世をあげて黒田官兵衛!
わが故郷にも、あるわい!というので、ゆかり探して
悪戦苦闘、なんとかかんとか官兵衛ばなしを造ると
ころまでこぎつけました(ちょっと遅いけどね)
しかし、TVもこれからがおもしろくなるところ、
今からでも間に合うぞ、がんばろう!おー!・・・さて
播州赤穂の塩田
技術欲しさに起因
する討ち入り事件。
播州の技術は瀬戸内
に伝播し、北九州の
津屋崎にやってきた。
黒田官兵衛も播磨から中津を経て、福岡にやってきた。そもそも福岡という
地名は備前福岡を懐かしんで名づけられているのだという。
ともかく塩田技術はもとは播磨から伝わったものだが、ここ勝浦の塩田を
干拓して本格的にしたのが、吉田六郎太夫という家老だ。彼は桂潟(干潟)
の真ん中に約600メーターの石堤を作って干拓を行い、田と塩田を作ったのだ。
この70年後には津屋崎干潟にも別の千間土手が作られて、合わせて筑前の
塩の90%を生産するようになったというのだから今で言えば一村一品運動?
町おこし大成功!の図だろう。
吉田六郎太夫についてもうひとつ言えば、秀吉の高松城攻めの時、攻めあぐん
で官兵衛に攻略法を尋ねたら、水攻めを提案したと言われているが、この時の
発案と実行者が六郎太夫のお爺さんの吉田六郎太夫だったというのだ。
官兵衛と六郎太夫は同じ乳首で育った「竹馬の友」ならぬ「乳首の友」だったと
いうおちち、じゃないおちがついている。じゃんじゃん♪ (^^;