私と同居している母親は、3年前にくも膜下出血で倒れ、一時は命さえも危ない状態でしたが、私と妻の献身的な介護の下、必死でリハビリにも励んだせいか、その後奇跡的に回復して、今は元気で毎日を過ごしています。
その母親は、週に2回ほど近くのデイサービスに通っているのですが、昨日はパッチワークを完成させました。
今日もご訪問有難うございます
私と同居している母親は、3年前にくも膜下出血で倒れ、一時は命さえも危ない状態でしたが、私と妻の献身的な介護の下、必死でリハビリにも励んだせいか、その後奇跡的に回復して、今は元気で毎日を過ごしています。
その母親は、週に2回ほど近くのデイサービスに通っているのですが、昨日はパッチワークを完成させました。
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兵庫県西宮市東鳴尾町1丁目にある東鳴尾駅は、武庫川駅から武庫川団地前駅までを結んでいる全線単線の阪神電鉄武庫川線(1,7km)の駅として、1943(昭和18)年11月21日に開業しました。
島式ホーム1面2線を有していて列車交換可能な無人駅で、駅舎はありません。
2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は2,036人で、これは阪神電鉄の全45駅中44位です。また、武庫川線の駅では4駅中3位です。
この東鳴尾駅と洲先駅とはわずかに400mしか離れておらず、阪神電鉄全線で最短です。
東鳴尾駅が属する阪神電鉄武庫川線は、もともとは西宮市高須町にあって「紫電改」などの戦闘機や飛行艇を作っていた軍需工場の川西航空機(現・新明和工業)への従業員および資材輸送のために軍の要請で建設されました。 しかし、開業後1年経たないうちに川西航空機の工場とともに空襲の被害を受けたので、期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎え、その後、武庫川団地の開発にともなって武庫川団地前駅まで延伸され、現在に至っています。
<東鳴尾駅の年表>
・1943(昭和18)年11月21日:阪神電鉄武庫川線の駅として開業
・1946(昭和21)年1月5日:旅客営業休止
・1948(昭和23)年10月10日:旅客営業再開
・1984(昭和59)年4月3日:列車交換設備を新設
・1995(平成7)年1月17日:阪神・淡路大震災の影響で武庫川線が不通になったことにより、営業休止
・1995(平成7)年1月26日:武庫川線の運転再開により、営業再開
・2011(平成23)年9月1日:駅構内終日全面禁煙化
・2014(平成26)年4月1日:駅ナンバリングの導入
(駅 名 標)
(ホームより武庫川方面を望む)
(踏切上から武庫川団地方面を望む)
(東鳴尾駅)
(ホームへのスロープ)
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3月24日は人力車発祥の日です!
旧福岡藩士の和泉洋助、八百屋の鈴木徳次郎、車職の高山幸助の3人が、東京で見た西洋の馬車からヒントを得て人力車を考案し、試運転を経て1869(明治2)年に3人の名前で東京府に人力車の製造と輸送業務の申請をします。
そして、1870(明治3)年3月24日、東京府から上記3人に正式に人力車の製造と営業の許可が下り、日本橋南詰西側の高札場のかたわらに「御免人力車処」というのぼりを出して、人力車3台で営業を開始しました。
このことを記念して、現在、人力車の営業を行っている「くるま屋日本橋」が3月24日を「人力車発祥の日」と制定しました。
人力車とは、後ろの座席に人を乗せ、車夫が梶棒を両手で持ち、人の力で引く二輪車のことで、乗客が1人乗りのものと2人乗りのものがありましたが、日本では1人乗りのものが圧倒的に多かったそうです。 この人力車は時速8~10kmで、それまで使われていた駕籠よりも早かったのと、馬よりも人間の労働コストの方がはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になり、東京市内に1万台あった駕籠は1872(明治5)年までに完全に姿を消してしまい、逆に人力車は2万5千台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になりました。 1897(明治30)年の日本には、20万台を越す人力車があったそうです。
また、1875年からは中国をはじめ東南アジアの国々やインドなどへの輸出も始まりました。
当初の人力車は、4本柱を立てた箱に屋根を付けたような素朴なものでしたが、徐々に改良されていきました。
車輪もはじめは荷車のような鉄輪だったため、引くとガラガラと音を立てていましたが、しだいに棒ゴムタイヤとなり、1912(明治45)年には、空気入りのゴムタイヤに改良されました。
幌は胴に取り付けられ、乗客の雨除け・日除け用に不可欠なものとされ、胴の両側と前後および屋根に黒襦子を張り、雨が降る時にはこれら全部を張り回したが、晴天時には横幌と前幌とを胴から取り外せるようになっていました。
明治時代には幅広く各層の人々に親しまれ、乗り物の主流を占めてきた人力車も、やがて鉄道の敷設や自動車の発達により1920年代の半ばから利用者が減り、急速に衰退していきました。
現在、一般的な交通運送手段としての人力車はなく、わずかに観光地などで観光目的に使われたり、イベントなどで使われたりするだけです。
ちなみに、現行の道路交通法では、人力車は軽車両扱いとなるが、自転車とはみなされないので、自転車以外の軽車両の通行を禁止している自転車道は通行できません。 また、自転車通行可とされた歩道も人力車は通行できません。
大阪府和泉市太町にあるJR西日本の北信太駅は、天王寺駅から大阪府南部の各都市を経由して和歌山駅までを結んでいる阪和線(63.0km・羽衣支線を含む)の駅です。もともとは大阪と和歌山を高速に結ぶことを目的に建設された阪和電気鉄道の葛葉稲荷停留場として、1932(昭和7)年2月2日に開業しました。
6両分の有効長をもつ相対式ホーム2面2線を有する直営駅です。
駅舎(改札口)は上り・下りそれぞれのホームの和歌山寄りにあり、互いのホームは地下通路で結ばれています。
2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は12,335人で、これは起終点駅を含む阪和線の全36駅中15位です。
北信太駅が属する阪和線は、大阪市南部のターミナルである天王寺から南へ伸び、大阪府南部の各都市を経由して和歌山市へ至る路線であり、JR西日本のアーバンネットワークの一角を形成しています。また、関西国際空港が開港した1994(平成6)年9月4日以降は、同空港へのアクセス路線としても重要な役割も担っています。
<北信太駅の年表>
・1932(昭和7)年2月2日:阪和電気鉄道の葛葉稲荷停留場として開業
・1934(昭和9)年9月29日:売店増築願届出
・1940(昭和15)年12月1日:阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海鉄道山手線の停留場となる
・1944(昭和19)年5月1日:南海鉄道山手線が戦時買収私鉄に指定されたことにより国有化され、国鉄阪和線の所属となる
・1944(昭和19)年5月1日:駅に昇格して、北信太駅となる
・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
・1992(平成4)年11月1日:みどりの窓口の営業開始
・1993(平成5)年7月1日:阪和線運行管理システム(初代)の導入
・2003(平成15)年10月1日:ホームを除き、駅コンコースの喫煙コーナーを廃止
・2003(平成15)年11月1日:IC乗車カード「ICOCA」の利用が可能になる
・2006(平成18)年1月21日:IC乗車カード「PiTaPa」の利用が可能になる
・2009(平成21)年7月1日:ホーム上の喫煙コーナーを廃止して、駅構内終日全面禁煙化
・2010(平成22)年12月1日:組織改正により、大阪支社の管轄から近畿統括本部の管轄に変更される
・2012(平成24)年10月27日:西口に券売機とスロープが完成し運用開始
・2013(平成5)年9月28日:阪和線運行システムを2代目のものに更新
・2016(平成28)年6月14日:みどりの窓口の営業が終了
・2016(平成28)年6月15日:みどりの券売機プラスが稼働開始
・2017(平成29)年3月7日:入線警告音(接近メロディ)を幅広い周波数帯域を持つ音質の警告音に更新
・2018(平成30)年3月17日:駅ナンバリングの導入
(駅 名 標)
(和歌山方面を望む)
(北信太駅駅舎・東口)
(東口・駅舎内)
(北信太駅駅舎・西口)
(西口・駅舎内)
撮影年月日:2019(令和元)年8月16日
3月22日は放送記念日です!
1925(大正14)年の今日(3月22日)、電機メーカーや新聞社などが共同で設立した社団法人の東京放送局(現在のNHK、コールサインはJOAK)が、東京・芝浦にある府立東京高等工芸学校図書館倉庫の仮放送所から、周波数594KHzで日本初のラジオ仮放送を始めました。
当初、東京放送局は3月1日に放送を始める予定でしたが、当時国内にたった1台しかなかったウェスタン・エレクトリック社製の放送用の送信機が、同じく設立準備中の社団法人大阪放送局に先に買い取られてしまったので、急遽、東京市電気局電気研究所が放送実施のために購入していたゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を借りて、それを放送用に改造して使用することにしましたが、逓信省(後の郵政省)の2月26日の事前審査で「放送設備が未完成であるから、3月1日からの放送は許可できない」と判断されてしまいます。
そこで、3月1日からの放送は試験放送ということにして逓信省の許可を受け、3月22日の「仮放送」にこぎつけたのでした。
この日本初のラジオ仮放送をを記念して、NHKが1943(昭和18)年に、3月22日を放送記念日に制定しました。
3月22日の朝9時30分に、京田武男アナウンサーの「アー、アー、アー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より、放送を開始致します」が第一声で、続いて海軍軍楽隊の演奏がありました。
当時はラジオを買うのにも役所の許可が必要で、3月の仮放送開始時点のラジオ受信契約者は5455人だったそうです。
ちなみに、大阪放送局は6月1日に大阪市東区高麗橋の三越百貨店屋上から出力500Wで、名古屋放送局は7月15日に名古屋市外學王山から出力1KWで、それぞれ仮放送を開始し、1926(昭和元)年8月20日に東京・大阪・名古屋の3放送局が合同で設立した社団法人・日本放送協会は、1951(昭和26)年9月1日に日本最初の民間放送となる中部日本放送(現在のCBC)、新日本放送(現在のMBS・毎日放送)が開局するまで、日本で唯一の放送事業体でした。
NHKでは毎年この日に、NHKホールで「放送文化賞」として日本の放送界に貢献した著名人に対する表彰を行っています。