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マイ・ストーリー④

2019-12-20 12:28:00 | お話
マイ・ストーリー④

その日、ヴァレリーは私との面談に20分を予定していたのだが、

結局一時間半に及んだ。

やせ型で肌の色の薄いアフリカ系アメリカ人の彼女は、

オーダーメイドのスーツを美しく着こなし、とても落ち着いた雰囲気で穏やかな話し方をする人だった。

茶色の瞳でこちらをじっと見つめる彼女は、市の機能について驚くほどよく理解していた。

自分の仕事を楽しんでいる反面、官僚的な市政のストレスを言い繕おうとはしなかった。

彼女といるとすぐにリラックスできた。

数年後にヴァレリーから聞いたところによると、この日私は通常の面接プロセスに逆らって彼女を驚かせたのだという。

というのも、私は自分自身について参考になるであろう基本的情報を提供したが、

同時にヴァレリーことも質問攻めにし、

彼女が仕事について感じていることをすべてを、

市長がどれほど部下の意見を聞こうとするかに至るまでを知りたがったからだ。

彼女が仕事に対する私の適性を見ていたのと同様に、

私もその仕事が自分に適しているかを見極めようとしていたのだ。

今振り返るとそのときの私は、自分と経歴が似ていて自分よりも数年先のキャリアを歩む女性と話す貴重な機会を最大限利用しようとしていただけだ。

ヴァレリーは冷静かつ大胆で、しかも賢く、それまであまり出会ったことないタイプだった。

彼女からは学べることは多く、そばにさせてもらうべき人物だとすぐにわかった。

私が部屋を出る前にヴァレリーは私に面接に合格したことを告げ、私の準備が整い次第デイリー市長のアシスタントとして一緒に働こうと言ってくれた。

これでも法務に就かなくていい。

年収は現在シドリー&オースティン法律事務所で稼いでいる額の、およそ半分の6万ドル。

ゆっくり時間を取って、本当にこの転職をする覚悟はできているかどうかよく考えて、とヴァレリーは言った。

思い切ったキャリアチェンジについて考えるのも実行するのも、私自身だ。

私はそれまで市役所に敬意を払ったことがなかった。

サウス・サイドで育った黒人として、政治をほとんど信用していなかった。

政治は伝統的に私たち黒人の敵で、

私たちを孤立させ、教育と雇用の機会を奪い、
低い収入で働かせる手段として使われてきたからだ。

祖父母はジム・クロウ法の恐怖と住宅差別による屈辱を経験したため、

ほぼあらゆる権力に対して不信感を抱いていた
(覚えているかもしれないが、すでに述べたとおり祖父の「サウス・サイド」は歯科医でさえ自分を陥れようとしていると思っていた)。

人生のほとんどを市職員として働いた父が民主党の選挙区幹事になったのは、仕事での昇進を少しでも考慮してもらうためだった。

父は選挙区幹事の仕事を通して人と交流できることは楽しんでいたが、

市役所の縁故主義にはいつもうんざりしていた。

それなのに気がつけば私は市役所で働こうとしていた。

収入の減少には怯んだものの、理屈抜きに興味を惹かれたのだ。

心の奥では、それまでの人生計画とは全く違う未来に向かってみなさいと静かに道が示されていた。

飛び込む覚悟はほぼできていたが、1つだけ問題があった。

これはもう、私だけに関わることではない。

数日後にヴァレリーが確認のために電話をしてきたときに、私はまだ迷っていると伝えた。

それから、おそらく奇妙な最後の質問した。

「お願いがあるのですが」と私は言った。

「婚約者を紹介してもよろしいでしょうか?」


ここで時間を遡り、父を亡くした悲しみのもやの中で途方に暮れていた、

あの長くて暑苦しい夏が来る前に戻ろう。

バラクは父の葬儀の前後にシカゴでできるだけ私と一緒にいてくれたが、

その後ハーバードで残りの学期を終えた。

そして5月中旬に卒業すると、荷物をまとめてはバナナ色のダットサンを売り払い、ユークリッド通り7436番地の私の実家に、そして私の腕の中に戻ってきた。

私は彼を愛した。

彼から愛されているとも感じてた。

2年近くの遠距離恋愛を乗り越え、ようやく短距離恋愛を再開できる。

また一緒に週末をダラダラとベッドで過ごしたり、

新聞を読んだり、ブランチを食べに行ったりして、思ったことすべてを話した。

月曜の夜に一緒にディナーができた。

火曜日にも、水曜、木曜にもできた。

一緒に食材を買いに行ったり、テレビの前で洗濯物をたたんだりもできた。

父を亡くした悲しみから私が泣き出してしまう夜には、

そばにいるバラクが抱きしめて頭のてっぺんにキスをしてくれた。

ロースクールを無事に終えたバラクは、

曖昧な学問の世界から早く抜け出して、
もっとリアルで興味をそそられる仕事の世界に入りたがっていた。

また、人種とアイデンティティーに関するノンフィクション本のアイデアをニューヨークの出版社に見事に売り込んでもいた。

それはもう彼のように本を崇拝する人にとっては大きな夢だった。

彼は前払金をもらい、原稿完成までにおよそ1年を与えられた。

相変わらずバラクにはたくさんの選択肢があった。

ロースクールの教授が紹介状で彼を褒めちぎり、『ロー・レビュー』の編集長への選手が『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事になった影響で、

チャンスが洪水のように押し寄せていた。

シカゴ大学は無報酬の特別研究員になれば1年間小さな部屋を提供すると持ちかけた。

1年間はそこで本を執筆し、その後はそこのロースクールで非常勤講師として教鞭を取るというオファーだった。


また、彼をフルタイムで迎え入れたいと望むシドリー&オースティン法律事務所は、7月に控える司法試験までのおよそ2カ月間、彼のために席を用意した。

一方、バラクはデイビス・マイナー・バーンヒル&ガーランド法律事務所に入ることも検討していた。

市民権問題や住宅販売の公正化などを取り扱う小規模な公益法弁護士事務所で、

在籍する弁護士たちにはかつてハロルド・ワシントンと緊密に提供した経歴があり、

それがバラクにとって大きな魅力になっていた。

チャンスはいくらでもやってくると信じ、いずれチャンスも尽きるのではないかと心配することに無駄な時間やエネルギーを費やしたりしない人は、

生来の自信将に支えられている。

バラクは与えられた機会すべてに全力で真面目に取り組んだ。

だが、私の周りの人が、ときには私自身もそうしてしまうが、

先んじて成功の階段を上ろうとしたり、

他の人の進み具合と自分と比べたりはしなかった。

時々バラクは人生という巨大で激しいレースを忘れているようにも見え、

見栄えのいい車や郊外の庭付きの家、

あるいはシカゴ都心部の高級マンションなど、

30歳過ぎの弁護士が追い求めるはずのものはまったく眼中にないように思えることがあった。

以前からそんな彼の性格はわかっていたが、

一緒に暮らし、私自身も人生はじめての大きな岐路に立つ状況で、

その価値観はいっそう貴重に思えた。

一言で言えば、バラクは他人の人が諦めるときでも信じ続ける人だった。

彼には、自分のやり方に従っていれば何事もうまくいくというシンプルでポジティブな信念があった。

このときの私は、どんな客観的な基準から見ても成功しているとみなされる現在のキャリアから抜け出す方法について、

たくさんの人と慎重で真面目な話し合いをしていた。

まだ返済すべきローンがあり、まだ家も買えてないと話すと、

相手の顔に危機感や懸念が浮かぶのを何度も目にした。

父はいつも目標をあえて控えめに設定してあらゆるリスクを避け、

そうすることで家庭の安定を保っていた。

そのことがどうしても頭に浮かんだ。

幸せについてくよくよ考えるのはお金を稼いでからよ、という母のアドバイスも常に頭にあった。

また、不安感を強めたのは、物質的などんな望みよりもはるかに深く大きな願いだった。

私はそう遠くない未来に子どもがほしいと思っていたのだ。

突然まったく新しい業界で1から働きだしてしまったら、子どもなど持てるだろうか?

そんなとき、シカゴに戻ってきたバラックのおかげで心を落ち着かせることができた。

私の不安を受け止め、抱いている負債を列挙する私の話に耳を傾け、

自分もいつか子供が持てたら嬉しいと言ってくれた。

2人ともありきたりな心地よい弁護士人生にどとまりたくないのだから、

これからどうなるか正確に予想する術すべなどないと彼は認めていた。

それでも彼が伝えようとしていたのは、私たちは貧困からはほど遠く、

未来はきっと明るく、

おそらくあまりにも輝かしくて簡単には計画できないのだと言うことだった。

とにかくやってみろと、不安をかき消して自分が幸せになれると思う道に進んでみろと言ってくれるのはバラクだけだった。

未知の世界に飛び込んでも大丈夫、そこで死ぬわけではないのだから、、

私がこの発言をしたときに、父方のロビンソン家および母方シールズ家のほぼ全員、ダンディや「サウス・サイド」の代までみんなが唖然とした。

大丈夫、とバラクは言った。

君ならできるよ。一緒に乗り越えよう。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)


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