列車は三次を発車し塩町で福塩線と分岐、以降備後落合までが未乗区間。なんとなく凄い田舎でJR西日本名物の制限25キロ連発!じゃないかって勝手に予想していたんですが、全体的に車窓は開けていて、考えたら沿線に庄原市がありますからね。せめて〈みよしライナー〉を備後庄原まで延長運転したらバスに多少なりとも対抗できるのではと思うんだが、広島バスセンター(市街地)へ直通し本数も多いので勝ち目はないのだろう。
定刻14時31分より少し遅れて備後落合着。
これで芸備線は全線完乗車。周囲で残るのは姫新線の新見~津山くらいか。今日このまま乗ってしまおうかな?折り返し三次行きにに新見発から大量に乗り換え。木次線に乗り換えも多く、34分発新見行きはさほどの人数では無い。ちょっと拍子抜け。
レールを見ると停止位置から先はどの線路も綺麗に錆びてます。これは当駅を越えて運転される列車が無い証拠です。1番ホームは木次線で新見方面に延びているけど設定なし、2番ホームは三次から来て折り返し、3番ホームは新見から来て折り返し。かつては山中の要衝として広島~松江に夜行列車が走り、ホームには「おでんうどん」の売店があり、駅前には旅館もあったようだが今では券売機すらない無人駅。周囲に人家も殆どないですからね。
とまあ14時34分発新見行きの乗り換えてどこかで降りようかと画策。このまま乗り通せば新見に15時58分、そのまま岡山に出てさっさと帰ることもできるし(明日からは仕事なので、あまり遅くに帰りたくない。齢をとった証拠?)、16時52分発津山行きに乗り継げば姫新線も全線完乗。ただし津山18時32分で、その先は佐用行きにのって智頭急行で上郡に出れば23時半過ぎに石山に帰還できる。ただね、なんとなく億劫になったし、東城で降りれば1時間半ほどで新見行きがある。って今乗っている列車が東城行きで引き返してくるんだが。
ともあれ東城下車決定!降りたのは私だけ、やっぱり鉄ちゃんは乗ることばかりに主眼を置いているからかな?
駅は行き違いできる構造になっていますが
反対の線路は使われておらず跨線橋も閉鎖中。老朽化云々と見えるけど1984年製でそれはなかろう。理由など必要はない。
駅前からは福山行きのバスが。私が乗るそぶりが無いと知ると発車していった。駅舎も手直しは入っているけど変わってない。この駅に降りるのは2度目で、前回は1998年3月末に当時加入していた種村直樹氏の親睦団体による「朝焼け乗り継ぎ」と呼ばれるものに参加した時で、備後落合から東城に近づくと種村氏は「東城で降りる!」と離脱宣言し、その離脱に同行したのは私を含めて3人。一人は私と同じ年の幹事団のF、大卒後銀行に就職したと聞いた。もう一人は三重の人で氏の著書に温泉好き・風呂好きの人として度々出ていた人、そして私。同行しようと思ったのは少人数なので動きやすいのと、東城は今降りないと次は無いかも?って思ったから。事実17年もかかったなあ(笑)。
山の上の「竹屋饅頭」という看板も懐かしい。かつては列車の客に向けた野立て看板が多かったですよね。って思ったが今でも東海道新幹線沿線に結構あるよな。
古い町並みは変わらない。あの時はどこをどう歩いたか定かではないが、酒屋だったか蔵だったかで日本酒のワンカップを人数分買って、あとから乗った車内で皆で酒宴をした記憶がある。銘柄は記憶通りなら種村氏が「なまくま酒造、いかにも恐ろしい名前だな」って言ったような。ただその前に
東城って谷繁兼任監督の出身地なんですね。その後「なまくま酒造」で検索して出て来たのは
「超群」という銘柄のお酒を造る生熊(いくま)酒造。
道路向かいに製造部門があって、従業員が一升瓶に漏斗を差して手で詰めると言うなんともアナログなことを行っていた。かえって期待できる。でも記憶で来た処じゃないな。前回買ったのはここではなくどこかの酒屋だったのかもしれない。
ともあれ来た記念に買って帰ろうと入ると従業員は2人、今までにも色んな造り酒屋に行っているし、どこへ行っても車でないことが分かるとこれでもかって試飲させられて、説明聞かされて、最後はお買い上げーってパターンになるんですが、こちらは完全に放置プレイ。若いお姉さんが「試飲しますか?」とだけ言って持って来たのは「風」という地元産の酒米で作った純米大吟醸。テーブルにカップと共に置いてご自由にって感じで説明は一切なし。あんまり売る気がないんじゃないか?と思うほどですね。勿論薦めても来ないし、単なる試飲目当ての冷やかし客と思われたのか、お姉さんに説明能力が無いのか、あまり直接買いに来る客が少ないのか。飲ませてもらった酒ではないですが純米酒が旨そうだったので購入。それと昔同様ワンカップも。
駅に戻り17時04分発新見行きに乗車。
昔みたいに車内でワンカップ飲みました。他の乗客は1人しかいないのでいいでしょう(満員でも飲むだろうけど)。その味ですけど辛口とのことだが、好きな私でもちょっときついかな?って感じ。あの時の私は20歳になったばかりで若くビールしか飲まなかったので「なんでこんなものが旨いんだろうか?」と思った。日本酒を飲むようになったのは翌1999年5月、やはり種村氏に北海道の釧網線緑駅前の食堂で男山のコップ酒を奢ってもらってからである。
定刻14時31分より少し遅れて備後落合着。
これで芸備線は全線完乗車。周囲で残るのは姫新線の新見~津山くらいか。今日このまま乗ってしまおうかな?折り返し三次行きにに新見発から大量に乗り換え。木次線に乗り換えも多く、34分発新見行きはさほどの人数では無い。ちょっと拍子抜け。
レールを見ると停止位置から先はどの線路も綺麗に錆びてます。これは当駅を越えて運転される列車が無い証拠です。1番ホームは木次線で新見方面に延びているけど設定なし、2番ホームは三次から来て折り返し、3番ホームは新見から来て折り返し。かつては山中の要衝として広島~松江に夜行列車が走り、ホームには「おでんうどん」の売店があり、駅前には旅館もあったようだが今では券売機すらない無人駅。周囲に人家も殆どないですからね。
とまあ14時34分発新見行きの乗り換えてどこかで降りようかと画策。このまま乗り通せば新見に15時58分、そのまま岡山に出てさっさと帰ることもできるし(明日からは仕事なので、あまり遅くに帰りたくない。齢をとった証拠?)、16時52分発津山行きに乗り継げば姫新線も全線完乗。ただし津山18時32分で、その先は佐用行きにのって智頭急行で上郡に出れば23時半過ぎに石山に帰還できる。ただね、なんとなく億劫になったし、東城で降りれば1時間半ほどで新見行きがある。って今乗っている列車が東城行きで引き返してくるんだが。
ともあれ東城下車決定!降りたのは私だけ、やっぱり鉄ちゃんは乗ることばかりに主眼を置いているからかな?
駅は行き違いできる構造になっていますが
反対の線路は使われておらず跨線橋も閉鎖中。老朽化云々と見えるけど1984年製でそれはなかろう。理由など必要はない。
駅前からは福山行きのバスが。私が乗るそぶりが無いと知ると発車していった。駅舎も手直しは入っているけど変わってない。この駅に降りるのは2度目で、前回は1998年3月末に当時加入していた種村直樹氏の親睦団体による「朝焼け乗り継ぎ」と呼ばれるものに参加した時で、備後落合から東城に近づくと種村氏は「東城で降りる!」と離脱宣言し、その離脱に同行したのは私を含めて3人。一人は私と同じ年の幹事団のF、大卒後銀行に就職したと聞いた。もう一人は三重の人で氏の著書に温泉好き・風呂好きの人として度々出ていた人、そして私。同行しようと思ったのは少人数なので動きやすいのと、東城は今降りないと次は無いかも?って思ったから。事実17年もかかったなあ(笑)。
山の上の「竹屋饅頭」という看板も懐かしい。かつては列車の客に向けた野立て看板が多かったですよね。って思ったが今でも東海道新幹線沿線に結構あるよな。
古い町並みは変わらない。あの時はどこをどう歩いたか定かではないが、酒屋だったか蔵だったかで日本酒のワンカップを人数分買って、あとから乗った車内で皆で酒宴をした記憶がある。銘柄は記憶通りなら種村氏が「なまくま酒造、いかにも恐ろしい名前だな」って言ったような。ただその前に
東城って谷繁兼任監督の出身地なんですね。その後「なまくま酒造」で検索して出て来たのは
「超群」という銘柄のお酒を造る生熊(いくま)酒造。
道路向かいに製造部門があって、従業員が一升瓶に漏斗を差して手で詰めると言うなんともアナログなことを行っていた。かえって期待できる。でも記憶で来た処じゃないな。前回買ったのはここではなくどこかの酒屋だったのかもしれない。
ともあれ来た記念に買って帰ろうと入ると従業員は2人、今までにも色んな造り酒屋に行っているし、どこへ行っても車でないことが分かるとこれでもかって試飲させられて、説明聞かされて、最後はお買い上げーってパターンになるんですが、こちらは完全に放置プレイ。若いお姉さんが「試飲しますか?」とだけ言って持って来たのは「風」という地元産の酒米で作った純米大吟醸。テーブルにカップと共に置いてご自由にって感じで説明は一切なし。あんまり売る気がないんじゃないか?と思うほどですね。勿論薦めても来ないし、単なる試飲目当ての冷やかし客と思われたのか、お姉さんに説明能力が無いのか、あまり直接買いに来る客が少ないのか。飲ませてもらった酒ではないですが純米酒が旨そうだったので購入。それと昔同様ワンカップも。
駅に戻り17時04分発新見行きに乗車。
昔みたいに車内でワンカップ飲みました。他の乗客は1人しかいないのでいいでしょう(満員でも飲むだろうけど)。その味ですけど辛口とのことだが、好きな私でもちょっときついかな?って感じ。あの時の私は20歳になったばかりで若くビールしか飲まなかったので「なんでこんなものが旨いんだろうか?」と思った。日本酒を飲むようになったのは翌1999年5月、やはり種村氏に北海道の釧網線緑駅前の食堂で男山のコップ酒を奢ってもらってからである。