源氏物語と共に

源氏物語関連

薔薇(追加画像あり)

2010-05-27 16:45:31 | 
連日の雨で、薔薇も盛りが過ぎてしまいました。

源氏物語の「さうび」は
結局まだ白色なのか赤色なのかわかりませんが、
手に入れた「万葉」という薔薇が、今年も咲きました。
イメージ 4


オレンジ色ですが花びらが可愛いです。


次に、何故か庭に勝手に生えて来たノイバラの種類。
万葉集では「うまら」と言われています。
あまりに大きく伸びるので、
そのままにするとたぶん秋には結実して赤い実がなるのだろうけれど、あきらめて、切ってしまいました、
イメージ 1

そしてツツジ。
源氏物語の時代は
今のように大きなツツジの花ではなく、
歌などからも、岩の根本に咲く岩ツツジだろうという事です。
ツツジもそろそろ終わりの季節です。
たぶんオレンジ色だということなので、画像は後で追加します。
イメージ 5


そしてGWに見かけた福岡の藤。
この木は巨木でした。
光源氏が招かれた右大臣宅の藤の宴で、
一人あざれたる大君姿で
「桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲」
を着ていた事を思い出します。
どんな藤の花だったのでしょうか。

何故か八重桜もまだ少しだけ残っていました。
故蝶と一緒で、嬉しかったです
イメージ 2

そして珍しい緑色の桜を(たぶん、八重桜の種類?)
イメージ 6


イメージ 3






筑紫

2010-05-08 11:20:28 | その他
GWは福岡へ行ってきました。

ちょうど博多どんたくのお祭りに重なったせいか、大変にぎやか。
駅前はホテルが沢山並び、町が大都会のように感じました。

しかし、観光してみると、
金印出土の志賀島もすぐ目の前に見え、
また元寇が来襲したという場所も、
町を一望するタワーから遠くに見えてと、
大変歴史を感じさせる町でした。
イメージ 1



大濠公園という所へ行くと池があり、
昔はこのあたりまで入り江だったそうで、
カラスにまじって白サギや海カモメのような鳥も見かけました。
イメージ 2

筑紫と呼ばれた頃は一体どんな風だったのかと
想像するのも楽しいです♪

ご存知の通り、筑紫は源氏物語にもその地名が見え、
夕顔の忘れ形見である玉鬘が
ここから右近達と京へ来たという設定がされています。

紫式部集によると、
京で姉とも妹とも思っていた紫式部の童友達が
父の任期のため、彼女は筑紫へ、式部は越前へと、
お互いに離れ離れになったというくだりがあります。

約束通り、文をその道中でもやりとりしていますから
その友情も、すごいものです。
そして文を持っていく使者達も、当時は大変だったでしょうね。

もっとも、今では新幹線でもあっという間に着きますし、
飛行機なら、もっと早いでしょう(笑)


筑紫へいく人のむすめの
「西の海をおもひやりつつ月見れば、
ただに泣かるるころにもあるかな」
返し
(紫式部) 
「西へゆく月のたよりにたまづさの
書き絶えめやは雲のかよひ路」 (紫式部集)』

当時、京からは筑紫ははるかに遠く、
彼女が泣いたのもわかります。
もっとも、この歌の詞書は、
竹内美千代 「紫式部集評釈 桜風社 」によれば、
写本によっては「むすめに」という本もあるそうなので
そうであるなら、式部の歌が先となりますが、
ここでは普通に新潮日本古典集成の解釈で。

その後も、この筑紫へ行った童友達なりし人とのやりとりが載っていますし、彼女はどうもその後に九州で亡くなったようです。

源氏物語にも九州で有名だった地名が入った歌が見えます。

玉鬘 
「君にしも心たがはば松浦なる鏡をかけてちかはむ」
「年を経て祈る心のたがひなば鏡の神をつらしとや見む」

実際には式部は九州へは行っていませんが、
こうやって歌であったり、屏風絵なのでも知り、
それを歌などに用いるあたりは、
当時の教養と雅さが感じられます。

私など地名や位置でさえ、知らない所が多くて困ります(笑)

それにしても、
玉鬘が九州の豪族の求愛を断って逃げてくるあたりの
豪族達の描写など、とてもリアルに感じました。

いつも思うのですが、紫式部はそういう人達の描き方も
大変上手だと思います。
京を離れた経験は、彼女にとって良かったのかもしれません。


旅行の方は、幸いにも天候にも恵まれ、
白味噌のもつ鍋や、珍しい瓦そばも食べました。
かば田の昆布漬け辛子明太子や、
万葉集の和歌が包みに載っていた
筑紫もちなどをお土産に持ち帰りました♪

九州の男の人の方言は、カッコ良かった!です(笑)
イメージ 3