から出た錆、血の色に染まった球、それも涙に含めますね

2007年10月15日 17時25分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
懺悔。
ただどうしようもなく、逃げ切れない者としての
怒りの象徴のような、あてくさりのボロ布のような、生という傷跡に貼った
腐った湿布のような自己表現に対して、冷たく思う。

憂えいているのは自分の人生の方なのか、世界の方なのか、
それとも遙か遠くに見える向こう側の窓の方なのか、
もはやなにがなんだかわからなくなる。それでもまだ、
僕には死体の砂を数える時間がある

生をすでに選んでいる人間というのは、どれくらいいるんだろうか
星の数ほどいるんだろうか、それとも、ほんの一握りの人の数ほどなのだろうか
僕の開いたフレームの中で、僕の等価灯籠だけを人形のようにみる
一枚の鏡が一人の人を表すと言うよりは、一つの欠片が、一つの灯火を表す。
舞台装置は、ぐるんぐるんと回っている。暴風。台風。つむじ風。ブラックホール。

日常という舞台から飛び降りる人よりは、うっかり足を滑らせる人の方が
まごまごしながらも多いように思う。
僕はどっちだろうか、衝動的発作的欲望としての死だろうか。
決意に近い生の反作用としての死だろうか。
それとも、偶然後ろから罪が僕を殴りつけるように死ぬのだろうか。

秒数をかぞえることはできない

ただもう必死でがむしゃらに、息をしようと顔をあげるのが精一杯だ
冷たい海の底に居るときよりも、ぼんやり浮かんでいる宇宙の景色の方が、遙かに多いというのに。

絶望。
ともだちを裏切るときよりも、友達が居るかもしれないと、予感するときの方が、
気付いていく自分に対して、絶望を感じる。

未来が欲しいのか、救いが欲しいのか、
その二択だけを迫られたら、僕は神になんと口答えするだろう。
黙って神を殺す?
それもいいけど、問いかけている神が自分の意識なら、
僕は自分なりの答えをどこかに留め置かなくてはならない。
それが永遠に残るとは、もう思っていないけれど。

ふと浮かんだ。
遺書を書いて死ぬ人よりも、遺書を書けずに死ぬ人の方が、
ずいぶんと多いんじゃないかって。
もちろん、遺書を読んでもらえないうちに形が何かに消されて
記録とも風景ともわからぬうちに、背景にとけ込んで消えていくことの方が、
多いのかもしれないけど。
僕は恵まれている方だろう、こうして君に、一度でも読んでもらえるということなら。

小さい頃、アリを靴の裏で踏みつぶしながら、
踏みつぶしたアリをぐりぐり地面にこすりつけながら、
よく考え事をしていた。
今思い出すと、未来を妄想するように物思いに耽っていたという方が、
表現は近いというか、しっくりくるのかもしれないけど。

こんこんと咳をする自分をみてくたりと縮こまることよりも、
僕はこんこんと咳をする時に揺れる世界の景色の方に不思議さを感じていたから、
今にして思えば、僕のフレームやカメラ位置は最初から少しピントがずれていて、
それでいて、自分を映し出しているような気になっていたのかもしれない。

誤解を招いたのが自分なら、
フレームを切り取る事に失敗していたとしても、
問いを立てたのもまた、自分の中からの発露だと思う。
誤解をしくじったのが世界の方なら、
フレームを切り取れずにいる自分が、
世界から自分というカメラを切り出せずにいる自分が、
自分を見つめるまなざしそのものが、より一層の困難な歪みをつくっていく。
それを知りながらも、まだ僕や君を見つめようとする気配は、
もはやそれはどうしようもなく病的に高められた、自意識の気配という影でしかない。
それならば、映し出す光を想定して、形をここに残しておく方が、
光っているライトの位置そのものに、影を落とすことに繋がるだろう。
ようするに、間違っていたのは自分の方なのだ。
僕であり、君であり、意識の投影であると誤解する影そのものの自分の方なのだ。

だったら僕は、現象が現象の中に含まれる位置に戻すために、
あえて光の中に影を創り出そう。
そのことによってしか、その影絵遊びに寄ってしか
いつしか含まれる形で、その希薄な世界は見え隠れしないのだから。
人は誰しもズームしすぎていて、ピントのぼけた景色しか身体が映していない。
それは自分の重力の歪みに負け続ける行為だからだ。
だからいっそのこと僕と君は、同じ観察眼を、同じ位置まで戻して、
そうやってブラックホールの中から、熔けていく光を見たらいいんじゃないか?
その熱っぽい周期の鼓動を、君がまだ、光と呼ぶ事ができていれば、ということではあるにしろ、
それが真っ黒な輝きであったとしても、不在の記録であったとしても、
僕はいっこうに構わない。
閉じられた空間で、ぐるぐる回る無限回廊のような景色であったとしても、
ぼくはいっこうにかまわないし、それを気にしない。
それでもまだ、僕は最後の閉じる瞬間まで、何かを見ようとするだろう。
それが誤解であるのかどうか、ジッと確かめる疑心暗鬼にも似ているから。
最初の誤解はどうやってもたらされたのか
世界で最初の死体は、どこからやってきたのか
そうしたことは、通常の平文化された記号からは、まったく予測のつかないこと。
あたえられたばしょからやってきた記号は、その位置そのものを映し出すアルゴリズムとはならない。
観測はいつも外部から行われているわけではなく、
振り向けば無くなるようなセカイでもなく、
最初からありもしない世界であるという帰結があるから、
その位置で、不在の場所で生を眺める行為そのものが、
存在を誤解した外部からは、外部として映りこむからだ。
もしも君という観察者が、内部として、僕そのものとして存立し得るなら、
僕はここに、君の死体を君に見せる行為ではなく、
僕の死体を僕に書き残す行為として、ここに存立させる可能性があるからだ。
それはデカルト的な不安定さを持つ、コギトの嘆きに似ていても、
その色の反転の仕方は、その確かな原点をここに止めない。
あらゆるものの不在を証明する動きは、
あらゆるものの存在を支えない。
ゆってゆくだけの外部は、内部という糸には繋がっていない。
それはすなわち世界という壁を意識する行為であって、
意識を確立する地平とはならないからだ。
歩き出さない人、死体を見つめる神、それ自体が死に神であるからだ。

「めんどくさい。』
その一言で済む。僕という、人生を投げ出している君は。