源氏物語と共に

源氏物語関連

光の君へ NHK大河ドラマ

2024-04-29 14:29:43 | 紫式部

 

NHK大河ドラマ 光の君へ

はじまっていますね。

毎回面白いと、楽しみにしているのは夫の方です。

私は途中で離脱しようかなと思ったりしていましたが、

源氏物語にあるような場面が出てくるので、

やはり見ています^ ^

今回は まひろ が手向ける花の場面が

鈴虫の女三宮みたいな場面と思った次第(笑)

あかたな だったかしら?昔に調べたから印象的。

仏様に手向ける花の場面と思いました。

 

登場人物、特に藤原道長をとりまく人達は

知らない事が多いです。比較的自由な設定に何でもありと。

今週は清少納言の赤がかなり鮮やかな色。

伊周も定子の前で桜襲 (ピンク色に透ける衣装)を着て、

あの光源氏の衣装かと思いました(笑)

今までも色々源氏物語の場面を匂わせています。

先週の香炉峰の雪は御簾を上↑に、かかげたのかしら?

ちょっとバタバタしてましたからよく見てなくて(笑)

色々思う事もありますが、楽しく見ています♪

 

↑画像は去年の神泉苑。

祇園祭のいわれも大河ドラマ最後に出ていましたね。

 

最後に、↓二条城お堀まわり 今年4月の桜。

冷泉院跡 と、ありました。


京都風俗博物館 春の展示 道長の娘三女 威子の立后 と、源氏物語 明石姫の裳着

2023-03-29 10:27:14 | 紫式部

 

京都風俗博物館の春の展示

道長の三女 威子の立后(後一条天皇)の様子

これで、道長の娘3人が皇后になりました。

彰子は一条天皇、妍子は三条天皇のいずれも中宮(皇后)です。

扇子を持つ道長 御簾の中の威子

宮中より道長の土御門邸に使者。

 

↑黄色の着物を着ている紫式部。

=この世をば我が世と思ふ

望月の欠けたること無しと思へば=

平安貴族サバイバル本によれば、

道長はこのところ、怨霊に悩まされていた。

しかし、この日は上機嫌でした。

お酒をふるまいます。

詳しくはまた調べてください。

 

 

 

 

さて、こちらは源氏物語。

明石姫の裳着の様子。

白い装束の明石姫は秋好中宮に紐を結んでもらっています。

 

秋好中宮は、あの六条御息所の娘。しかも中宮。

六条御息所亡き後は、光源氏の邸宅が里となり、

中宮ながら、臣下の里に来るとはおそれ多い。

まるで藤原道長のようですね。

この時、明石の上はどこにいたのか、

本文を忘れてしまいました(笑)

 

紫の上と、明石の上の対面は、

たしか明石の姫が宮中に上がる時だったと思います。

明石の上が宮中に一緒について行き、

その後に万事控えめにして、素晴らしい!という事が書かれていたように思います。

 

明石姫の入内のために本を作る様子も展示されていました。

 

 


紫式部と武生(たけふ)

2020-03-01 08:51:45 | 紫式部

旅行に行く折に、湖西線を通り、トンネルを抜けて

敦賀、福井を過ぎ、越前近くの武生という場所を通りました。

(一瞬でしたので、上手に撮れていませんが駅)

紫式部がこちらに住んだ事は有名です。

紫式部集に、友人との贈答歌に、

いつはた(五幡)という名前があります。

 

赤印が五幡 (こはた、いつはた)です。 越前市の手前が武生です。

参考ウェブ

http://www2.ttn.ne.jp/~tomohisa/new_page_11.htm

 

こちらに着くまで、トンネルと山に囲まれた一本道がありました。

1000年前ですから、その旅路は想像もつきませんが、

大変だった事でしょう。

日本海を渡って海外から来る港もあり、越前は昔から重要だったようです。

紫式部は結婚のため、1年ぐらいで帰京したようです。

源氏物語宇治十帖にも、その名前はあるとか。

花橘亭 源氏物語にみえる武生 (参考web)

http://kakitutei.web.fc2.com/murasaki/etizen/index.html

 

確か、紫式部関連でイベントもあったように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部と中宮定子

2014-03-12 10:47:25 | 紫式部
山本淳子先生の講座 「紫式部と中宮彰子」を拝聴。

以前から中宮彰子に興味を持っていたので、嬉しかった。

中宮彰子については、道長の娘で一条天皇の后、
生んだ子供達が天皇になった事以外は知らない事が多い。

先生がおっしゃるには、悲運の定子と比べ、女性として最高の位になった強い女性というイメージが強く
やっかみもあり好かれず、あまり取り上げられなかったそうだ。

しかし、先生の講座では、ちらりとその胸中が思いはかられ、
とても面白かったと思う。

彰子は数え年の12歳、道長の娘と、鳴り物入りで宮中に入ったが、
一条天皇は当時20歳で、11歳の時から結婚した年上の定子のみを愛していた。
道長は彰子を中宮にしたものの、
8年間は子供も出来なかった関係だった。

先生がおっしゃるには、まだ最初は子供であった。
一条天皇の笛の音を横を向いて聞き、天皇が何故かとお聞きになると、
笛は音で聞くものといったという。
子供らしい冗談だったのであろうが、一条天皇は道長を思い、上手にかわされた。

信頼する女房がおらず、
いつも諦めの気持ちで接していた。思う事があって
注意もせず、お嬢様育ちの女房40人をまわりに連れていたそうだ。

何だか女三宮サロンみたいですね(笑)

定子亡き後は、定子の息子の敦康親王を引き取り育てたそうだが
一条天皇との間に子供は出来ず
さすがに焦った道長が当時評判だった紫式部を呼び、源氏物語を餌に天皇をこさせ、
次第に紫式部と仲良くなり、
一条天皇が好きな漢文をひそかに紫式部から学び、天皇との距離を縮め、
2人の王子を生むにいたる。

その幸せもつかの間、一条天皇はすぐに崩御。
ひたすらに一条天皇をしのぶも、
幼い子供達を守るに忙しい。
その後出家して上東門院となる。
名前に院がつく女性は一条天皇の母と2人だけだそうだ。
孫、ひ孫も天皇になり、国母として君臨し、87歳で亡くなったという。

一条天皇をひたすらに偲んだ。
天皇崩御の頃の歌が新古今集にある。

新古今和歌集 
逢うことも、今はなきねの 夢ならで
いつかは君を または見るべき 上東門院

しかし、一条天皇の辞世の句は、
亡き定子の句と唱和しているという藤原行成の日記もある。
拙文
http://blogs.yahoo.co.jp/hana0101/53990408.html

後に、皇位をめぐって、
父道長と意見が違うこともあったそうだが、
紫式部は彰子に寄り添った。
紫式部が密かに教えたという漢文「楽府」の主題は世のための文学。

彰子の孫の孫の談話集 「中外抄」に
昔に祖父(関白実公・ 頼通の子)が上東門院(彰子)に聞いたという話がある。

帝王は慈悲の心を持って国を治めるべきだ。
一条天皇は寒い夜はわざと暖かい夜具を脱いでいらっしゃった。
どうしてなのかと聞くと、
日本国の人民が寒がっているだろうに、私がこうして暖かくしていては
良心が痛むと、おっしゃったという。

立派な国母ですね。その影に紫式部の存在があったともいえましょう。


紫式部は道長の妾か?

2013-09-04 11:19:13 | 紫式部



先日にお知らせした山本淳子先生の講座
「紫式部と藤原道長」を拝聴しました。

あくまで自分なりの解釈と感想ですので、よろしくお願いします

結論はというと、妾というほどの連続した関係では無いようです。

道長は艶福家だったようで、沢山の女性がいました。

紫式部と道長の関係については、
「尊卑分脈」 (南北時代の系図集 ~1399成立) 紫式部の没後400年ぐらい?の成立

「藤原為時」の「女子」の注記に
(式部父)

『紫式部是也 源氏物語作者 右衛門佐藤原宣孝室 御堂関白道長妾云々』
によります。

つまり、為時の「女子」は紫式部であり、
源氏物語の作者 藤原宣孝の正妻 御堂関白道長の妾うんぬん(伝わっている=聞いております)となります

それで、学者がいろいろ調べたのですが、
紫式部日記と紫式部集に載っている歌の状況が違っていたという事でした。

日記の方はあくまでも彰子出産の正式な記事執筆で献上品だったが、
この日記も後世に伝わっているものは、
同僚や清少納言の悪口も書いたいわゆる消息文 私的なものなども入って伝わっていて
謎が多いのです。

日記には次の2首があります

① 源氏の物語御前にあるを・・・略・・
道長  「 すきものと 名にし立てれば 見る人の
         折らで過ぐるは あらじと思ふ」
紫式部 「  人にまだ 折られるものを 誰かこの
          すきものとは 口ならしけむ 」

② 渡殿に寝たる夜、戸を叩く人有りときけど・・・略・・
道長  「 夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ
         真木(まき)の戸口に 叩きわびつる 」
紫式部 「 ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ
         開けてはいかに くやしからまし 」

日記には①②両方が、年次不明の記事。連続していたことも不明であるが、
しかし、その状況から、戸口を叩いた人は道長であるとも解釈できます

そして紫式部集と日記では違う状況の和歌

紫式部 
 「女郎花さかりの色を見るからに 露の分きける身こそ知るられ」

あな疾くと微笑みて 硯召し出づ

道長
 「白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ」

紫式部集にはこの同じ歌の状況が違う。

日記では道長が 随身を連れて鑓水を掃除させている状況で
1枝女郎花を折らせて 几帳より出して早く!とよみかけるが、

式部集では朝露のをかしきほど 殿出てて女郎花の盛りをご覧になる 
(ここには誰もそばにいない?)

=集は、私的なものなので、
何か意図的に違った状況を書いておいたのかもしれません。

とはいえ、継続的な妾関係ではなかったのだろう、
いわゆる召し人(めしうど) 
妻・妾扱いされない主格の人物と固定的な男女関係にある女房
か?
という事でした。


権力者にとって、あくまで手をつけた女の人は情報源だったり利用価値があるのでしょう。
お仕えしているのだから、女房も何度も拒否はできないのではないかと、私は想像します。


実際、源氏物語には、様々な召し人が登場しており、
光源氏の中務の君などや、


代表格としては、
宇治八宮の召し人として、浮舟の母がいます。
自分の身分も低いから娘(浮舟)も八宮に捨てられています。


そういう召し人の女達の存在も描かれていて、
源氏物語は1000年後の私達に教えてくれるという事でした。


お詫び
女郎花の歌を、
詠んだ人を逆に書いていたので
訂正しました。おかしいな?と。


先の歌は紫式部作です。
露の分きける・・方です。
山本先生の訳によると(少しはしょりましたが)
紫式部
=・・略・・露のめぐみを受けられず、美しくなれなかった我が身が恥ずかしく思われます=
道長
=白露はどこにでもある。隔てなどない。
自分の美しくあろうという心によって染まっている。
おまえも心がけ次第では、なかなかのものだ