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豪姫と秀家と利家とまつ②

2016-03-30 18:40:58 | お話
🌸豪姫と秀家と利家とまつ🌸②


まつのこの強さは、一体どこから来るのでしょうか。

それはおそらく、逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えできた自信と誇りが、底流にあるのだと思います。

利家の若かりし頃、主人・織田信長の怒りを買い、織田家から追放されたことがありました。

2年後に許され、織田家に帰参しましたが、

その間、利家は失業状態にありましたから、
利家とまつの夫婦は極貧に喘ぎました。

この時、2人は、お金のありがたみを知り、

それ以来、利家は、大事な決済は家臣任せにせず、すべて自分で行うようになりました。

それは、大大名になってからも変わらなかったそうです。

武士がお金に執着しないことが美徳とされていた時代に、

財政を当主自らが掌握する利家の姿勢は、
同時代の人たちの目には奇異に映ったでしょうが、

この利家の経済感覚を代々の藩主が受け継いでいったのです。

このようにして、どん底の暮らしの中で夫婦が学んだことが、

加賀百万国の礎を築く上で大いに生かされたわけですが、

織田家から追放されていた期間に、2人は、もう一つ、つらい経験をしています。

かつて主君・信長のお気に入りだった頃は、利家は織田家中の人気者で、

先輩や同僚がいつも「利家、利家」と寄ってきてくれたのに、

信長の怒りを買った途端、周囲の人々が一斉に離れていき、

付き合いを絶たれてしまったのです。

人生には、いい時もあれば、悪い時もあります。

良いときには笑顔ですり寄ってくるのに、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまうなんて、

人の心というのは、なんと頼りなくはかないものなのでしょう。

利家とまつは、人間不信に陥りかけました。

ところがそういう状況下でも、ほんの一握りではありましたが、

以前と変わらぬつきあいを続けてくれる人たちがいたそうです。

「人の心ほど、 移ろいやすいものはない。

しかし、同時に、いつの日も変わらず最も信頼できるのも、人の心なのだ」

との思いを、2人は物に至ったのではないでしょうか。

それ以来、利家とまつは、自分たちにとって本当に大切な人は誰なのかを見極め、

その人の存在を、そしてその人の思いを、命を懸けて大切にしてきました。

例えば、秀吉がキリスト教を禁止した時のこと。

多くのキリシタン大名は棄教しましたが、

利家の親友・高山右近は、ついに信仰を捨てず、領地を没収されました。

その右近を、加賀に呼んで面倒をみたのは、利家であり、

利家が亡くなってからも、

徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて右近がフィリピンのマニラに旅立つまで、

およそ25年にわたって前田家は右近を守り続けたのです。

「自分にとって本当に大切な人を見極め、

その人の存在や思いを大切にする」

言葉にするのは簡単ですが、

権力者を敵にまわしてまで守り続けることは、容易ではありません。

優しさに加えて、強さが必要です。

優しさは、強さがあって初めてカタチになります。

そして、本当の強さは、優しさの中で育まれ、
誇りに支えられているのです。


以下は豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺のご住職から伺った話です。

八丈島の秀家は、加賀藩から送られてくるお米を独り占めせず、

島民たちに惜しげもなく分け与えていました。

「凶作に見舞われ、食べ物が底をついた時、秀家公がお米を分けてくれた。

そのおかげで、私たちは生き延びることができたのだ」

そのような話を親から子へ、子から孫へと語り継いできた家が八丈島には多く、

そうした家系伝説を持つ人々が、時折大蓮寺を訪れるそうです。

そして、ご先祖に代わって、豪姫にお礼を述べるのだとか…。

「豪姫さん、あの時は本当にありがとうございました」

400年以上も前に生きていた人の溢れる愛が、

今も人々の心を暖かいものにしているんですね。

この話を知った時、「大悲船」の本当の意味がわかったような気がしました。

加賀藩から八丈島に差し向か差し向けられた船は、

「大きな悲しみの船」
ではなく、

「大きな慈悲の船」

だったのではないでしょうか。

豪姫が仕送りとともに届けていたのは、悲しみの中から生まれたかぎりない優しさと深い愛だったのだと思います。

まつから豪姫へ、そしてその後の前田家の人々へと受け継がれた、百万国の愛と誇り。

逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えてきた、

彼女たちの自信と誇りが、前田家のしなやかでしたか家風をつりあげ、

歴史の中に春風を吹かせてくれているのです。


(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)


誰を大事にするか、よく考えたいですね。(^_^)

豪姫と秀家と利家とまつ

2016-03-30 18:39:38 | お話
🌸豪姫と秀家と利家とまつ🌸


富山市の郊外にある"浮田家住宅"。

この家に代々住んだ浮田氏は、古くからこの地に土着した豪農として知られていますが、

「浮田」という姓は、もともと富山にはなかったそうです。

江戸時代の初めに、ある男の子が加賀藩主から預かることになり、

それがきっかけで「浮田」姓を名乗るようになった…というのが、浮田家の家系伝説です。

その後、浮田家は、藩境の立山、黒部の警備

(この辺には鉱山があり、加賀藩〈現在の石川県と富山県の一部〉では、鉱物資源を他藩に奪われないように警備していました)

や、山林の保護などを行う奥山廻役(おくやままわりやく)を歴任しました。

そして、農民でありながら500石の格式を許され、
やがて代官職を兼ねるようになると、三千石の格式となりました。

その格式にふさわしい立派で重厚な門が印象的な、その大邸宅は、

国指定重要文化財として保護されていて、
邸の内外を見学することができます。

私が訪れた時には、新緑に木造の大邸宅が映えて、
そのコントラストが何ともいえず美しく、ため息が出るほどでした。

それにしても、
いくら豪農とはいえ、
これほどの格式の高さと大邸宅が浮田家に与えられたのは、

一体どうしてなのでしょうか?

その疑問を解くための鍵を握るのは、
加賀藩主から預かったという男の子の存在です。

その子の出生の秘密に迫りましょう。


時は、慶長5年(1600年)。

関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗れた宇喜多秀家(ひでいえ)は、

戦場を脱出し、
伊吹山方面(関ヶ原から北西の方向)へと逃れました。

戦いに勝利した徳川家康は、

西軍諸将の首を持ってきた者には、莫大な恩賞を与える

と、近郊の村々にお触れを出したので、

腕に自信のある者たちが、伊吹山の山中にも多数入っていきました。

関ヶ原の戦いから2日が経ちました。

落武者狩りのリーダーの1人、矢野五郎右衛門(やの ごろうえもん)は、

西軍に加担した名のある武将を探し求めていましたが、

ついに、恩賞の対象となるような武将に出くわします。

衣服は汚れてはいるものの、
そのしつらえは見事。

表情は疲れきっていましたが、
その顔からは、得もいわれぬ気品が感じられ、

一目見ただけで、相当に身分の高い武将であることがわかりました。

ところが、
五郎右衛門に気づいたその若武者は、

あろうことか、

「私は宇喜多秀家である」

と名乗ったではありませんか。

宇喜多秀家といえば、西軍の大将も同然。

もし、彼が本当に秀家で、
その首を家康に差し出したとしたら、

西軍の首謀者である石田三成と並んで、
最も高価な恩賞を与えられるでしょう。

そのような人が、自ら名乗り出るということがあるのだろうか…?

五郎右衛門は、目の前の現実が理解できず、
しばし呆然としていました。

秀家を名乗る若武者は、言葉を続けました。

「腹も減ったし、道に迷って困っていたところだ。

湯漬けなどを振る舞ってもらえないだろうか。

その後は、徳川方へ引き渡してもらってもかまわない。

決して、そなたを恨みはしない」

秀家の潔さと気品に、雷に打たれたような衝撃を覚えた五郎右衛門。

その瞬間、彼自身思いもよらなかった言葉が、口を突いて出ました。

「すべては私にお任せください」

五郎右衛門は、自分がなぜこんなことを言ってしまったのか理解できませんでした。

自分は本当に、莫大な恩賞を棒に振ってまで、この若者を守り抜くと言うのか…?

一瞬ためらったものの、五郎右衛門の心はすぐに決まりました。

秀家と出会ってしまった自分の運命を、

そしてこの若者に一瞬で魅了されてしまった自分の心を受け入れ、

秀家を守る覚悟を決めたのです。

その後、五郎右衛門は、およそ40日間にもわたって、

秀家を自宅裏の穴倉に匿(かくま)い続けました。

そしてついに、大阪・備前島の宇喜多屋敷にいる妻の豪姫のもとへ、秀家を送り届けることに成功したのです。

前田利家&まつ夫婦の四女・豪姫は、生まれてすぐに、

同じ織田家中の

豊臣秀吉&ねね夫婦の養女となり、

養父母の愛情を一身に受け、健やかに育ち育ちました。

豪姫の成長とともに立身出世をとげ、
天下統一を果たした秀吉は、

やはり幼い頃から手元に置いて我が子同然に可愛がってきた秀家と、
この豪姫を結婚させました。

まだ実子の秀頼が生まれる前のことです。

おそらく秀吉は、二人を将来の豊臣政権の柱石に据えるつもりでいたのでしょう。

加えて、秀家は幼くして父親を亡くしていますから、

「秀家に加賀前田家という後ろ盾をつけてやりたい」

という親心もあったかもしれません。

20代の若さで豊臣政権の5大老に名を連ねる夫と、華麗な血縁を持つ妻。

政略結婚ではありましたが、若い2人は互いに惹かれ、純粋に愛し合い、

秀吉がなくなってからも、仲睦まじく暮らしていました。

もし関ヶ原の戦いさえ起こらなければ、幸せな結婚生活が末永く続いたことでしょう。

けれども、歴史は敗者にあまりにも残酷でした。

矢野五郎右衛門のはからいで再会が叶った秀家と豪姫でしたが、

そのままずっと一緒にいれば、家康に知られるのも時間の問題。

やがて秀家は捕らえられ、戦犯として処刑されるかもしれません。

愛する夫の命を守るために、妻は別れを決意します。

甘く切ないひとときを過ごす2人の胸には、身を切られるような悲しみと万感の思いが去来したことでしょう。

数日をともに過ごした後、秀家は、今津家を頼って薩摩に落ち延びていきましたが、

これが、2人にとって今生の別れとなりました。

そして数年後、鹿児島に匿われていることが、ついに徳川家康の知るところとなり、

秀家は、2人の息子とともに八丈島に島流しにされるのです。

豪姫は、家族とともに八丈島に行きたいと懇願しますが、

徳川幕府はそれを許さず、

彼女は娘を連れて実家の前田家に身を寄せます。

20代後半で愛する夫と息子との別れを余儀なくされた豪姫は、

61歳で亡くなるまで、遠く離れた金沢の地で、ひたすら八丈島の家族の無事を祈り続けました。

そんな彼女の気持ちを汲んだ前田家は、

幕府の許可のもと、白米・金子・衣装・雑貨・医薬品などを船に積んで八丈島の秀家に送りました。

この加賀藩から八丈島への仕送りは、

豪姫が亡くなり、さらに秀家が八丈島で84歳でその生涯を閉じてからも、続けられたのです。

豪姫の思いは、代々の加賀藩主によってリレーされ、物資援助は、

明治の世になって宇喜多家の戦争犯罪人の罪が解けるまで、

250年以上も続けられたということです。

豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺には、
彼女が毎日大切に拝んでいた仏像が安置されています。

掌に乗せられるほどの大きさの仏像が木箱に収まっていて、

観音開きの扉を閉めると、鍵をかけられるようになっているのですが、

その錠が、珍しいことに船の形をしているのです。

しかも、デッキにあたる部分に、「大悲船」の文字が…。

それを見た時、私は胸が張り裂けそうになりました。

助に象(かたど)られた船は、加賀藩から八丈島へ差し向けられた船を表しているのでしょう。

万里波濤越え、愛する家族に生きる糧を届けてくれるこの船は、
同時に、豪姫の深い悲しみも乗せていくのです。

家族を引き裂いた海を、彼女はどれほど恨めしく思ったことでしょう。

それは、まさしく「大きな悲しみの船」でした。


さて、ここから先は、浮田家に伝わる家系伝説です。

備前島の宇喜多屋敷で、夫婦がつかの間の再会を果たした時に、豪姫が身ごもり、やがて加賀で男の子を産んだ、と。

そして前田家は、その子を領内の豪農に預け、浮田姓を名乗らせた、と。

この子が秀家の息子とわかれば、当然八丈島に島流しにされるので、「宇喜多」を名乗るらせるわけにはいかない。

でも、宇喜多秀家の息子として、誇りを持って生きて欲しいと考え、

同じ音の「浮田」を名乗らせたというのです。

正直、この話は史実かどうかはわかりません。

でも、
「この話が史実であってほしい」、そんな気持ちになりました。

もしこれが本当の話なら、豪姫は、八丈島の息子たちに会うことはできませんでしたが、

もう1人の息子には、たまには会えたかもしれません。

もしそうだとしたら、彼女の悲しみも少しは癒えたことでしょう。

そして、前田家の思いを想像すると、胸がいっぱいになるんですね。

戦争犯罪人となって島流しにされた秀家の子孫が、その後も大切に養育されるように環境を整え、

前田家としてできうるかぎりの収入と格式を与えていった…。

ここに、前田家の、そして利家夫人・まつの、誇り高い生き方が表れているような気がします。

当時、まつは人質として江戸に住んでいましたが、

江戸と金沢の間でさかんに手紙がやりとりされていました。

まつが、娘の千世に宛てた手紙には、

「八丈島へ、数百俵のお米を送るように手配しました」

という内容が記されています。

ところが、八丈島への仕送りとして、
実際に幕府が前田家に許した白米の量は、75俵だけ。

そんなわずかなお米では、育ち盛りの孫たちが、あっという間に食べ尽くしてしまうと思ったのでしょう。

愛する娘を心からら慈しんでくれた婿と、

目に入れてもいいと痛くないほど可愛い孫に、思う存分食べさせてやるためには、

まつは、半ば公然と幕命(幕府から命じられたこと)に背いていたのです。

もちろん加賀藩は、表だって幕府に逆らい波風を立てるようなことはせず、

徳川幕府に対して恭順の姿勢を貫きました。

けれども、同時に、大切な人たちのためにできること、

やりたいことはすべてやり通す、

そんなしなやかさとしたたかさが、まつにはありました。

戦国史を彩り武勇でその名を轟かせた武将たちが、

家康の威光を恐れ、息をひそめていたのとは、対照的です。

かつて秀吉は、あまたの大名の中で前田家を最も大切に扱いました。

伝説となった醍醐の花見の時にも、前田家を格別の扱いにし、愛する息子の守り役にも、前田家を指名しました。

秀吉存命の間は、前田家は決して徳川の下風に立つことはなかったのです。

それが、関ヶ原の戦いで、天下は徳川家の手中に…。

前田家は、徳川に対して臣下の礼をとりましたが、

反徳川の象徴ともいうべき宇喜多秀家の子孫に対して、

徳川の目をくらませながら、ここまでのことをしたのです。

これは前田家(=まつ)の優しさでもあるのですが、

それだけではない、

徳川に屈しない誇り高い生き方が、秘められていたのではないか…そんな気がしました。

もちろん、浮田家の家系伝説が、史実とはかぎりませんが、

この伝説が400年以上も語り継がれてきたということは、まぎれもない事実です。

そしてそれは、

「おまつさんなら、このぐらいのことはするだろう」

と人々に思わせるような、しなやかでしたたかな生き方を、

まつ自身がしてきたことの証ではないかと思うのです。


(つづく)