愛しのボニー

元保護犬
2020年9月21日没(推定10歳)
ラブラドール・レトリバーのボニーの思い出

家族にまつわる話14

2021-09-15 12:05:34 | 思い出

その後 母は具合が悪くなっていった。

 

実は母は10年以上前から血糖値が高めで

本当は節制が必要だった。

節制さえすればとくに問題はない、その程度のはずだった。

 

でも 母はたいしたことないと高を括って

好きなものを好きなだけ摂っていた。

 

もう少し早く忠告していたら…

と 思いもするけれど

母がわたしの忠告を聞き入れるとは今でも思えない。

 

まず 目がおかしくなった。

大学病院に通うようになったが良くなることはなく

入退院を繰り返しながら

悪化の道をたどっていった。

 

母がさかんにわたしに言っていた

「わたしの目の黒いうちは」

「目の黒いうち」

「目の」

好んで使っていたその言葉――

恐ろしい形相でわたしを威嚇していた母の、その目。

 

あっという間にその目は黒くなくなってしまった。

その時

人に投げつけた言葉はすべて自分に返ってくるのだな…

と思った。

 

この後、弟が困ってわたしに連絡してきたのだが――


使われなかったライフジャケット

2021-09-15 10:43:44 | ボニーへの手紙

山中湖の

DOG RESORT WOOF

 

憧れてて ずっと行きたくて

買ったライフジャケット

 

憧れただけで終わっちゃった

ああしてあげたかった

こうしてあげたかった

思いはたくさん残っているけど

 

このあいだ不思議なことがあったの

お仏壇にそなえた

お水とごはんの位置が逆になってた

 

ボニーが元気な時からずっと

お水が右 ごはんが左だったから

無意識にずっとそうなってた

 

お父さんに

「場所、動かした?」って聞いたら

「わたしが勝手に動かすわけないじゃないの」って言う

 

ボニーが来て動かしたんだね

父と母の意見は一致した

 

そしたらね

雲間から急に光が差してきたの

 

ボニーがお空で本当のお父さんお母さんに

会えていたらいいな

うんと甘えていいからね

 

・・・

ただ わたしがボケ始まっただけの可能性も…

 


家族にまつわる話13

2021-09-14 10:58:11 | 思い出

母の言動に感じる“違和感”は増していった。

 

夫と長男と3人で実家に行ったとき

「凄いねえ、儲かってるらしいじゃないの」

「近所の人たちから“もう働く必要ないんじゃない?娘夫婦を頼れば”って言われてねえ」

「月に○十万もあれば…ねえ?」

 

冗談のように言ったけれど夫は返事に困っていた。

わたしは顔から火が出そうだった。

ご近所にそんなことを言いふらしているのか。

 

何もわかっていない。

わたしたちが毎日どれだけ心身をすり減らし

大変な思いをしていることか…

 

母より年上の、義父母だって懸命に働いている。

夫の妹弟は県外の大学に行っていて

学費と生活費を仕送りしている。

数年前には夫にも同じように仕送りしていた。

 

義父は公務員で義母も働いていた。

とくに裕福ではない。…というかごく普通だと思う。

実家にいた頃のことを夫に聞いて

つましい生活を送っていたことも知っている。

 

わたしたちに家庭菜園で採れた野菜や地元の食品・銘菓

義母手作りの子供服やお小遣いまで入った

宅配便を送ってくれてもいた。

それは「おまえはいつ帰ってくるんだ?」

と言っていた頃から変わらない。

 

変わったのは母だけだった。

わたしには母が理解できなかった。

生活に困っているわけではない。

わりに見栄っ張りで贅沢が好きだ。

 

思えばこの手の母のぼやきは高校生の頃から聞いていて

居たたまれなくて姉もわたしもアルバイトをしていた。

 

こうした夫の実家との違いが恥ずかしくて

まともに夫の顔を見られなくなってしまう。

母は寡婦という弱者の立場にあぐらをかいて

常識的なことを何もしてこなかった。

 

後のことになるが

夫とちょっとした諍いになった時に

「おまえの母親は何なんだ!」

「俺の親が便り(賀状や暑中見舞いを含む)を送っても何の返事もない」

「妹弟の方の親とはちゃんと付き合いがあるんだぞ!」

「○○さんのところはどうなってるの?って言われているんだぞ!」

「どう答えたらいいのか…おまえに俺の気持ちがわかるか!?」

 

…今まで黙っていてくれたけれど

やっぱりおかしいと思っていたね…

それがあなたの優しさだったのですか…


家族にまつわる話12

2021-09-13 11:49:00 | 思い出

自分が人並みのことをできていないことは

充分承知していた。

なので責められて当然なのだと思った。

 

夫に何か期待していたわけではない。

何かしら手助けしてもらおうとも思ってはいなかった。

 

ただ、思いやりなく扱われるのに傷付いただけ。

それだけだった。

 

そんな親だったのに子どもは目を開けてわたしを見るようになり

笑うようになった。

可愛かった。

何があっても耐えていこうと思った。

 

それがどうにもならないと覚ったのはその後すぐのことだった。

・・・

・・・

書こうと思いましたが書けませんので省略します(^-^;

 

このままではとんでもないことになってしまうと思いました。

・・・

・・・

母から逃げたわたしは今度は夫から逃げ出したかった。

でも もう逃げる場所はどこにもなかった。

 

母には話せることだけ話して(話せないことは伏せた)

離婚したい旨を伝えると

わたしは母が

「それ見た事か お母さんの言う通りになっただろう」

そう言うと思っていた。

 

しかし母は

「おまえは要領が悪いね。夜帰って来て眠れないなら昼間寝たらいいじゃないか」

「離婚の原因っていうのはね、働かなくて稼ぎがないこと」

「浮気すること」

「ギャンブル」

「この3つしかないんだよ」

「このどれに当てはまるんだ」

「おまえは何が不満なんだい」

「働いて稼いで家に居ないなんてこんな楽なことないじゃないか」

 

わたしはストレートで単純な考え方ができる母がうらやましかった。


家族にまつわる話11

2021-09-12 21:03:10 | 思い出

新しい場所に引っ越してわたしは仕事を辞めた。

そして夫の仕事をサポートするようになった。

(なにぶん技術不足でたいしたことはできなかったが…)

 

その後 夫の仕事が忙しくなり

スタッフの数も増えたため

仕事場を別に持つことになった。

そしてこの頃わたしは身重の体になっていた。

 

仕事の方はますます忙しくなり

夫は疲弊していった。

朝方帰ってくることも多くなり

次第にわたしにいらだちをぶつけるようになった。

 

今思うとわたしたちは妊娠や出産、育児に関して

何の知識もなく 考えが甘かった。

 

つわりがひどく思うように食事の支度ができない時

疲れてどうしようもなく横たわっている時

 

「俺が苦労して働いているのにおまえは何だ!」

「俺の食事はどこにあるんだ!」

気分が悪いと言っても言い訳にしか聞こえないようだった。

 

「俺のおかんはそんなじゃなかった」

「俺のおかんは仕事もして家事も完璧だった」

完璧な義母と比べられ

その後は延々と義母への礼賛が続くのだった。

 

出産後はそれがさらにひどくなった。

わたしも育児がこんなに大変なことだとは思わなかったが

夫はもっとわかっていなかった。

深夜、朝方に帰って来てはわたしを責めた。

「俺は仕事をして疲れているのにおまえは寝てるのか!」

「俺の食事はどこだ!」

 

わたしはひとりで育児をしていたけれど

たぶんわたしの要領が悪くてうまくいかなかった。

全く寝てくれなくて泣いてばかりいて

わたしは何もできなくて。

食事作りどころか食材を買いに行くことすらできない日もあった。

そしていつも疲弊していた。

 

もうこの頃になるとわたしは

打たれるばかりのサンドバッグのようだった。

夫が帰ってくるのが怖かった。

いつ帰ってくるのかと思うだけで動悸がしてくる。

 

「行ってこい!」「早くしろ!」「おまえがやれ!」

夫はそういう命令口調でしかものを言わなくなった。