源氏物語と共に

源氏物語関連

雛遊び

2008-03-05 09:52:28 | 行事

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先日、下鴨神社の御手洗川での雛流し映像のニュースが流れたが、
平安時代は上巳の節句に人形(ひとがた)を流し、
子供の成長を願って厄を追い払ったようだ。


この雛流しの起源とされる人形(ひとがた)流しは源氏物語の須磨の巻にもある。


『三月一日に出で来る巳の日、
今日はかく思すことある人は御禊(みそぎ)し給ふべきと、
なまさかしき人のきこゆれば、海面もゆかしうて、出で給ふ。
いとおろそかにぜむじょうばかりを引きめぐらして、
この国にかよひける陰陽師めして払へさせ給ふ。
舟に、ことごとしき人形(ひとがた)のせて流すを見給ふに 』   (須磨)


この三月三日の上巳の日は、
旧暦では、桃の花が咲く頃なので、桃の節句ともいう。
(最近では、桜も桃もほぼ同時に咲く事が多いように思う)


江戸時代になってやっと現代の雛祭りのような形式となったそうである。
雛祭り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A


また三月上巳の日は<曲水の宴>が祓いの遊びの宴としてある。


源氏物語では<ひいな(雛)遊び>という言葉が出ている。


紫の上がまだ小さい時に、光源氏は一緒にひいな遊びをする。


『雛(ひいな)遊びにも、絵書い給ふにも「源氏の君」と、作り出でて、
清らなる衣着せ。かしづき給ふ』                  (若紫)


『いざ給えよ、をかしき絵など多く雛(ひいな)あそびなどする所に』   (若紫)


『雛(ひいな)など、わざと、屋ども作り続けてもろともに遊びつつ、
こよなきもの思ひの紛らわしなり』               (若紫)


『いつしか雛(ひいな)おしすゑて、そそきゐ給へる。三尺の御厨子一具に、
品々しつらひすゑて、また小さき屋ども作り集めて、
たてまつり給へるを、所せきまで遊びひろげ給へり』       (紅葉賀)


『例のもろともにひいな遊びし給ふ。絵など書きて、色どり給ふ。
よろづに、いとをかしう、すさび散らし給ひけり。
我も書き添へ給ふ。髪いと長き女を書き給ひて、
鼻に紅をつけて見給ふに、かたに書き手も、見ま憂きさましたり』 (末摘花)



夕霧が明石姫と雛遊びをしながら、幼馴染の雲井の雁を思い出して
涙ぐむ場面にもある。


『(明石姫)まだいはけたる御雛(ひいな)遊びなどのけはひの見ゆれば、
かの人(雲井の雁)のもろともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、
雛の殿の宮仕へ、いとよくしたまひて、をりをりにうちしおれたまひけり』 (蛍)


ここで注目は、源氏の賢さ。
息子夕霧を自分の藤壷への経験から紫の上には絶対近づけないが、
幼い明石姫には御簾のうちにまで許している。
兄弟が少なく、光源氏亡き後、
2人はお互いに宮中で協力していかなければならない立場であると考えている。


『中将の君を、こなた(紫の上)には、けほどくもてなし聞え給へれど、
姫君の御方には、さし放ち聞えたまはず、ならはし給ふ。
我が世の程は、とてもかくても、同じことなれど、なからむ世を思ひやるに、
なほ見つきおもひしみる事どもこそ、とりわきてはおぼゆるべけれとて、
南おもての御簾のうちには、許し給へり』              (蛍)


と、兄弟を小さい時から仲良くさせている。


玉鬘も成人になって引き取られたものの、さすがに御簾の内には入れないが、
最初は玉鬘の兄弟として夕霧は親しく訪問していた。
玉鬘が結婚した後も、夕霧とは実際は他人ではあるが、
実の兄柏木よりも玉鬘は頼りにして親しく思ってつきあったようだ。
夫髭黒もしたたかに光源氏派になっている。


雛遊びは夕霧と雲井の雁にとっても、幼い頃の忘れられない思い出。


この2人の関係は伊勢物語の純愛筒井筒の設定のように思う。


三月三日は女の節句。
五月五日は男の節句。
さて、四月四日は?(^_-)-☆



男踏歌

2007-10-24 17:06:37 | 行事
源氏物語には男踏歌が良く出てくる。

源氏物語図典によると、
正月十四日を男踏歌、十六日を女踏歌があり、
正月に地を踏む、つまり踏歌を舞って豊年・繁栄を祈願する行事とある。

中国ではすでに唐代の玄宗の宮廷の行事にあった。

日本では、日本書紀に持統天皇時代に、渡来人によって奏された記事がある。

源氏物語には女踏歌の描写は不明である。
男踏歌は末摘花、初音、真木柱、竹河の巻にみられる。
<水駅(みずうまや)>で夜明け方に盛大なもてなしがあり、
少女への求婚の歌「竹河」や、「この殿は」、「万春(ばんす)楽」などの
描写があり、この行事を描く唯一の文学との事。

平安桓武天皇799年正月に新京を寿いだ歌詞が伝えられている。

清涼殿東庭で儀式が行われ、その後貴族の邸宅を回り、
再び東庭で酒餞や賜禄が行われる。