「オランダと日本」②
さて、日本とオランダの関係を俯瞰したとき、最初の340年は概ね良好だった。
しかし、
1942年、太平洋戦争で旧日本軍がインドネシアに侵攻したことで、
約350年続いたオランダの植民地支配に終止符が打たれた。
そのため
天然資源やコーヒー・茶の栽培で潤っていたオランダは、
自国の36倍もある領土を失って九州ほどの小国に転じてしまった。
しかも、
旧日本軍に敗れたことで、オランダ軍人4万人と民間人9万人が不衛生な抑留所に収容されてしまった。
元はといえば、その抑留所はオランダ人が現地人のために建てた粗末な宿舎だったのではあるが。
しかし民間人が強制労働させられたり、
オランダ人女性が慰安婦にされた思い出がオランダ人の記憶からぬぐいされなかった。
事実、
1971年に昭和天皇がオランダを訪問した折り、
市民から車に生卵を投げつけられるなどの手荒な歓迎を受けたこともあった。
また、
86年にはオランダ国民の反発でベアトリクス女王の訪日が見送られたり、
91年に海部首相がオランダを訪問した際に
戦没者慰霊碑に献花した花束が池に投げ捨てられるといった事件が起こり、
オランダ人の怒りはいつまでも静まりそうになかった。
そんな人々が変わったのは、
2000年にベアトリクス女王に招かれて
天皇皇后両陛下がオランダを訪問したときのことだ。
王宮前のダム広場に建つ戦没者記念式の前で献花した天皇皇后両陛下は、
真摯な面持ちで黙祷を捧げた。
静寂の中で身じろぎもせず、1分間にもわたってずっと立ち尽くした。
そのニュースを見て、胸を熱くし涙を浮かべたオランダ人は少なくなかったと言う。
ビクトリア女王もそのひとりだった。
その夜、アムステルダムの王宮で表敬晩餐会が催された。
ここには大戦中インドネシアで旧日本軍から抑留された経験を持つ8人のオランダ人も、女王から直接招待されていた。
その中には17歳のときに3年半抑留生活を強いられた、P.J.Hヨンクマン氏の姿もあった。
氏は在英オランダ大使を退任後、
デンハーグにある国際司法裁判所において常設調停裁判所の事務次官や、
ビクトリア女王の枢密院顧問をしていたこともある。
当初からビクトリア女王は天皇皇后両陛下にかつての抑留者を引き合わせようとしたが、
日本の外務省は慎重だった。
もし会見の場で事件が起こってはと心配するのは、むしろ当然のことだった。
だが、元抑留者の人物をよく知る女王はその心配はないこた、
また彼らとの面会を望まれるだろうと確信した女王は、
この件で天皇皇后両陛下に直接お話しされた。
そして女王は、まっ先に両陛下を広い晩餐会場の8人のグループのもとに案内した。
熱心に耳を傾ける姿を間近にし、
ヨンクマン氏は
「天皇皇后両陛下は、私たちが得てして想像しがちな、近づきがたい君主と言うようには全然お見受けいたしませんでした。
それどころか、
彼らは戦時中に
インドネシアで何がオランダ人に起こったかという事を
よくご存知であられるばかりでなく、
そのことについて自由にお話しされました」
と綴っている。
さらにヨンクマン氏が驚いたのは、
皇后陛下はまったくご自分の意思で自由に抑留者全員の中に入って話したうえ、
戦時中の辛い経験を話す女性の手を長い間ずっと優しく握って
慰めの言葉をかけたことだった。
ヨンクマン氏は
「このようにして陛下はこの公式訪問によりインドネシアからの帰国者グループ内にある多くの批判をお和らげくださいました」
と述べている。
その翌日、
天皇皇后両陛下はアムステルダムの児童養護学校「ミチルスクール」を訪問。
ここでおふたりは脳障害や筋ジストロフィーなどの障害のある200人ほどの子供たちのお出迎えを受け、なごやかな時を過ごした。
この中にひとり金色の王冠をかぶった女の子が机に伏せたまま眠っていた。
この日の出会いを楽しみにするあまり、はしゃぎすぎて疲れて眠り込んでしまったのだった。
女の子に気づいた皇后陛下はあえて起こすのも気の毒だと気遣い、そのまま立ち去った。
まもなくハッと目を覚ました女の子は、
すべてが終わってしまったことがわかると泣きながら
後を追って走ってきた。
すると、身をかがめてしっかりと胸で抱きとめられた皇后陛下に、女の子は無心でしがみついた。
このニュースと写真が大々的に報じられると、
オランダ人の心はようやく氷解し、
ネガティブな批判がピタリとやんだ。
「皇室は1,000人の外交官に匹敵する」と言われるが、
皇室を尊敬する伝統があるこの国では皇室外交がオランダ人の心をとらえたのだった。
その2年後の2002年に外務省がオランダ人の624人を対象にした対日世論調査では、
75%が日本を「豊かな伝統・文化を持つ国」と称し讃え、
89%までが日本人を「勤勉」と評価するまでになった。
また、2005年の米国「ピュー・リサーチセンター」の調査では、
68%もオランダ人が日本にポジティブな印象をもっていることがわかった。
事実、
東日本大震災後にオランダのビッディングハイゼンで開催された国内最大のイベントでは、
5万人の参加者が
「私たちはあなたがた、日本を愛しています(We love you.Japan!」
「私たちはあなたのために祈っています(We pray for you.)」
という赤と白のポスターを手に、
ハートの人文字(マーク)をつくって激励してくれたのだった。
(「日本人になりヨーロッパ人」片野優 須貝典子著より)
戦後のシベリア抑留や、たくさんの領国を取られたことなど、
戦争時代、日本も他国に同じようなことをしていたのですね。
それでは、うらみも残りますね。
知らないって無責任でいやですね。
少しでも、事実を知って謙虚に。
反省すべきことは、反省したいですね。
そして、いつの時代でも、
愛が、うらみを溶かし、すべてを赦すのですね。
さて、日本とオランダの関係を俯瞰したとき、最初の340年は概ね良好だった。
しかし、
1942年、太平洋戦争で旧日本軍がインドネシアに侵攻したことで、
約350年続いたオランダの植民地支配に終止符が打たれた。
そのため
天然資源やコーヒー・茶の栽培で潤っていたオランダは、
自国の36倍もある領土を失って九州ほどの小国に転じてしまった。
しかも、
旧日本軍に敗れたことで、オランダ軍人4万人と民間人9万人が不衛生な抑留所に収容されてしまった。
元はといえば、その抑留所はオランダ人が現地人のために建てた粗末な宿舎だったのではあるが。
しかし民間人が強制労働させられたり、
オランダ人女性が慰安婦にされた思い出がオランダ人の記憶からぬぐいされなかった。
事実、
1971年に昭和天皇がオランダを訪問した折り、
市民から車に生卵を投げつけられるなどの手荒な歓迎を受けたこともあった。
また、
86年にはオランダ国民の反発でベアトリクス女王の訪日が見送られたり、
91年に海部首相がオランダを訪問した際に
戦没者慰霊碑に献花した花束が池に投げ捨てられるといった事件が起こり、
オランダ人の怒りはいつまでも静まりそうになかった。
そんな人々が変わったのは、
2000年にベアトリクス女王に招かれて
天皇皇后両陛下がオランダを訪問したときのことだ。
王宮前のダム広場に建つ戦没者記念式の前で献花した天皇皇后両陛下は、
真摯な面持ちで黙祷を捧げた。
静寂の中で身じろぎもせず、1分間にもわたってずっと立ち尽くした。
そのニュースを見て、胸を熱くし涙を浮かべたオランダ人は少なくなかったと言う。
ビクトリア女王もそのひとりだった。
その夜、アムステルダムの王宮で表敬晩餐会が催された。
ここには大戦中インドネシアで旧日本軍から抑留された経験を持つ8人のオランダ人も、女王から直接招待されていた。
その中には17歳のときに3年半抑留生活を強いられた、P.J.Hヨンクマン氏の姿もあった。
氏は在英オランダ大使を退任後、
デンハーグにある国際司法裁判所において常設調停裁判所の事務次官や、
ビクトリア女王の枢密院顧問をしていたこともある。
当初からビクトリア女王は天皇皇后両陛下にかつての抑留者を引き合わせようとしたが、
日本の外務省は慎重だった。
もし会見の場で事件が起こってはと心配するのは、むしろ当然のことだった。
だが、元抑留者の人物をよく知る女王はその心配はないこた、
また彼らとの面会を望まれるだろうと確信した女王は、
この件で天皇皇后両陛下に直接お話しされた。
そして女王は、まっ先に両陛下を広い晩餐会場の8人のグループのもとに案内した。
熱心に耳を傾ける姿を間近にし、
ヨンクマン氏は
「天皇皇后両陛下は、私たちが得てして想像しがちな、近づきがたい君主と言うようには全然お見受けいたしませんでした。
それどころか、
彼らは戦時中に
インドネシアで何がオランダ人に起こったかという事を
よくご存知であられるばかりでなく、
そのことについて自由にお話しされました」
と綴っている。
さらにヨンクマン氏が驚いたのは、
皇后陛下はまったくご自分の意思で自由に抑留者全員の中に入って話したうえ、
戦時中の辛い経験を話す女性の手を長い間ずっと優しく握って
慰めの言葉をかけたことだった。
ヨンクマン氏は
「このようにして陛下はこの公式訪問によりインドネシアからの帰国者グループ内にある多くの批判をお和らげくださいました」
と述べている。
その翌日、
天皇皇后両陛下はアムステルダムの児童養護学校「ミチルスクール」を訪問。
ここでおふたりは脳障害や筋ジストロフィーなどの障害のある200人ほどの子供たちのお出迎えを受け、なごやかな時を過ごした。
この中にひとり金色の王冠をかぶった女の子が机に伏せたまま眠っていた。
この日の出会いを楽しみにするあまり、はしゃぎすぎて疲れて眠り込んでしまったのだった。
女の子に気づいた皇后陛下はあえて起こすのも気の毒だと気遣い、そのまま立ち去った。
まもなくハッと目を覚ました女の子は、
すべてが終わってしまったことがわかると泣きながら
後を追って走ってきた。
すると、身をかがめてしっかりと胸で抱きとめられた皇后陛下に、女の子は無心でしがみついた。
このニュースと写真が大々的に報じられると、
オランダ人の心はようやく氷解し、
ネガティブな批判がピタリとやんだ。
「皇室は1,000人の外交官に匹敵する」と言われるが、
皇室を尊敬する伝統があるこの国では皇室外交がオランダ人の心をとらえたのだった。
その2年後の2002年に外務省がオランダ人の624人を対象にした対日世論調査では、
75%が日本を「豊かな伝統・文化を持つ国」と称し讃え、
89%までが日本人を「勤勉」と評価するまでになった。
また、2005年の米国「ピュー・リサーチセンター」の調査では、
68%もオランダ人が日本にポジティブな印象をもっていることがわかった。
事実、
東日本大震災後にオランダのビッディングハイゼンで開催された国内最大のイベントでは、
5万人の参加者が
「私たちはあなたがた、日本を愛しています(We love you.Japan!」
「私たちはあなたのために祈っています(We pray for you.)」
という赤と白のポスターを手に、
ハートの人文字(マーク)をつくって激励してくれたのだった。
(「日本人になりヨーロッパ人」片野優 須貝典子著より)
戦後のシベリア抑留や、たくさんの領国を取られたことなど、
戦争時代、日本も他国に同じようなことをしていたのですね。
それでは、うらみも残りますね。
知らないって無責任でいやですね。
少しでも、事実を知って謙虚に。
反省すべきことは、反省したいですね。
そして、いつの時代でも、
愛が、うらみを溶かし、すべてを赦すのですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます