冬の夜の月は、人に違(たが)ひてめで給ふ御心なれば、
おもしろき雪の光に、をりに合ひたる手どもを弾き給ひつつ、
さぶらふ人々も、すこしこのかたにほのめきたるに、
御琴どもとりどりに弾かせ給ふ。 (若菜下)
おもしろき雪の光に、をりに合ひたる手どもを弾き給ひつつ、
さぶらふ人々も、すこしこのかたにほのめきたるに、
御琴どもとりどりに弾かせ給ふ。 (若菜下)
女三宮にきんの琴を教える源氏は師走の雪の時節に琴を弾く。
そして琴(こと)にすぐれた女房達に琴の合奏をさせる。
それを師走で正月準備に忙しい紫の上は聞けない事を残念に思い、
春に女三宮の琴をきいてみたいと思うのであった。
そして琴(こと)にすぐれた女房達に琴の合奏をさせる。
それを師走で正月準備に忙しい紫の上は聞けない事を残念に思い、
春に女三宮の琴をきいてみたいと思うのであった。
玉上氏の解説に、枕草子では、
『すざましきもの、おうなのけさう、しはすの月夜』 とあり、
普通は冬の月は愛でないようだ。
『すざましきもの、おうなのけさう、しはすの月夜』 とあり、
普通は冬の月は愛でないようだ。
光源氏が冬の月が好きという記述は朝顔の巻にも見られる。
『時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、
冬の夜のすめる月に雪の光あひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、
この世のほかの事まで思ひ流され、面白さもあはれさも残らぬ折なれ。
すさまじき例(ためし)に言ひけむ人の心浅さよとて、御簾巻きあげさせ給ふ。
冬の夜のすめる月に雪の光あひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、
この世のほかの事まで思ひ流され、面白さもあはれさも残らぬ折なれ。
すさまじき例(ためし)に言ひけむ人の心浅さよとて、御簾巻きあげさせ給ふ。
月は隈(くま)なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、
しをれたる前栽のかげ心苦しう、
やり水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、
童女(わらはべ)おろして、雪まぼろしさせ給ふ』 (朝顔)
しをれたる前栽のかげ心苦しう、
やり水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、
童女(わらはべ)おろして、雪まぼろしさせ給ふ』 (朝顔)
この<すさまじき例に言ひけむ人の心浅さよ>のくだりは、
清少納言の<すさまじきもの>を意識しているのだろうか?
一般論として言ったのかもしれないが、面白いと思った。
清少納言の<すさまじきもの>を意識しているのだろうか?
一般論として言ったのかもしれないが、面白いと思った。
須磨の巻でも冬の雪のシーンに源氏はきんの琴(こと)を弾いている。
『冬になりて雪ふりあれたる頃、空のけしきもことにすごくながめ給ひて琴(きん)を
弾きすさび給ひて良清にうたわせ、大輔横笛吹きて遊び給ふ
心とどめてあはれなる手など弾き給へるに、こともの声どもはやめて涙をもごひあへり。
・・略・・月いとあかうさし入りて、はかなき旅の御産所は奥までくまなし。』(須磨)
『冬になりて雪ふりあれたる頃、空のけしきもことにすごくながめ給ひて琴(きん)を
弾きすさび給ひて良清にうたわせ、大輔横笛吹きて遊び給ふ
心とどめてあはれなる手など弾き給へるに、こともの声どもはやめて涙をもごひあへり。
・・略・・月いとあかうさし入りて、はかなき旅の御産所は奥までくまなし。』(須磨)
須磨というと、どうしても冒頭の名文
「須磨にはいとど心尽くしの秋風に・・」が有名であるが、
しっかり冬の場面も描かれていたのは面白い。
ここは、なかなかあわれをさそう場面であり、
伊勢物語の在原業平の都鳥のくだりを思い出す場面でもある。
「須磨にはいとど心尽くしの秋風に・・」が有名であるが、
しっかり冬の場面も描かれていたのは面白い。
ここは、なかなかあわれをさそう場面であり、
伊勢物語の在原業平の都鳥のくだりを思い出す場面でもある。
個人的には、私も冬の月は冴えざえと澄みきった感じがして素晴らしいと思う。
若菜下で夕霧との音楽の春秋論
『夜ふけゆくけはひ冷ややかなり。臥し待の月ははつかにさし出でたる、
心もとなしや、春の朧月夜よ。秋のあはれはたかうやうなるものの音に、
虫の声より合わせたる、ただならず、こよなく響き添ふここちすかしとのたまへば、
心もとなしや、春の朧月夜よ。秋のあはれはたかうやうなるものの音に、
虫の声より合わせたる、ただならず、こよなく響き添ふここちすかしとのたまへば、
大将の君、
秋の夜の隈(くま)なき月にはよろづのものとどこほりなきに、
琴笛(ふえこと)の音にも、あきらかに澄めるここちはしはべれど、
なほことさらに作りあはせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目うつろひ心散りて限りこそはべれ。
春のたどたどしき霞(かすみ)の間より、
おぼろなる月影に、静かに吹き合わせたるやうにはいかでか。
笛の音なども艶(えん)に澄みのぼり果てずなむ。
女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける、げにさなむはべりける。
なつかしくもののととのほることでは、春の夕暮れこそことにはべれ
秋の夜の隈(くま)なき月にはよろづのものとどこほりなきに、
琴笛(ふえこと)の音にも、あきらかに澄めるここちはしはべれど、
なほことさらに作りあはせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目うつろひ心散りて限りこそはべれ。
春のたどたどしき霞(かすみ)の間より、
おぼろなる月影に、静かに吹き合わせたるやうにはいかでか。
笛の音なども艶(えん)に澄みのぼり果てずなむ。
女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける、げにさなむはべりける。
なつかしくもののととのほることでは、春の夕暮れこそことにはべれ
いな、この定めよ。いにしへより人のわきかねたることを
末の世に下れる人のえあきらめ果つあじくこそ。
ものの調べ、曲(ごく)のものどもはしも。
げに律をば次のものにしたるはさもありかし。』 (若菜下)
末の世に下れる人のえあきらめ果つあじくこそ。
ものの調べ、曲(ごく)のものどもはしも。
げに律をば次のものにしたるはさもありかし。』 (若菜下)
夕霧は秋の月に琴笛の音は澄んだ心地がするが、わざわざこしらえたような空のけしき、
秋草の花の露にも目移りがして限りがある、
春のぼんやりした霞の間より朧にみえる月影に静かに笛を吹き合わせる趣にはかないません。女は春をいつくしむと<女感陽気春、思男。男感陰気、秋、思女 「毛詩」>
古人がいったのは確かにそうだと思います。
なつかしくものがしっくりするのは、春の夕暮れこそでしょうと春に味方をする。
秋草の花の露にも目移りがして限りがある、
春のぼんやりした霞の間より朧にみえる月影に静かに笛を吹き合わせる趣にはかないません。女は春をいつくしむと<女感陽気春、思男。男感陰気、秋、思女 「毛詩」>
古人がいったのは確かにそうだと思います。
なつかしくものがしっくりするのは、春の夕暮れこそでしょうと春に味方をする。
しかし、源氏はこの春秋論は昔の人でさえも判断しかねた事を
劣った末世のものが結論を出すのは難しいだろうと、やや留保をつけた意見をする。
劣った末世のものが結論を出すのは難しいだろうと、やや留保をつけた意見をする。
春秋論についてはご承知の通り、
万葉集の時代から額田王などの歌でも盛んに論じられているので、
紫式部も断言を避けたという事であろう。
万葉集の時代から額田王などの歌でも盛んに論じられているので、
紫式部も断言を避けたという事であろう。
音楽会というと何となく秋が多いような気もするが、
源氏物語で春と秋、どちらに琴が使われているか多いか調べるのも面白いかもしれない。
源氏物語で春と秋、どちらに琴が使われているか多いか調べるのも面白いかもしれない。
ちなみに源氏物語図典によると、
雅楽の音階には律施(りっせん)音階と
呂施(りょせん)音階の2種類があり、呂は中国の正楽の音階、律は俗楽の音階で、
それぞれが日本化したが、鎌倉以後はほとんどが律施(りっせん)になるとの事
「河海抄」によると、呂は春の調べ、律は秋の調べとあり、
呂は男の声、律は女の声なり。陰陽又これに同じ「竜鳴抄」と感覚的に把握されたようだ。
雅楽の音階には律施(りっせん)音階と
呂施(りょせん)音階の2種類があり、呂は中国の正楽の音階、律は俗楽の音階で、
それぞれが日本化したが、鎌倉以後はほとんどが律施(りっせん)になるとの事
「河海抄」によると、呂は春の調べ、律は秋の調べとあり、
呂は男の声、律は女の声なり。陰陽又これに同じ「竜鳴抄」と感覚的に把握されたようだ。
また調子(音階)には雅楽の唐楽では6調子がある。
すなわち壱越(いちこつ)調・双調・大食(たいしき)調、
平調・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調で、
すなわち壱越(いちこつ)調・双調・大食(たいしき)調、
平調・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調で、
双調が春、平調が秋、黄鐘調が夏、盤渉調が冬の調子とされたとの事。