山本淳子先生の講座 「紫式部と中宮彰子」を拝聴。
以前から中宮彰子に興味を持っていたので、嬉しかった。
中宮彰子については、道長の娘で一条天皇の后、
生んだ子供達が天皇になった事以外は知らない事が多い。
先生がおっしゃるには、悲運の定子と比べ、女性として最高の位になった強い女性というイメージが強く
やっかみもあり好かれず、あまり取り上げられなかったそうだ。
しかし、先生の講座では、ちらりとその胸中が思いはかられ、
とても面白かったと思う。
彰子は数え年の12歳、道長の娘と、鳴り物入りで宮中に入ったが、
一条天皇は当時20歳で、11歳の時から結婚した年上の定子のみを愛していた。
道長は彰子を中宮にしたものの、
8年間は子供も出来なかった関係だった。
先生がおっしゃるには、まだ最初は子供であった。
一条天皇の笛の音を横を向いて聞き、天皇が何故かとお聞きになると、
笛は音で聞くものといったという。
子供らしい冗談だったのであろうが、一条天皇は道長を思い、上手にかわされた。
信頼する女房がおらず、
いつも諦めの気持ちで接していた。思う事があって
注意もせず、お嬢様育ちの女房40人をまわりに連れていたそうだ。
何だか女三宮サロンみたいですね(笑)
定子亡き後は、定子の息子の敦康親王を引き取り育てたそうだが
一条天皇との間に子供は出来ず
さすがに焦った道長が当時評判だった紫式部を呼び、源氏物語を餌に天皇をこさせ、
次第に紫式部と仲良くなり、
一条天皇が好きな漢文をひそかに紫式部から学び、天皇との距離を縮め、
2人の王子を生むにいたる。
その幸せもつかの間、一条天皇はすぐに崩御。
ひたすらに一条天皇をしのぶも、
幼い子供達を守るに忙しい。
その後出家して上東門院となる。
名前に院がつく女性は一条天皇の母と2人だけだそうだ。
孫、ひ孫も天皇になり、国母として君臨し、87歳で亡くなったという。
一条天皇をひたすらに偲んだ。
天皇崩御の頃の歌が新古今集にある。
新古今和歌集
逢うことも、今はなきねの 夢ならで
いつかは君を または見るべき 上東門院
しかし、一条天皇の辞世の句は、
亡き定子の句と唱和しているという藤原行成の日記もある。
拙文
http://blogs.yahoo.co.jp/hana0101/53990408.html
後に、皇位をめぐって、
父道長と意見が違うこともあったそうだが、
紫式部は彰子に寄り添った。
紫式部が密かに教えたという漢文「楽府」の主題は世のための文学。
彰子の孫の孫の談話集 「中外抄」に
昔に祖父(関白実公・ 頼通の子)が上東門院(彰子)に聞いたという話がある。
帝王は慈悲の心を持って国を治めるべきだ。
一条天皇は寒い夜はわざと暖かい夜具を脱いでいらっしゃった。
どうしてなのかと聞くと、
日本国の人民が寒がっているだろうに、私がこうして暖かくしていては
良心が痛むと、おっしゃったという。
立派な国母ですね。その影に紫式部の存在があったともいえましょう。
以前から中宮彰子に興味を持っていたので、嬉しかった。
中宮彰子については、道長の娘で一条天皇の后、
生んだ子供達が天皇になった事以外は知らない事が多い。
先生がおっしゃるには、悲運の定子と比べ、女性として最高の位になった強い女性というイメージが強く
やっかみもあり好かれず、あまり取り上げられなかったそうだ。
しかし、先生の講座では、ちらりとその胸中が思いはかられ、
とても面白かったと思う。
彰子は数え年の12歳、道長の娘と、鳴り物入りで宮中に入ったが、
一条天皇は当時20歳で、11歳の時から結婚した年上の定子のみを愛していた。
道長は彰子を中宮にしたものの、
8年間は子供も出来なかった関係だった。
先生がおっしゃるには、まだ最初は子供であった。
一条天皇の笛の音を横を向いて聞き、天皇が何故かとお聞きになると、
笛は音で聞くものといったという。
子供らしい冗談だったのであろうが、一条天皇は道長を思い、上手にかわされた。
信頼する女房がおらず、
いつも諦めの気持ちで接していた。思う事があって
注意もせず、お嬢様育ちの女房40人をまわりに連れていたそうだ。
何だか女三宮サロンみたいですね(笑)
定子亡き後は、定子の息子の敦康親王を引き取り育てたそうだが
一条天皇との間に子供は出来ず
さすがに焦った道長が当時評判だった紫式部を呼び、源氏物語を餌に天皇をこさせ、
次第に紫式部と仲良くなり、
一条天皇が好きな漢文をひそかに紫式部から学び、天皇との距離を縮め、
2人の王子を生むにいたる。
その幸せもつかの間、一条天皇はすぐに崩御。
ひたすらに一条天皇をしのぶも、
幼い子供達を守るに忙しい。
その後出家して上東門院となる。
名前に院がつく女性は一条天皇の母と2人だけだそうだ。
孫、ひ孫も天皇になり、国母として君臨し、87歳で亡くなったという。
一条天皇をひたすらに偲んだ。
天皇崩御の頃の歌が新古今集にある。
新古今和歌集
逢うことも、今はなきねの 夢ならで
いつかは君を または見るべき 上東門院
しかし、一条天皇の辞世の句は、
亡き定子の句と唱和しているという藤原行成の日記もある。
拙文
http://blogs.yahoo.co.jp/hana0101/53990408.html
後に、皇位をめぐって、
父道長と意見が違うこともあったそうだが、
紫式部は彰子に寄り添った。
紫式部が密かに教えたという漢文「楽府」の主題は世のための文学。
彰子の孫の孫の談話集 「中外抄」に
昔に祖父(関白実公・ 頼通の子)が上東門院(彰子)に聞いたという話がある。
帝王は慈悲の心を持って国を治めるべきだ。
一条天皇は寒い夜はわざと暖かい夜具を脱いでいらっしゃった。
どうしてなのかと聞くと、
日本国の人民が寒がっているだろうに、私がこうして暖かくしていては
良心が痛むと、おっしゃったという。
立派な国母ですね。その影に紫式部の存在があったともいえましょう。