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クラーク博士・「Boys, be ambitious!」

2016-03-29 18:08:13 | お話
クラーク博士・「Boys, be ambitious!」


ところで、クラーク博士の最も有名な言葉と言えば、

Boys, be ambitious!
(ボーイズ ビー アンビシャス)

これに勝るものはないでしょう。

彼は、この名言を、いつ、どのような状況で残したのでしょうか?

明治10年(1877年)4月16日、帰国するクラーク博士を見送るために、

教え子たちは、月寒村(現在の北海道北広島市と札幌市の一部)の
島松駅逓所(馬車の停車場のようなところ)に向かいました。

この別れの場で、前述の名言は生まれました。

見送りの人々とひとりひとり握手を交わした後、ひらりと馬の背にまたがったクラーク博士が、

最後に学生たちに掛けた言葉。

それが、

「Boys, be ambitious!」

だったのです。

以来、一世紀以上が経っても、この言葉が色あせることはありません。

「少年よ、大志を抱け!」

この言葉に、いったいどれだけの日本人が勇気づけられたことでしょう。

クラーク博士が教え子たちに送った名言は、

世紀を超え、日本人の心に鮮やかな記憶として残りました。

それは、彼が単に印象的な言葉を発したからでなく、

この名言が、彼の信念と行動に裏打ちされた、魂の叫びだったからではないでしょうか。


さて、故郷に帰ってからのクラーク博士ですが、彼はまず大学創設を目指すも、資金面で挫折。

次いで鉱山経営のための会社を設立しましたが、その経営にも失敗し、

さらに倒産をめぐる裁判にも悩まされるなど、失意の連続でした。

そのような境遇が健康状態にも悪影響を及ぼしたのでしょうか。

クラーク博士は健康を害し、1886年(明治19年)、59歳のときに心臓病で亡くなりました。

その死に臨んで

「天の神に報告できることが1つだけある。
それは札幌における8ヶ月である」

と語ったといわれています。

人生と言うのは、もしかしたら、悲しいこと、つらいことの連続なのかもしれません。

それでも、クラーク博士のように、

たった1つでいいから、誇りに思えることがあり、

一瞬でもいいから、自分らしく輝いている時間を持てた人は、

幸せな人生と言えるのではないでしょうか。

何かをなし遂げることでもいいし、誰かを深く愛することでもいい、

「私の人生はこのためにあった」

そういうものを持てる事は、

人生の最大の喜びの1つではないかと思います。

クラーク博士が札幌で過ごした8カ月間。

この間に彼が残した教えは、学生たちの心を揺さぶり、

新しい明治という時代を迎えた若い国家を支える人々に、大きな影響を与えました。

そして彼の言葉は、今なお、現代に生きる私たちに勇気と希望を与え続けてくれています。

クラーク博士にとって忘れがたい、

天の神にも報告したいと思えるような、

人生で最も輝いたこの8ヶ月は、

同時に、近代日本にとっても、
短くても濃密な、得がたい8ヶ月だったのです。

ウィリアム・S・クラーク博士。

彼は59年間という彼に与えられた時間の多くを

母国アメリカで過ごしましたが、

アメリカでは、それほど知名度や評判は高くないようです。

その彼が、1年にも満たない僅かな時間を過ごした日本で、

これほど語り継がれるなんて、人生とは不思議なものですね。

「人間は、すべての人の記憶から消えた時に、本当の死を迎える」

とする説があります。

この説に従えば、クラーク博士は、

母国アメリカから遠く太平洋を隔てた、

この日本の地で、

これからもずっと生き続けることでしょう。


(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)


クラーク博士・「Be gentleman!」

2016-03-29 14:43:07 | お話
クラーク博士・「Be gentleman!」


明治9年(1876年)に札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として
アメリカからやってきた、ウィリアム・S・クラーク博士。

彼は、来日早々、あることに頭を悩ませていました。

本来、高い資質を持ち、勉学に燃えて入学した学生たちが、夜な夜な寮で仲間と酒を飲むことが習慣になっていたからです。

当時は未成年者の飲酒を禁止する法律はなかった
(未成年者保健所法が制定されたのは、大正11年(1922年)のことです)
ので、学生の飲酒が違法だったわけではありません。

ただ、限度を超えて飲んでしまう学生が大勢いたので、

クラーク博士は彼らの健康や勉学に弊害が出ることを憂えたのです。

「学生たちに、なんとかお酒をやめさせることはできないだろうか?」

クラーク博士は考えあぐねていましたが、ついに決意しました。

彼は学生たちの前に進み出ると、おもむろにワインのビンを次々に割ったのです。

実は、クラーク博士は、当時、札幌の飲料水の事情が悪いということを知り、米国から大量のワインを持参していました。

けれども、このままワインを飲み続けたら、学生に禁酒を勧めても、説得力に欠けると判断したのでしょう。

「学生に禁酒を勧めるなら、まずは自分から」

そう考えたクラーク博士は、米国から同伴してきた2名の助教授にも同意を求め、同じようにワインを廃棄させました。

このように、自分たち教師が酒を断ったことを明らかにした上で、

あらかじめ用意していた禁酒誓約書に自分が署名し、

下段には助教授の署名を求め、

これを学生の前に提示して、禁酒を呼びかけたのです。

「アメリカの学生の中には、飲酒のために身を誤る者のが、かなり多い。

日本の学生諸君の中にも、そういうものがないとはいえない。

諸君は、今日では、まだ飲酒の本当の楽しみを解しているとはいえないのだから、

この悪風に染まらなければ、禁酒は決して困難なことではない。

後日、禁を破るようなことがあるかもしれぬと、心配な方には強いて望まないが、

一生禁酒する決心の人は、この誓約書に署名してくれ。

よく熟慮した上で署名されたい」

クラーク博士の決意に、心を揺さぶられる若者たち。

一同は即座に署名しました。

さらに驚くべきことに、そのほとんどの学生が、

この誓いの通り、卒業後も一生禁酒を貫いたといいます。

もともとアメリカ合衆国マサチューセッツ農科大学の学長だった、クラーク博士。

当時、北海道開拓使の長官を務めていた黒田清隆が、

北海道の農業技術の向上を託し、ぜひ力を貸してほしいと、彼に来日を要請したのです。

クラーク博士の教頭就任披露演説は、学生たちの心を鷲掴みにしました。

「本校の学生諸君は紳士である。

紳士とは自分のこたは自分で始末するものである。

自分で自分を制する者に規則は不要である」

そう言い放ち、一切の規則の撤廃を宣言したからです。

代わりに、彼が定めた校則は、たった一言でした。

その一言とは…

「Be gentleman! 」

「紳士たれ」だったのです。

人間って、不思議ですよね。

いわれたことが
「正しいか、間違っているか」
よりも、

「誰から言われたのか」ということが、
後々まで大きく影響するのですから…。

どんなに正しく美しい言葉を並べてみても、
言うこととやることが一致していなければ、誰も信頼してくれません。

信頼関係がなければ、その内容がどんなに正しくても、
「あなたからは言われたくない」と、相手は心を閉ざしてしまうでしょう。

学生たちが、なぜ禁酒に同意して、その後もこの誓いを守り抜いたのかといえば、

クラーク博士と彼らの信頼関係が、すでに就任披露演説の時に築かれていたからです。

人間関係は、鏡の法則が当てはまるといわれます。

自分たちを信じ、すべての規則を撤廃したクラーク博士を、

学生も心から尊敬し、信頼したのです。

その信頼の証が、禁酒誓約だったのでしょう。

クラーク博士が札幌に滞在したのは、わずか8ヶ月。

けれども、人間の影響力は、時間の長さに比例するわけではないのです。

たとえ時間は短くとも、お互いを信頼し合い、

密度の濃い時間を過ごせれば、人間の影響力は絶大です。

Be gentleman!…

そこには、「自分のことは自分で処することのできる人間になってほしい」という学生たちへの想いが溢れています。

この自由・独立・人間尊重を基礎としたクラーク博士の人生哲学は、

学生たちの意識の底に眠る武士道を呼び覚まし、

その2つが混じり合うことで、凛とした独特な校風ができ上がっていったのでしょう。

明治時代は、政治家や官僚、教師が絡んだ汚職事件が多発しましたが、

クラーク博士の気高い生き方に触れた若者たちは、

卒業後も Be gentleman!の教えを守り、
自らを厳しく律したので、そうした事件とは無縁であり続けました。

クラーク博士に直接教えを受けたのは、1期生16名にすぎませんが、

彼の帰国後も、その校風を引き継いだ札幌農学校からは、

「武士道」を著した新渡戸稲造、

「代表的日本人」の著者・内村鑑三、

土木工学の広井勇、
植物学の宮部金吾ら、

多彩な人材が輩出され、「教育の奇跡」と呼ばれました。


(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)