「オランダと日本」
かつてオランダは日本に最も近い国だった。
何しろ鎖国中の200年間、お隣の中国は別として、お付き合いしていた唯一の外国だったのだから。
オルゴール、カバン、ランドセル、ビール、コーヒー、ポン酢から、はては、おてんば(「負けん気の強い」の意味)やアスベストまで、
普段日本語として使っている言葉の中には、実はオランダ語から借用した言葉が少なくない。
そもそもオランダ人(当時の呼び名では紅毛人)が日本に最初にやってきたのは、今から400年以上も前の慶長5年(1600年)のこと。
商船「フリーデ」号が豊後(大分県)の臼杵に漂着したのを始まりとする。
当初112人いた乗組員は、その時に14人になっていた。
ここにはイギリス人のウィリアム・アダム(三浦按針)とともに、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)がいた。
徳川家康に気にいられたこの2人は、帰国したくても返してもらえず日本に居つくことになった。
通訳や外交顧問として朱印船貿易に活躍したヤン・ヨーステンは、日本人女性と結婚し、今の八重洲あたりに屋敷を構えていた。
八重洲はヤン・ヨーステンの名前が訛って、
「やようす(耶揚子)」
→「やよす(八代洲)」
→「やえす(八重洲)」
に変化したものといわれる。
その後、キリスト教の布教を行ったポルトガル人は出島から追い出され、
代わりに布教はせずに商売一筋を誓ったオランダ人が平戸からここに移って商館を構えた。
オランダ人は日本の貿易を独占したものの、アムステルダム中心部にあるダム広場ほどの狭い人工の島に押し込められてしまった。
オランダ人には、出島に出入りを許されていた丸山遊女との逢瀬や、将軍に目通りするために江戸に上がる「江戸参府」くらいしか楽しみはなかった。
ちなみに、将軍家の献上品には望遠鏡・地球儀・シャンデリアなどのほか、ラクダやシマウマといった珍しい動物まであったと言うから、さぞかし将軍は目を丸くしたことだろう。
しかし江戸時代末期になるとオランダは力を失い、変わってイギリスとアメリカが制海権を握る。
そういいながらも嘉永6年(1853年)、黒船に乗って浦賀にやってきたぺリーは英語ではなくオランダ語の通訳を介して日本に開国を迫ったという。
一方、巻き返しを図りたいオランダ国王は、幕府から艦船の受注を見込んで軍船「スンビン」号(観光丸と改名)を将軍に献上。
この船を使って砲術、航海術、造船技術を教える海軍伝習場が長崎にできると、後に江戸無血開場に貢献した勝海舟が教頭に収まった。
次に幕府がオランダに発注した「ヤパン」号(咸臨丸と改名)を指揮し、勝海舟はアメリカに渡ったのだった。
そのほか、オランダは日本に治水・灌漑技術も提供してくれた。
国土の4分の1が海抜0メートル以下にあるこの国は、
「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」
と自負するように、
古くから海水をくみ出したりする水に関する技術に長けていた。
この時期、オランダから12人の土木技術者が来日しているが、
そのうち、デ・レイケは木曽三川に堤防を築いたり護岸工事を施して、住民を洪水から守ってくれたことで知られる。
また、ファン・ドールンは雨が降らない不毛な福島県安積原野に猪苗代湖から水を引いて灌漑用水路(安積疎水)を作ったことで、
やがて、この一帯は日本有数の米の産地となった。
その功績が称えられ、猪苗代湖畔に彼の銅像が建てられた。
銅像は第二次世界大戦中の金属回収令で徴収されそうになるが、
恩を忘れる地元住民の反対で守られたという逸話がある。
(つづく)
かつてオランダは日本に最も近い国だった。
何しろ鎖国中の200年間、お隣の中国は別として、お付き合いしていた唯一の外国だったのだから。
オルゴール、カバン、ランドセル、ビール、コーヒー、ポン酢から、はては、おてんば(「負けん気の強い」の意味)やアスベストまで、
普段日本語として使っている言葉の中には、実はオランダ語から借用した言葉が少なくない。
そもそもオランダ人(当時の呼び名では紅毛人)が日本に最初にやってきたのは、今から400年以上も前の慶長5年(1600年)のこと。
商船「フリーデ」号が豊後(大分県)の臼杵に漂着したのを始まりとする。
当初112人いた乗組員は、その時に14人になっていた。
ここにはイギリス人のウィリアム・アダム(三浦按針)とともに、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)がいた。
徳川家康に気にいられたこの2人は、帰国したくても返してもらえず日本に居つくことになった。
通訳や外交顧問として朱印船貿易に活躍したヤン・ヨーステンは、日本人女性と結婚し、今の八重洲あたりに屋敷を構えていた。
八重洲はヤン・ヨーステンの名前が訛って、
「やようす(耶揚子)」
→「やよす(八代洲)」
→「やえす(八重洲)」
に変化したものといわれる。
その後、キリスト教の布教を行ったポルトガル人は出島から追い出され、
代わりに布教はせずに商売一筋を誓ったオランダ人が平戸からここに移って商館を構えた。
オランダ人は日本の貿易を独占したものの、アムステルダム中心部にあるダム広場ほどの狭い人工の島に押し込められてしまった。
オランダ人には、出島に出入りを許されていた丸山遊女との逢瀬や、将軍に目通りするために江戸に上がる「江戸参府」くらいしか楽しみはなかった。
ちなみに、将軍家の献上品には望遠鏡・地球儀・シャンデリアなどのほか、ラクダやシマウマといった珍しい動物まであったと言うから、さぞかし将軍は目を丸くしたことだろう。
しかし江戸時代末期になるとオランダは力を失い、変わってイギリスとアメリカが制海権を握る。
そういいながらも嘉永6年(1853年)、黒船に乗って浦賀にやってきたぺリーは英語ではなくオランダ語の通訳を介して日本に開国を迫ったという。
一方、巻き返しを図りたいオランダ国王は、幕府から艦船の受注を見込んで軍船「スンビン」号(観光丸と改名)を将軍に献上。
この船を使って砲術、航海術、造船技術を教える海軍伝習場が長崎にできると、後に江戸無血開場に貢献した勝海舟が教頭に収まった。
次に幕府がオランダに発注した「ヤパン」号(咸臨丸と改名)を指揮し、勝海舟はアメリカに渡ったのだった。
そのほか、オランダは日本に治水・灌漑技術も提供してくれた。
国土の4分の1が海抜0メートル以下にあるこの国は、
「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」
と自負するように、
古くから海水をくみ出したりする水に関する技術に長けていた。
この時期、オランダから12人の土木技術者が来日しているが、
そのうち、デ・レイケは木曽三川に堤防を築いたり護岸工事を施して、住民を洪水から守ってくれたことで知られる。
また、ファン・ドールンは雨が降らない不毛な福島県安積原野に猪苗代湖から水を引いて灌漑用水路(安積疎水)を作ったことで、
やがて、この一帯は日本有数の米の産地となった。
その功績が称えられ、猪苗代湖畔に彼の銅像が建てられた。
銅像は第二次世界大戦中の金属回収令で徴収されそうになるが、
恩を忘れる地元住民の反対で守られたという逸話がある。
(つづく)
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