ネイチャー・コンタクト ~ 自然とディープにふれあおう ~

アフターや休日にふれあう、いろいろな自然。ネイチャーコンタクト・フォトブログです。

トイレの神様からわかる日本人の自然と共存する精神

2013年07月03日 | 3.日本人と神社と自然

一昨年のHNK紅白歌合戦では「トイレの神様」という歌がたいへん話題に
なりました。
この歌で歌われているトイレの神様はとても綺麗な女神様だそうですが、
この神様が本当に存在することを知りました。
一人はハニヤスヒメノカミ、もう一人はミズハノメノカミという名です。

なんとハニヤスヒメノカミはイザナミという神様のウンコから、ミズハ
ノメノカミはオシッコから生まれたそうなのです。
この話だけ聞くと「神様がウンコとオシッコから生まれるなんて、そんな
滅茶苦茶な!」という気持ちにもなります。



しかし、ここから先が重要です。
ハニヤスヒメノカミは土壌を守り豊穣をもたらしてくれる神様、ミズハノ
メノカミは水(生活用水・農業用水)の神様なのです。

昔はトイレは便所と呼ばれ、水洗式ではなく汲み取り式でした。
汲み取った糞尿をどうしていたかというと、畑にまいて肥料にしていた
のです。
私がまだ10歳以下の子供だったころの自宅でも、天秤みたいにして棒に
つけた二つの桶をかついだおじさんが、たまに家に来て便所にたまった
し尿を汲み取っていったのを憶えています。

また日本はほんらい湧き水に富んだ国で、あちこちに湧き水や浸出水が
ありました。
これらの水は沢や小川となり、人々はその水を農業用水をはじめとして
生活のいろいろなことに利用してきたのです。

自然と共存していた昔の日本人にとっては無駄なものなんて、きっと
なかったのでしょう。
汚く臭いウンコやオシッコでも畑の大事な肥料となり、おいしい農作物
になって帰ってくる。こうしたエコロジー的な自然の循環をを経験的に
知っていたから、トイレも肥料づくりの入り口として、そしてオシッコ
やウンコも決してバカにしなかったのではないでしょうか。

それにお二人は綺麗な女神様。
そんな神様がいるのなら、トイレも綺麗にしなくてはと思うでしょう。




桜木神社さんで聞いたお話のおかげで、私は神道が縄文時代からの自然
崇拝・自然信仰を起源としていると知りました。
その後、自然と共存する古くからの日本人の知恵などの精神文化が、
神道の中に隠れていると推察して、神社や神様について調べています。

今回ハニヤスヒメノカミとミズハノメノカミというトイレの女神のことを
知って「自然の恵みや摂理を神様としてきた。」というのは、こういうこと
だったのかとよく理解することができました。
こうした日本人の心に感激さえしました。
今後も、こうした神社の儀式や神様について探っていきたいと思います。


植樹祭の帰り道

2013年07月03日 | 3.日本人と神社と自然
6月22日(土)の植樹祭(防災林としての鎮守の森づくり)の帰り道、
3つの神社に立ち寄りました。

一つ目は植樹祭会場の国立神奈川病院の近くにある古い神社で、2008年
にここでも鎮守の森づくりを目的とした植樹祭が行なわれたそうです。



●秦野市落合の落合八幡神社。


●この樹林帯も植樹によって作られたそうです。


●植樹についての説明がありました。


神社は丘の上にあり、ここから町が見下ろせました。
落合八幡神社は昔から鎮守様として、この土地をこうして見守って
きたのだと地元の方々から聞きました。



●落合の鎮守様(神社)は町を見下ろせるところにあるのです。


この話を聞いて神社から町を見下ろすと、島のようにこんもりとした
樹林が見えます。
二つ目の神社として立ち寄ることにしたのはここです。この樹林も
社寺林で、神社があると聞いたためです。



●見下ろした風景の中に島のような緑がありました。


行ってみると八坂神社という神社でした。そばに金目(かなめ)川と
いう川が流れ、川岸の樹林が社寺林になっていました。



●そこまで歩いて行ってみると川沿いにある八坂神社という神社の社寺林でした。


金目川沿いには田畑があり、上流の方に丹沢大山山系が見えます。
丹沢大山山系に降り注いだ雨が川となり恵みをもたらしているのは
一目瞭然でした。
大山にもまた阿夫利神社(阿夫利山は大山の別名)があり、昔から
信仰の対象となってきたそうです。



●前方の山が恵みをもたらしていることが一目瞭然。


三つ目の神社として最後に立ち寄ったのは、出水大社相模分祀です。
この神社の宮司さんが今回の植樹祭をはじめ、落合神社の植樹祭など、
秦野市内の鎮守の森づくりの世話人を務めてきたのです。



●秦野にある出雲大社相模分祀。


●ここでも鎮守の森の植樹祭が行なわれたらしいです。


出雲大社相模分祀には鎮守の森の守り神として龍蛇神の社もあり、
その水辺にはホタルも生息しているのでした。



●カメラの電池切れでこれ以上撮影ができなかったのですが、この奥
 に龍蛇神の社と水源があります。流れにはホタルが放流され、定着
 しているそうです。


町々(村々)の神社でそれぞれ、いろいろな神様がいろいろな経緯で
祀られていることがわかってきました。
しかし、祀られている神様自体については、私にはまだわからないこと
が多いです。
調べてまとまってきたら、またレポートしたいと思います。

鎮守の森は大切な森(その7):千葉県野田市桜木神社編(3)

2013年06月27日 | 3.日本人と神社と自然
5月の連休中、千葉県野田市にある桜木神社さんを訪ねて聞いてきたお話
を肉付けしながらまとめています。
肉付けとは、私が他の機会に見聞きした、お話の内容に一致する具体的な事例
がメインです。
今回は第三弾で、最終回となります。


鎮守の森が昔ほど大切にされなくなった原因

前回までの内容のように、昔の日本人は山村なら山の神様、漁村なら大漁
や海上安全の神様、農村なら水田の神様と、その生活に密着した神様を祀
って感謝や祈願をしてきました。
鎮守の森はそうした自然の恵みを神様からの恵み、または神様のこもる森
として大切にされてきたのです。

このように神社は地域の人々によって支えられ、大切にされてきました。
今で言う町内会は昔は直会(なおらい)といって、神事の後にその一部と
して神社の社の中で行なわれてきました。
これは神の前で町の話し合いをするという意味合いがあり、最後にお供え
ものを下げて、みんなでいただくという風習がありました。

こうした風習がなくなってしまったのは戦後からです。
戦後になると神社から人々が離れていきコミュニティが崩壊。国などから
の公的な補助もなくなって、神社にも「経営」が必要になってきました。
経営が苦しくなれば神社もつぶれてしまいます。若い人が町から出て行く
一方で高齢化が進み、神社の維持管理ができなくなって、鎮守の森もろと
も神社が姿を消していくというのが典型的な例です。
このように神社もその存続のために商業化せざるを得ないという現状も
あるのです。

2011年3月11日の東北大震災の際は、津波から避難するため神社の高台
(鎮守の森)に集まって助かった地域の人々もいるようです。
この地域では神社と地域とのつながりとコミュニティとが失われていな
かったのです。
こうした出来事もあり、神社と地域とのつながりが見直され始めています。

もう一つの原因としては、神社から人々が離れていったのと平行して、
自然からも離れていったということがあります。
ほんらい自然は、もちろん脅威も与えてきたけれど人々に恵みを与える
存在で、人々はそれに感謝してきました。
ところが生活が便利になってくると、次第に自然を邪魔者扱いするように
なりました。
具体的には落ち葉が車の上に落ちて汚れる。木に止まった鳥が糞をして
汚いなどという苦情が神社にが寄せられるようになり、仕方なく木々を
切ってしまうようになってしまったのです。

自然は生活面においても、文化面においても、観光においても大切な資源
です。
神道はその自然を大切にしてきた宗教であり、神社には鎮守の森があって、
社はただそこにたたずんでいるだけで良いというのが理想の形です。
この鎮守の森を守っていくためには、いかに神社に(あるいは鎮守の森に)
人々をを引き込むか、またそれをいかに持続していくかが課題になると
思います。


●2010年6月に屋久島旅行をしたときのことです。
 宮之浦の川向神社に行ってみました。お参りしようと近づくと、中で
 床座りテーブルがコノ字型に並べられ、子供たちが会議をしている
 様子だったので驚きました。
 昔はこのように町内の集まりが行なわれていたのでしょう。


●横浜元町にある元町厳島神社には神社敷地内か隣接地か未確認ですが、
 自治運営会館があります。
 昔は社で町内会が行なわれていた名残だと考えられます。

(*上の写真二つは記事を書いた後、7月5日に追加したものです。)

桜木神社さんを訪ねてのあとがき

私は地元横浜の町なかに残された小さな自然のある公園などで、自然観察
会を開くなどの活動をしています。
最近、地元でも地方に出かけても、落ち葉をきれいに掃いてしまったり、
木々を伐採してしまったり、枝を乱暴な切り方で切ったりと、鎮守の森が
大切にされなくなってきているような事例をよく目にします。

北島三郎の「祭」という歌でも歌われているように、日本人は自然の恵み
を神様からの恵みとして感謝を捧げてきたし、鎮守の森を大事にしてきた。
なのになぜ…という疑問。
一方、天孫降臨ということで、渡来して縄文人支配を始めた弥生人が神様
として祀られていることもあるので、その中でなぜ鎮守の森も大切にして
きたのか。
このような鎮守の森は、神社にとってどういう存在なのか確かめたくなり、
今回の取材にいたりました。

桜木神社さんではジブリ映画のBGMが流れる中、古民家の雰囲気たっぷりの
ホールで神主さんのお話を聞くことができ、神社は縄文時代からの自然信仰
から始まっているということをよく確かめることができたとともに、始めて
聞くような話もあり、大変勉強になりました。

特に印象深かったのは直会(なおらい)についてで、昔は神の御前で町の
話し合いが行なわれたというお話です。
神の御前でというのは大きなポイントだと思いますし、以前、屋久島を
旅行したとき、町の神社に出かけていくと社の中で子ども会のような子供
たちの集会が開かれているのを見たことがあるので、「あぁ、あれか~!」
と思い出しました。
また、今でも神社の敷地内かそのそばに町内会館が建っている事例をよく
見かけるのはその名残でしょう。

今後も、自然を大切にしている神社を訪ね、その理念についてお話を聞い
たり、祭事を取材していこうと思います。

植樹祭に参加してきました

2013年06月24日 | 3.日本人と神社と自然
桜木神社さんが最初でしたが、に鎮守の森を大切にしている
神社を他にも見つけつつあります。

桜木神社さんでのお話をまだ全てまとまていないのですが、
一昨日6月22日に、ある神社が世話人を務める植樹祭が開催
されるということを知り、参加してきましたのでレポートします。

いろいろな組織の協力の下で開催された企画でしたが、出雲
退社相模分祀さんが世話人。
鎮守の森について尋ねるために他のある神社さんに電話をし
たところ、この企画の情報をいただきました。
場所は秦野市の神奈川病院の敷地内で、防災林育成の目的で
植樹を行ないました。



●宮脇昭先生(横浜国立大学名誉教授)による植樹の仕方の説明。
 横綱の日馬富士関も参加。


●説明を聞いた後、植樹の場所に移動。


●説明のとおりに植樹の開始です。


●取材のヘリが飛んでくると…


●手を振ったり…


●写真を撮ったりする人が…。


●最後に土壌流出防止と乾燥防止のためのワラを敷きます。
 そのワラを持ちながら宮脇先生や日馬富士関も手をヘリに向かって手を振っていました。 


●カブトムシも出てきて、とても楽しかったです。


●こうして植樹祭が終了しました。

鎮守の森は大切な森(その6):千葉県野田市桜木神社編(2)

2013年06月19日 | 3.日本人と神社と自然
神社には必ずといっていいほど鎮守の森があります。
神社と鎮守の森との関係を調べようと思い、鎮守の森保全への理解を訴えて
いらっしゃる、千葉県野田市の桜木神社さんを訪ねました。
その時の内容の第二段です。
宮司さんに聞いたお話に肉付けをしながらまとめています。


私たちは自然の恵みによって生かさせてもらっています



●私の日常的な朝食の内容(おかずのみ)


写真はこの記事を書いている私の日常的な朝食(写真はおかずのみです)。
左上から順番に次のとおりです。

①オクラのおひたし  … オクラ、かつおぶし、ゴマ、しょうゆ
②山川漬けの黒酢漬け … 原材料は干しダイコン、ゴマ、昆布、しょうゆ
             黒酢など
③サケの切り身    … サケ
④サラダ       … トマト、キュウリ、豆腐
⑤味噌汁       … 味噌、かつおぶし、長ネギ

私たちは日々このように食物を食べているから元気に生きられるのです。
食べ物がなかったら、餓死してしまいますね。
では、これらの食物は一体どこから来たのでしょう。

オクラやダイコン、トマトやキュウリは畑で育ったものでしょう。畑の作物
はもちろん人の手間もかかっていますが、日光や土壌、雨水などによって育
ったものです。サケや昆布は海を泳いでいたり生えていたりしたものを人間
が捕獲、採集してきたものです。
このように私たちの食べるものはみな、畑で育ったり海を泳いだりしていた
生き物なのです。

私たちはこのように他の生きものたちの命をいただくことによって生かさせ
てもらっているのであり、「いただきます。」とは元々そういう意味なのです。

お店に行くとこれらの魚や野菜たちはパックに入って売られていて、お金で
それを買います。
これは人間どうしのやりとりであって、肝心の生きものや自然に対する感謝
の気持ちは置き去りにされてしまっています。
このように単なる物品交換のように食べ物を扱っているばかりでは、自然が
大切なものという認識も薄れていってしまうでしょう。

農作物を育てたり、魚介類を捕獲・採集したり、運搬したりと手間がかかって
いるため、その労働に対してお金を払うというしくみはあって当然かもしれ
ません。
しかし私たちの食料になるために捕獲され殺生された魚介類たちには、これら
魚介類を育ててくれた海の自然には、また太陽や雨水や畑の土壌を豊かにして
くれるミミズなど、自然の恵みに対しては一方的に搾取するばかりで、何も
支払われません。
せめて感謝の気持ちくらいは持ちたいものです。
    

鎮守の森は大切な森(その5):千葉県野田市桜木神社編(1)

2013年06月12日 | 3.日本人と神社と自然
神社には必ずと言っていいほど鎮守の森と呼ばれる森があります。
しかしその鎮守の森が最近では大事にされていないのではないかと
感じることがよくあります。
そこで神社にとって鎮守の森とはどういう存在なのか、千葉県野田市
にある桜木神社さんにお話を聞いてきました。
桜木神社さんを選んだ理由は、鎮守の森の保全を訴えていらっしゃる
からです。

櫻木神社さんホームページ http://sakuragi.info/

他の神社の事例も紹介しながら、神主さんにお聞きしたお話をまとめ
たいと思います。


●桜木神社さんでは鎮守の森の保全を訴えていらっしゃいます。

神道は自然を大切にしてきた宗教

神社にはいくつかの系統があるのですが、一般的に地域と密着した存在で
した。
神社にはほんらい鎮守の森があり、わざわざ遠くに出かけなくても散歩を
しながら、毎日自然の大切さにふれることのできる場所なのです。

社は大地とつながっていなくてはならず、これは神社としての大前提と
なっています。
それは神道が自然を大切にしてきた宗教であり「自然の摂理・自然の恵み」
イコール「神様」または「神様からの恵み」としてきたからなのです。
そこが森を切り開いて大きな教会堂を建てるような西洋の宗教とは違う
ところです。神道は、そういった建物は重要ではなく、森あるいは山の中に
小さな石の祠があるだけで立派に成り立つのです。


●そういえば東京都大田区田園調布にある浅間神社には参道の傍らに
 小さな石の祠があります。
 浅間神社という名称や祀っている神様の木花咲耶姫命という名前からだけ
 ではわかりませんが、もともとは霊峰富士を祀っているようです。


神社の起源

こうした自然信仰の起源は縄文時代にまでさかのぼることができ、それ
が神社の原型ということができます。
弥生時代になると天皇が祀られるようになりますが、有史的に神社という
形となったのは奈良時代からです。
また、弥生時代から始まった水田文化の普及が、縄文時代からあった信仰
と結びつき融合して、水田・稲作信仰が始まりました。
さらにその後、中国を通じて漢字などの文化が入ってくるようになると、
それとともに色々な神様が日本に入ってきたということがあります。


●鹿児島県霧島市の霧島神宮には、祭事に用いられる稲を育てる水田が
 ありました。こうしたことが水田・稲作信仰なのでしょう。


恵みとお返し(贈与と返礼)

どこの地域でも水田・稲作信仰かというとそういうことでなく、
生活によってどのような神様を祀っているかは変わってきます。
例えば海岸の地域だったら海の神様、山に囲まれた地域だったら山の
神様などと、地域の暮らし方によってその土地の信仰が確立されていき
ました。
現在神社ではいろいろな神様が祭られていますが、神道の根底には
「自然の恵み=神様からの恵み」という信仰があり、神社で行なわ
れるお祭りというのは、この恵み(贈与)に対するお返し(返礼)なのです。

鎮守の森は大切な森(その4):神社と鎮守の森

2013年06月05日 | 3.日本人と神社と自然
前回、弥生人による縄文人の侵攻支配のときに、弥生人が縄文人に
自分たちを神様として祀らせたということ。そしてその弥生人の
子孫が現在の天皇家だという話をしました。
そのため神社の多くは、歴代天皇を神様として祀っています。

では神社に必ずといっていいほどある鎮守の森とは何なのでしょう。
神社の敷地内でも特に聖域として、森の一部を一般の人の立ち入り
禁止区域としているケースもありますし、ご神木と呼ばれる樹木の
あるケースもあります。神社ではそれほど森や木々を大切にしている
のです。

ここで二つの疑問が生じます。
一つは、神社は天皇を神として祀っているのに、なぜ鎮守の森を
大切にしてきたのか。神としての天皇と鎮守の森とは何か関係が
あるのかということ。

もう一つは、最近の神社ではこの森の木を伐採したり、落ち葉をきれい
に掃いて、森の循環を断ち切ってしまったりするケースが見られます。
神社は森を大切にしてきたのに、なぜ大切にしなくなってきてしまった
のかということです。

その疑問を解くために、神社と鎮守の森について調べ始めたところ、
千葉県にある桜木神社という神社を見つけました。
桜木神社さんでは、「鎮守の森の保全にご理解とご協力を」と呼び
かけているのです。
ゴールデンウィーク中にこの桜木神社さんを訪ねましたので、次回の
「日本人と神社と自然」ではその時にお聞きしたお話をまとめます。

つづく・・・。

鎮守も森は大切な森(その3):「弥生人が神様だって?!」の補足

2013年06月01日 | 3.日本人と神社と自然
縄文時代から弥生時代への移り変わりは、文明が発達したため
ではなく、弥生人による縄文人の侵攻支配によるものでした。
縄文人支配について私が初めて聞いた話では、きわめて暴力的
なものだったということでしたが、そうではなかったという話もあり、
よくわかりません。
そこのところをもう少し深く調べてみるのが、今後の一つの課題
です。


もう一つの課題としては、天皇の存在と役割についてです。
これにも歴史の中で色々なことがあったようなので、整理が必要です。


こうしたことをしていくことによって、日本という国がどのよう
な国で、どうして今の時代がこんななのかということが見えてく
るとと思います。


それは単なる一般教養ではなく、私たち一人ひとりがどのよう
な心持で生きていくべきか、その判断材料になるものです。
ただ時代に流されるのではなく、その意味をしっかり把握して
新聞やニュースを見たり、政治の動きを見たり、またはボラン
ティア活動したりと、生活の中のいろいろなことをやっていき
たいものです。

鎮守の森は大切な森(その2):弥生人が神様だって!?

2013年05月30日 | 3.日本人と神社と自然
2012年5月の鹿児島への旅では霧島神社にも立ち寄りました。

そこで目にして少し驚いたのは「天孫降臨」そして「日本発祥の地」
という言葉でした。
霧島にある高千穂岳は地上(日本)を治めるために天から神様が降り
てきた場所で、その神とはアマテラスの孫のニニギノミコトという
神様です。



●霧島神宮へと向かう道にあるお神楽の看板。
 「日本発祥の地」とあります。


天から神の孫が光臨し、そこで初めて日本という国が統治され始めた
ということで「天孫降臨」「日本発祥の地」といわれているのです。
霧島神社では、このニニギノミコトが祀られています。
また、ニニギノミコトの孫は神武天皇といい、初代の天皇なのだそう
です。



●霧島神宮駅前にあるサルタヒコノミコト像。
 サルタヒコノミコトはニニギノミコトが天から降りてくるときに、
 途中まで迎えに行き、地上への案内をした神様らしい。


霧島でこの話を聞いて、私は縄文時代と弥生時代の話を思い出しま
した。
縄文文化は自然環境、特に森と共存する文化で、その遺跡からは戦争
(殺し合い)をしたような痕跡が見られず、約1万年も続いたそう
です。
そこに中国大陸から弥生人という別の人種が入ってきて縄文人たち
を支配下に治めていったというのです。
縄文時代から弥生時代への変化は、文明が発達したことによるのでは
なく、弥生人侵攻によるものだったのです!

そして弥生人は縄文人たちに、自分たちを神様として祀らせました。
神武天皇が初代天皇と言われていることからもわかるように、天皇家
はその弥生人の子孫で、戦前までの日本では「天皇は神様だ」と学校
教育で教えて
いたそうです。

現在の日本人の私たちは縄文人と弥生人との混血で、弥生人の血が
天皇家に濃く残っています。
また北海道と沖縄には弥生人の力があまり及ばなかったため、アイヌ
民族、琉球民族として、その血統と文化が色濃く残っているのです。

鎮守の森は大切な森(その1):鎮守の森の謎

2013年05月28日 | 3.日本人と神社と自然
私は自然が好きなので、社寺仏閣にはほとんど興味がありません。
しかし、神社には必ずといっていいほど鎮守の森と呼ばれる森があります。
神社にとって森(自然)というのは大切なものに違いないと思い、私は神社について調
べはじめました。

日本には、世界に誇るべき本当に素晴らしい文化があります。それは里山文化です。
里山文化はその土地の自然環境と永続的に共存していくことが可能な、素晴らしい文化
なのです。

調べ始めた結果、神社には今の時代でも里山文化(地域の自然環境と共存する文化とい
う意味での里山文化)と密接に結びついた儀式が残されているということがわかってき
ましたが、その一方で歴史の過程で後から付け加えられた内容もいろいろあるようです。
このため、神社が本来どういう場所なのかを知るには複雑になり、わかりにくくなって
しまっている感じもあります。

この「神社について」のカテゴリーでは、こうした複雑になっている内容もひも解きな
がら、神社がなぜ、そしてどのようにして鎮守の森を大切にしてきたかを追求してわか
ってきたことをまとめていきたいと思います。