源氏物語と共に

源氏物語関連

こころの時代 秋山虔 源氏物語と歩む

2013-09-30 16:24:11 | その他
先日に、Eテレの再放送を見ました。とても感動しました☆

秋山虔先生は、源氏物語研究でも有名な方で、
雲の上のような先生☆そんな先生のお話が聞けてとてもラッキーでした
90歳になられて、少しお年を召されたと感じましたが、
それでも言葉の表現は鮮やか。
一言一言が、とても心に響き、良かったです☆



源氏物語といえば、故村井先生も言われていましたが、
直接的に物を言わず、匂わせる表現と良く聞かされていたので(私と全く違う!(笑))
70年間も研究されていたのだから、どうなのでしょう?と思っていたのですが、
お言葉を、素直に感じることが出来ました


故阿部秋生先生と、源氏は権力も富も女性も最高のものを得ていたのに、
笑顔が見られないとねと言いあっていたという言葉が、とても印象的でした

そして日本人は自然や植物と共に生きる国民性という事も、印象的でした。

また紫式部日記の事なども、色々おっしゃっていましたが、
細かい内容は省略します。
ただ、写本をたくさんお持ちだそうです。

最後に、紫の上の事も解説されていましたが、
紫の上の哀しみと、
最後は菩薩のような心持ちで光源氏を想ったという事。

光源氏はあくまでも世俗的。常に、亡き母を求め、紫の上の出家も許せない。
この精神的立場の違いがあったいう言葉も印象的でした。

その男性側の心持ちは、浮舟の最後、夢の浮橋の終わり方とまさに一緒だと思いました。

米田明美先生が夢の浮橋の巻の最後に、
光源氏は結局亡き母を思い、まさしく母恋いの源氏物語と聞いていた事もあって
私にも理解できたのだと思います。

そして、秋山先生がお話をなさる場所に、若菜の女楽の色紙が飾られ、
ここは、私の好きな場面の一つで嬉しかったのですが、
学生時代に、私はここを最高の紫の上の場面と思っていたのです。
実際にはそうであるけれど、
女三宮への光源氏の愛情がかなり勝ってきていたと
後に故村井先生から教えていただき、
更に紫の上の苦悩を感じることができた印象深い場面になったのでした。

とにかく、源氏物語は深いです。光と影のまさしく人間ドラマ。
そのことを知っただけでも収穫といえましょう。
でも、あまりにも深くて踏みまどうことも事実(笑)

様々な先生方の解釈があると思いますが、
さしあたっては、
いつも見せていただいているgennjiさんhttp://blogs.yahoo.co.jp/sachiyo_shiraishii
新しいご本を楽しみにしたいと思っています



故村井利彦教授の思い出

2013-09-28 11:22:18 | その他
私事ではありますが、
社会人シニアカレッジ源氏物語講座の募集を見て飛びついた
神戸山手大学元教授・村井利彦先生が突然、急逝されたと聞き、
先日に、宇治まで告別式に行ってきました。

子供達も大きくなったというので飛びついた源氏物語講座。
当時の私の年齢は、少し下でしたが、参加申し込みを許されたときは嬉しかったです☆
このブログをはじめたのも、
以前からあこがれだった源氏物語講座に最初から参加することが出来たのが、
キッカケでした。

私は別の大学出身ですが、源氏物語が好きで選んだ学科というのに、
2年間は一般教養講座ばかり。いよいよゼミという時に
源氏専門の先生は何故かいらっしゃらず
恩師中古文学の藤本一恵先生のご指導をあおぎました。

当時の私は、先生のご専門の「枕草子」の講座にもうひとつ興味がなく、
もったいないない事をしていました。冷や汗;

やっと卒論で源氏物語を選んだ時は、楽しかったです(笑)
もちろん原文は読めませんから、玉上先生の角川文庫を参考にしました。

その後は、結婚や子育てなどですっかり時間をなくし、
そのうちに参加しようと思っていた諸先生方も亡くなられ、途方にくれていました。
そんな時の募集。

ですから、村井先生は、私にとって
源氏物語を最初の巻からはじめて教えていただいた先生にあたります。

そしてこの村井教授は、講座のお話が大変面白い
いままでちょこっとかじってみた先生方とは、かなり違っていて新鮮!でした。

あっという間に3年間の夢の浮橋までの講座が終了。楽しかったです。

唯一、毎回講義で順番に感想を言うのが苦痛(笑)でしたが、
とにかく1週間に1巻。

予習も大変で、最後に夢の浮橋に行った頃には、
源氏物語の原文をみるのもイヤになるぐらい中身の濃い毎日でした。

私にとって、はじめて原文をざっと読んだ経験でした。

皆の感想を先生がまとめてくださったのを、
巻ごとに皆さんと一緒に和紙で冊子にしたのが、良い思い出となりました。

けれど、最後の方で、実母の骨折手術などで忙しくなってしまい
とりあえず最後まで参加して終了。

その次の新しい講座もはじまりましたが、そういう事情もあって、残念ながら参加できず不義理をしました。
本当に、ちょうど良い時期の3年間に参加できたのは、私にとっても、何よりと思います。

先生が大学を退官される前の最後の講座のご案内もいただきましたが、
折しも、実母が再びの骨折手術。
迷っていましたが、
結局、母は元気でしたのに、急逝。
その後の式も済みましたので、ひそかに行って拝聴しました。

相変わらず、笑顔で本当に楽しい講義でした。

先生は退官後も、最後まで他の場所などで
講座の現役を続けられておられましたのに、
中秋の名月の日に、突然急逝されました。

源氏物語の講座でもおっしゃっていましたが、
紫の上は旧八月の満月の日に逝った
きっとかぐや姫のように昇天されたといわれていたように思うのですが、
先生も、中秋の名月の日に天国に行かれたのだと思います。
本当にお世話になりました不出来な生徒でしたが、
つつしんで先生のご冥福をお祈りいたします。


告別式には、講義のテープが流されており、
飾ってあった源氏物語の冊子は
後で私達の時代のものと聞きました。
皆で遠足に行った時のお写真もあったそうです。
てっきり、ほかの講座の時の冊子と思っていたので、それを聞いてまた涙でした。

もし、何か先生の注訳・「爪印」の本でも発行されれば購入したいものです。

優秀な社会人弟子が沢山いましたので、
いつかその人達が協力されることと思います。

源氏物語は漢文だけでなく、
古事記などの日本の歴史を踏まえているというお話も面白かったです。
残念ながら、私はどちらも苦手なのですが(笑)

時々は嫌になったり、また興味を持ったり、
これからも細々と源氏物語と共に歩んでいけたらと思います。

村井先生、本当にお世話になりました。
笑顔の楽しい講座と思い出をありがとうございました!
最後のお見送りができて本当に良かったです。合掌
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紫式部は道長の妾か?

2013-09-04 11:19:13 | 紫式部



先日にお知らせした山本淳子先生の講座
「紫式部と藤原道長」を拝聴しました。

あくまで自分なりの解釈と感想ですので、よろしくお願いします

結論はというと、妾というほどの連続した関係では無いようです。

道長は艶福家だったようで、沢山の女性がいました。

紫式部と道長の関係については、
「尊卑分脈」 (南北時代の系図集 ~1399成立) 紫式部の没後400年ぐらい?の成立

「藤原為時」の「女子」の注記に
(式部父)

『紫式部是也 源氏物語作者 右衛門佐藤原宣孝室 御堂関白道長妾云々』
によります。

つまり、為時の「女子」は紫式部であり、
源氏物語の作者 藤原宣孝の正妻 御堂関白道長の妾うんぬん(伝わっている=聞いております)となります

それで、学者がいろいろ調べたのですが、
紫式部日記と紫式部集に載っている歌の状況が違っていたという事でした。

日記の方はあくまでも彰子出産の正式な記事執筆で献上品だったが、
この日記も後世に伝わっているものは、
同僚や清少納言の悪口も書いたいわゆる消息文 私的なものなども入って伝わっていて
謎が多いのです。

日記には次の2首があります

① 源氏の物語御前にあるを・・・略・・
道長  「 すきものと 名にし立てれば 見る人の
         折らで過ぐるは あらじと思ふ」
紫式部 「  人にまだ 折られるものを 誰かこの
          すきものとは 口ならしけむ 」

② 渡殿に寝たる夜、戸を叩く人有りときけど・・・略・・
道長  「 夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ
         真木(まき)の戸口に 叩きわびつる 」
紫式部 「 ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ
         開けてはいかに くやしからまし 」

日記には①②両方が、年次不明の記事。連続していたことも不明であるが、
しかし、その状況から、戸口を叩いた人は道長であるとも解釈できます

そして紫式部集と日記では違う状況の和歌

紫式部 
 「女郎花さかりの色を見るからに 露の分きける身こそ知るられ」

あな疾くと微笑みて 硯召し出づ

道長
 「白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ」

紫式部集にはこの同じ歌の状況が違う。

日記では道長が 随身を連れて鑓水を掃除させている状況で
1枝女郎花を折らせて 几帳より出して早く!とよみかけるが、

式部集では朝露のをかしきほど 殿出てて女郎花の盛りをご覧になる 
(ここには誰もそばにいない?)

=集は、私的なものなので、
何か意図的に違った状況を書いておいたのかもしれません。

とはいえ、継続的な妾関係ではなかったのだろう、
いわゆる召し人(めしうど) 
妻・妾扱いされない主格の人物と固定的な男女関係にある女房
か?
という事でした。


権力者にとって、あくまで手をつけた女の人は情報源だったり利用価値があるのでしょう。
お仕えしているのだから、女房も何度も拒否はできないのではないかと、私は想像します。


実際、源氏物語には、様々な召し人が登場しており、
光源氏の中務の君などや、


代表格としては、
宇治八宮の召し人として、浮舟の母がいます。
自分の身分も低いから娘(浮舟)も八宮に捨てられています。


そういう召し人の女達の存在も描かれていて、
源氏物語は1000年後の私達に教えてくれるという事でした。


お詫び
女郎花の歌を、
詠んだ人を逆に書いていたので
訂正しました。おかしいな?と。


先の歌は紫式部作です。
露の分きける・・方です。
山本先生の訳によると(少しはしょりましたが)
紫式部
=・・略・・露のめぐみを受けられず、美しくなれなかった我が身が恥ずかしく思われます=
道長
=白露はどこにでもある。隔てなどない。
自分の美しくあろうという心によって染まっている。
おまえも心がけ次第では、なかなかのものだ





手習 浮舟見つかる

2013-09-02 12:23:10 | 登場人物
米田明美先生の講座も、ざっと手習まで来た。
時間上、かげろうの巻は飛ばされたが、
手習では浮舟の和歌が沢山出てくるそうだ。

しかも、源氏物語にある和歌の中で、
紫の上23首より多い。26首が、浮舟の和歌であるそうだ。

最初から登場する紫の上と違って、
浮舟の登場は、宇治十帖の後半わずか。
非常に特異であるし、
それだけ浮舟は何か印象的な意味があるのかもしれない。

手習とは、すさび、自分の気持ちを和歌にする事。
人に見せるものではない下書き。

ここで明石の上が、六条院でお正月にすさびの和歌を置いていた事を思い出す。
そして光源氏は泊まったような?
その和歌は、ちい姫に対する気持ちのすさびだったか
それは忘れたけれど(笑)光源氏も子供を紫の上に預けたという負い目があった?

さて、手習の巻は突然、横川の僧都なるものが出て来て、
その家族も出てくる。当時、実際にモデルとされる人物がいたようだ。

その母尼と妹尼は初瀬観音(長谷寺)のお参りの帰りに、
母の具合が悪くなり、修行している兄に知らせた結果、修行中の兄僧都が山から降りてくることになった。
そして一行は宇治院というところに泊まる事になる。
そして、そこで浮舟であろう人を木のもとで見つける。

最初は狐のたぐいと思ったが
次第に女人という事がわかってくる。

しかも妹尼は自分の娘を亡くしており、結願のおまいりの初瀬で、その晩に夢(夢告)を見た。
これは娘の生まれ変わりかと、
一生懸命浮舟を文字通り、親鳥が抱きかかえて子鳥をはぐくむように介抱する。

僧都が再びいっこうに良くならない浮舟のために、
再び山から降りて祈祷すると、
やっともののけが出てくる。
昔は僧侶であったが世に心を残し、
美しい女達のいる宇治の八宮邸にすみついた。
一人は殺した(宇治大君だと思われる)と白状する。
その後、もののけは退散し、妹尼の手厚い介抱で、浮舟もやっと回復していった。

このあたり、とても面白く、狐が人をばかす話などが、当時にもあった事などがわかる。
その表現もリアルでハラハラ。紫式部は上手に描いている。
導入部分と浮舟の見つかり方、妹尼と初瀬観音信仰なども含めて、見事な物語の書き方。

小野や横川など、
京の都から離れた場所をどうして紫式部は知っていたのか不思議であるが、
その場面が目に浮かぶような有様。

小野は故柏木の夫人「落葉宮」の母が住んでいたあたりかということだが、
夕霧も盛んに落葉宮を慰めに通っていた事を思い出す。

後に夕霧の妻になった落葉宮であるが、
小野は、比叡山西麓(一乗寺から八瀬の方)一帯が
清水好子先生によると、小野(小野妹子など)一族の持ち物だった所からそう言われるとか。

次の展開も楽しみな浮舟の今後。
今話題の半沢直樹ドラマの来週が楽しみなのと一緒