まるで考え事から逃げるように
無為に時間を過ごしてしまっている。
答えが出てしまうことが怖いんだと思う。
無意識のうちに、ストレスのバイアスを避け、
どちらにもスイッチが入らないようにしている。
生の決意をすることも、死の結論をみることも
怖がっているんだと思う。
もうとっくに、自殺すると決めたはずなのに
その残り時間が迫っていることに
ただならぬ恐怖を感じてしまっている。
人と会うのが怖いのも、
誰かと話すのが怖いのも
外へ出かけるのが怖いのも
結局は、誰かのちょっとしたきっかけや何かに影響されて、
答えが眼前に突きつけられる事が怖いんだと
僕は時々考える
どんなに固く結んでも結び目がほどけていくように、
それはあの、黒い靴が僕を外へ誘うときのように
変化する地平を歩いていく靴の靴ひもは、
どんなに固く結んでもやがてそれは
なぜかゆっくりとほどけていってしまうものなんだと思う。
思う。
思うけれど、しかし。
僕はそのひもを、
不安定な足下を確かめながら何度も結び直してきた
極めて不正確な言い方をすれば、
僕はいかなる変化の砦の前でも、
ただ絶望の中に灯籠の火をともすことで、
僕は僕の結論の中の世界に居た。
その孤独感は今更言うまでもないけれど、
今を生きる君たちと、
不安定な思想に包まれて時代を生きるしかない君たちと
今、ここ、私、さえもが信用できない多感な思春期を生きる子供たちと、
どれほど違いがあったのだろうと思うと
思い込みだけで涙を流す僕のアホさ加減は、
ほとんど同じであっただろうと思うよ。
しかしまぁ、相変わらず僕は僕のあり方を反省していないのだけれど。
その反省していない僕から言わせると
今も戦国時代も、
未来がわかんねぇとか、
隣に居る人は信用できんとか、
魂の不安定さとか、
惚れただの腫れただの言いながら
人を裏切る自分の情けなさも
護るものを持たざる人の持つ独特の無責任な弱さも、
人間的にはあんまり変わってないんだなーとか、
世界なんてたいそうあやしげなもんをしょってなくても、
こつこつと毎日小さく努力して歩んでいく人がやっぱり偉いんだな、って感じ方とか、
そういうのは、
なかなか変わらないもんなんですかね?
それとも、変わっていることが見えにくいものなのかな?
僕は、不在の中にあるときは、
「『情報』」ってものが、あんまり信用できるわけじゃないと思う。
情報を知識として、ある種の手がかりとして活用できるのは
やっっぱりそれは現実の中だけなんじゃないかと思う。
つまり現実感の無いところでは、
情報そのものは人を拘束もせず繋ぎもせず、
ある独特な閉塞化における安心しきった宇宙だから、
それを神経のように、現実を繋ぎあわせて作った巨大なバケモノのように扱ったりふるまったりすることはほぼできないんじゃないかと思う。
出会うことのない不在の世界で、
それは糸にも紐にも縄にもならないかわりに、
それはそのぼんやりとした夢をゆるすから、
その何も無いことが、
ひとつの許しなんだと思う。
すこしズレた。
話の方向が少しずれたと思う。
話を戻す代わりに今日はもうここで眠る。
携帯を打つ手が疲れてきたとか、
肉体的な理由もあるけど
それよりはね、
もっと偏った理由。
こんなに無意味に画面に向かって濡れている眼では
あんまりちゃんとしたものはみれないような気がしたから。
悲しいこともないのに、
さっきからずっと泣いてる。
結論を急ぎすぎないように、
残りの砂を丁寧にすいこむ
それが僕に出来る、せいいっぱいの、
呼吸のような気がした。
!
……。
無為に時間を過ごしてしまっている。
答えが出てしまうことが怖いんだと思う。
無意識のうちに、ストレスのバイアスを避け、
どちらにもスイッチが入らないようにしている。
生の決意をすることも、死の結論をみることも
怖がっているんだと思う。
もうとっくに、自殺すると決めたはずなのに
その残り時間が迫っていることに
ただならぬ恐怖を感じてしまっている。
人と会うのが怖いのも、
誰かと話すのが怖いのも
外へ出かけるのが怖いのも
結局は、誰かのちょっとしたきっかけや何かに影響されて、
答えが眼前に突きつけられる事が怖いんだと
僕は時々考える
どんなに固く結んでも結び目がほどけていくように、
それはあの、黒い靴が僕を外へ誘うときのように
変化する地平を歩いていく靴の靴ひもは、
どんなに固く結んでもやがてそれは
なぜかゆっくりとほどけていってしまうものなんだと思う。
思う。
思うけれど、しかし。
僕はそのひもを、
不安定な足下を確かめながら何度も結び直してきた
極めて不正確な言い方をすれば、
僕はいかなる変化の砦の前でも、
ただ絶望の中に灯籠の火をともすことで、
僕は僕の結論の中の世界に居た。
その孤独感は今更言うまでもないけれど、
今を生きる君たちと、
不安定な思想に包まれて時代を生きるしかない君たちと
今、ここ、私、さえもが信用できない多感な思春期を生きる子供たちと、
どれほど違いがあったのだろうと思うと
思い込みだけで涙を流す僕のアホさ加減は、
ほとんど同じであっただろうと思うよ。
しかしまぁ、相変わらず僕は僕のあり方を反省していないのだけれど。
その反省していない僕から言わせると
今も戦国時代も、
未来がわかんねぇとか、
隣に居る人は信用できんとか、
魂の不安定さとか、
惚れただの腫れただの言いながら
人を裏切る自分の情けなさも
護るものを持たざる人の持つ独特の無責任な弱さも、
人間的にはあんまり変わってないんだなーとか、
世界なんてたいそうあやしげなもんをしょってなくても、
こつこつと毎日小さく努力して歩んでいく人がやっぱり偉いんだな、って感じ方とか、
そういうのは、
なかなか変わらないもんなんですかね?
それとも、変わっていることが見えにくいものなのかな?
僕は、不在の中にあるときは、
「『情報』」ってものが、あんまり信用できるわけじゃないと思う。
情報を知識として、ある種の手がかりとして活用できるのは
やっっぱりそれは現実の中だけなんじゃないかと思う。
つまり現実感の無いところでは、
情報そのものは人を拘束もせず繋ぎもせず、
ある独特な閉塞化における安心しきった宇宙だから、
それを神経のように、現実を繋ぎあわせて作った巨大なバケモノのように扱ったりふるまったりすることはほぼできないんじゃないかと思う。
出会うことのない不在の世界で、
それは糸にも紐にも縄にもならないかわりに、
それはそのぼんやりとした夢をゆるすから、
その何も無いことが、
ひとつの許しなんだと思う。
すこしズレた。
話の方向が少しずれたと思う。
話を戻す代わりに今日はもうここで眠る。
携帯を打つ手が疲れてきたとか、
肉体的な理由もあるけど
それよりはね、
もっと偏った理由。
こんなに無意味に画面に向かって濡れている眼では
あんまりちゃんとしたものはみれないような気がしたから。
悲しいこともないのに、
さっきからずっと泣いてる。
結論を急ぎすぎないように、
残りの砂を丁寧にすいこむ
それが僕に出来る、せいいっぱいの、
呼吸のような気がした。
!
……。