最後の巻となりました、
大塚ひかりさんの解説で驚いたことは
浮舟の弟小君に対して、横川の僧都が
時々は遊びにいらしゃいと、私とは浮舟との縁があるからという風に
うち語らひたまふという訳を、いわゆる男色の事を指摘された事です。
浮舟の弟小君に対して、横川の僧都が
時々は遊びにいらしゃいと、私とは浮舟との縁があるからという風に
うち語らひたまふという訳を、いわゆる男色の事を指摘された事です。
以前から、語らふという言葉について
見るという正式の妻ではなく、召人扱いという解説をされていたのですが、
ここでも男色的な訳とされ、
紫式部が僧都社会にまでそういう傾向にある事を批判していると。
見るという正式の妻ではなく、召人扱いという解説をされていたのですが、
ここでも男色的な訳とされ、
紫式部が僧都社会にまでそういう傾向にある事を批判していると。
横川の僧都は当時の有名な源信がモデルとも言われていますが、
どうなのでしょうか。
どうなのでしょうか。
新潮古典集大成では普通に、親しく言葉をおかけになるとありました。
たしかに僧都は美しい浮舟を助けて後に出家させたものの、
薫から探していた人と聞くと、すぐに還俗をすすめるような人です。
浮舟と同じように美しいこの弟をみて、そういう風に言ったのも
おかしくはないのでしょう。
薫から探していた人と聞くと、すぐに還俗をすすめるような人です。
浮舟と同じように美しいこの弟をみて、そういう風に言ったのも
おかしくはないのでしょう。
女一ノ宮(帝と明石中宮の娘)の病気を治すために宮中に呼ばれ、
無事に平癒させたほどの実力ある僧都なのですが、
明石中宮に小野で助けた浮舟の話をするなど
ちょっとうかつにも思えます。
そこで、浮舟の話が薫に伝わってしまいました。
無事に平癒させたほどの実力ある僧都なのですが、
明石中宮に小野で助けた浮舟の話をするなど
ちょっとうかつにも思えます。
そこで、浮舟の話が薫に伝わってしまいました。
もっとも、僧都が秘密をうちあけるというのは
源氏物語には多いと指摘されますが。
確かに冷泉帝は光源氏がおそらく実父であると
僧都から知らされています。
源氏物語には多いと指摘されますが。
確かに冷泉帝は光源氏がおそらく実父であると
僧都から知らされています。
薫の和歌
のり(法)の師とたづねる道をしるべにて
おもはぬ山に踏みまどふかな
のり(法)の師とたづねる道をしるべにて
おもはぬ山に踏みまどふかな
何だか皮肉に感じる宇治十帖。
宇治の八宮とは仏道の話から仲良くなったはずなのに、
結局そこで宇治の姫宮達に惑い、浮舟に惑い、
出家どころではなくなったのですが。
宇治の八宮とは仏道の話から仲良くなったはずなのに、
結局そこで宇治の姫宮達に惑い、浮舟に惑い、
出家どころではなくなったのですが。
読んでいくうちに
浮舟は男性になびかず、早く出家して欲しいと思うようになりましたし、
召人の立場や女性の自立も感じさせる内容でした。
浮舟は男性になびかず、早く出家して欲しいと思うようになりましたし、
召人の立場や女性の自立も感じさせる内容でした。
薫は浮舟は誰か男の人に隠されているのだろうと
落としめてみているという最後の文は、とても滑稽に感じました。
落としめてみているという最後の文は、とても滑稽に感じました。
最後まで登場人物の心のすれ違いで終わった宇治十帖でしたが、
一体何を紫式部は伝えたかったのでしょう。
一体何を紫式部は伝えたかったのでしょう。
世も末になって様々なことが乱れている世界を批判したのでしょうか。
とにかく1000年以上も語り続けられる源氏物語の魅力には
ただただ驚くばかりです。
ただただ驚くばかりです。