🌸豪姫と秀家と利家とまつ🌸②
まつのこの強さは、一体どこから来るのでしょうか。
それはおそらく、逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えできた自信と誇りが、底流にあるのだと思います。
利家の若かりし頃、主人・織田信長の怒りを買い、織田家から追放されたことがありました。
2年後に許され、織田家に帰参しましたが、
その間、利家は失業状態にありましたから、
利家とまつの夫婦は極貧に喘ぎました。
この時、2人は、お金のありがたみを知り、
それ以来、利家は、大事な決済は家臣任せにせず、すべて自分で行うようになりました。
それは、大大名になってからも変わらなかったそうです。
武士がお金に執着しないことが美徳とされていた時代に、
財政を当主自らが掌握する利家の姿勢は、
同時代の人たちの目には奇異に映ったでしょうが、
この利家の経済感覚を代々の藩主が受け継いでいったのです。
このようにして、どん底の暮らしの中で夫婦が学んだことが、
加賀百万国の礎を築く上で大いに生かされたわけですが、
織田家から追放されていた期間に、2人は、もう一つ、つらい経験をしています。
かつて主君・信長のお気に入りだった頃は、利家は織田家中の人気者で、
先輩や同僚がいつも「利家、利家」と寄ってきてくれたのに、
信長の怒りを買った途端、周囲の人々が一斉に離れていき、
付き合いを絶たれてしまったのです。
人生には、いい時もあれば、悪い時もあります。
良いときには笑顔ですり寄ってくるのに、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまうなんて、
人の心というのは、なんと頼りなくはかないものなのでしょう。
利家とまつは、人間不信に陥りかけました。
ところがそういう状況下でも、ほんの一握りではありましたが、
以前と変わらぬつきあいを続けてくれる人たちがいたそうです。
「人の心ほど、 移ろいやすいものはない。
しかし、同時に、いつの日も変わらず最も信頼できるのも、人の心なのだ」
との思いを、2人は物に至ったのではないでしょうか。
それ以来、利家とまつは、自分たちにとって本当に大切な人は誰なのかを見極め、
その人の存在を、そしてその人の思いを、命を懸けて大切にしてきました。
例えば、秀吉がキリスト教を禁止した時のこと。
多くのキリシタン大名は棄教しましたが、
利家の親友・高山右近は、ついに信仰を捨てず、領地を没収されました。
その右近を、加賀に呼んで面倒をみたのは、利家であり、
利家が亡くなってからも、
徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて右近がフィリピンのマニラに旅立つまで、
およそ25年にわたって前田家は右近を守り続けたのです。
「自分にとって本当に大切な人を見極め、
その人の存在や思いを大切にする」
言葉にするのは簡単ですが、
権力者を敵にまわしてまで守り続けることは、容易ではありません。
優しさに加えて、強さが必要です。
優しさは、強さがあって初めてカタチになります。
そして、本当の強さは、優しさの中で育まれ、
誇りに支えられているのです。
以下は豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺のご住職から伺った話です。
八丈島の秀家は、加賀藩から送られてくるお米を独り占めせず、
島民たちに惜しげもなく分け与えていました。
「凶作に見舞われ、食べ物が底をついた時、秀家公がお米を分けてくれた。
そのおかげで、私たちは生き延びることができたのだ」
そのような話を親から子へ、子から孫へと語り継いできた家が八丈島には多く、
そうした家系伝説を持つ人々が、時折大蓮寺を訪れるそうです。
そして、ご先祖に代わって、豪姫にお礼を述べるのだとか…。
「豪姫さん、あの時は本当にありがとうございました」
400年以上も前に生きていた人の溢れる愛が、
今も人々の心を暖かいものにしているんですね。
この話を知った時、「大悲船」の本当の意味がわかったような気がしました。
加賀藩から八丈島に差し向か差し向けられた船は、
「大きな悲しみの船」
ではなく、
「大きな慈悲の船」
だったのではないでしょうか。
豪姫が仕送りとともに届けていたのは、悲しみの中から生まれたかぎりない優しさと深い愛だったのだと思います。
まつから豪姫へ、そしてその後の前田家の人々へと受け継がれた、百万国の愛と誇り。
逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えてきた、
彼女たちの自信と誇りが、前田家のしなやかでしたか家風をつりあげ、
歴史の中に春風を吹かせてくれているのです。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
誰を大事にするか、よく考えたいですね。(^_^)
まつのこの強さは、一体どこから来るのでしょうか。
それはおそらく、逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えできた自信と誇りが、底流にあるのだと思います。
利家の若かりし頃、主人・織田信長の怒りを買い、織田家から追放されたことがありました。
2年後に許され、織田家に帰参しましたが、
その間、利家は失業状態にありましたから、
利家とまつの夫婦は極貧に喘ぎました。
この時、2人は、お金のありがたみを知り、
それ以来、利家は、大事な決済は家臣任せにせず、すべて自分で行うようになりました。
それは、大大名になってからも変わらなかったそうです。
武士がお金に執着しないことが美徳とされていた時代に、
財政を当主自らが掌握する利家の姿勢は、
同時代の人たちの目には奇異に映ったでしょうが、
この利家の経済感覚を代々の藩主が受け継いでいったのです。
このようにして、どん底の暮らしの中で夫婦が学んだことが、
加賀百万国の礎を築く上で大いに生かされたわけですが、
織田家から追放されていた期間に、2人は、もう一つ、つらい経験をしています。
かつて主君・信長のお気に入りだった頃は、利家は織田家中の人気者で、
先輩や同僚がいつも「利家、利家」と寄ってきてくれたのに、
信長の怒りを買った途端、周囲の人々が一斉に離れていき、
付き合いを絶たれてしまったのです。
人生には、いい時もあれば、悪い時もあります。
良いときには笑顔ですり寄ってくるのに、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまうなんて、
人の心というのは、なんと頼りなくはかないものなのでしょう。
利家とまつは、人間不信に陥りかけました。
ところがそういう状況下でも、ほんの一握りではありましたが、
以前と変わらぬつきあいを続けてくれる人たちがいたそうです。
「人の心ほど、 移ろいやすいものはない。
しかし、同時に、いつの日も変わらず最も信頼できるのも、人の心なのだ」
との思いを、2人は物に至ったのではないでしょうか。
それ以来、利家とまつは、自分たちにとって本当に大切な人は誰なのかを見極め、
その人の存在を、そしてその人の思いを、命を懸けて大切にしてきました。
例えば、秀吉がキリスト教を禁止した時のこと。
多くのキリシタン大名は棄教しましたが、
利家の親友・高山右近は、ついに信仰を捨てず、領地を没収されました。
その右近を、加賀に呼んで面倒をみたのは、利家であり、
利家が亡くなってからも、
徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて右近がフィリピンのマニラに旅立つまで、
およそ25年にわたって前田家は右近を守り続けたのです。
「自分にとって本当に大切な人を見極め、
その人の存在や思いを大切にする」
言葉にするのは簡単ですが、
権力者を敵にまわしてまで守り続けることは、容易ではありません。
優しさに加えて、強さが必要です。
優しさは、強さがあって初めてカタチになります。
そして、本当の強さは、優しさの中で育まれ、
誇りに支えられているのです。
以下は豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺のご住職から伺った話です。
八丈島の秀家は、加賀藩から送られてくるお米を独り占めせず、
島民たちに惜しげもなく分け与えていました。
「凶作に見舞われ、食べ物が底をついた時、秀家公がお米を分けてくれた。
そのおかげで、私たちは生き延びることができたのだ」
そのような話を親から子へ、子から孫へと語り継いできた家が八丈島には多く、
そうした家系伝説を持つ人々が、時折大蓮寺を訪れるそうです。
そして、ご先祖に代わって、豪姫にお礼を述べるのだとか…。
「豪姫さん、あの時は本当にありがとうございました」
400年以上も前に生きていた人の溢れる愛が、
今も人々の心を暖かいものにしているんですね。
この話を知った時、「大悲船」の本当の意味がわかったような気がしました。
加賀藩から八丈島に差し向か差し向けられた船は、
「大きな悲しみの船」
ではなく、
「大きな慈悲の船」
だったのではないでしょうか。
豪姫が仕送りとともに届けていたのは、悲しみの中から生まれたかぎりない優しさと深い愛だったのだと思います。
まつから豪姫へ、そしてその後の前田家の人々へと受け継がれた、百万国の愛と誇り。
逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えてきた、
彼女たちの自信と誇りが、前田家のしなやかでしたか家風をつりあげ、
歴史の中に春風を吹かせてくれているのです。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
誰を大事にするか、よく考えたいですね。(^_^)