🍀🍀ヘレン・ケラーが心の支えとして、尊敬した日本人・塙保己一🍀🍀②
30歳の正月のことです。
保己一は15年世話になった雨富検校の家を出て、
旗本の高井実員の屋敷に住まうことになりました。
高井家と保己一は、不思議な縁で結ばれていた間柄でした。
保己一が学問に精進し始めて間もない頃、
「栄花(えいが)物語」40巻を保己一に与えてくれたのが、実員の奥方だったのです。
初めて蔵書となった「栄花物語」を、保己一は生涯大切にし、奥方への感謝を忘れませんでした。
奥方にとっても、10数年ぶりに再会した保己一が、学者として立派に独り立ちしていたので、喜びもひとしおだったでしょう。
高井家に移っても、保己一の学問第一の暮らしは変わりませんでした。
粗末な食事に冬でも足袋なしで過ごして、少しでも蓄えができると
書物を購入するという日々を送っていました。
ただ、周囲の反応は、少しずつ変化していきました。
保己一の学者としての名声が高まるにつれ、
来客が増え、弟子入りを希望する者までで現れるようになりました。
そんな時、保己一に転機が訪れます。
保己一の噂を聞いた大名家から、藩で秘蔵をしている書物が正統な典籍かどうか調べてほしいと、
一種の鑑定を依頼されるようになったのです。
あちこちに埋れていた貴重な書物が、次々に保己一のもとに集まってきます。
こうした状況になって、初めて保己一は天命に気づくのです。
彼は、村田晴海の「和学大概」に、次のように書かれていたことを思い出しました。
「全ての学問をするには古からの日本の国体を知らねばならない。
国対応するには古書の研究が必要であるが、
そうしたことを好む人々が少ないために古書が失われて、100年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。
これは太平の世ので恥である。
誰かこれを研究して、後の世に残したなら、
それこそ国の宝となるだろう」
保己一の心に、使命感が湧き上がってきました。
古書や古本の保存研究こそ、
まだ誰も足を踏み入れたことのない事業であり、
前人未到のこの事業こそが、自分の為すべき仕事ではないか、と。
寺院や神社の文庫に入れられていたり、大名の書庫に入ったまま、
多くの人の目に触れられることもなく失われていく書物や手紙。
これらを1冊の本にまとめ、新たに版を起こして出版すれば、
大いに後世の人々の役に立つはずです。
そして、これほど保己一にうってつけの仕事もないでしょう。
天命とは、探し求めて手に入れるものではなく、
目の前のことに全力で取り組んでいくうちに、
やがて扉が開き、導かれるものなのかもしれません。
いずれにしても、保己一のように、人が喜んでくれることの中に、
自分が好きなこと、自分の才能を生かせる道を見つけられた人は、幸せですね。
この後、保己一は天命に従い、古書や古本の保存研究事業に邁進していくことになるのです。
彼は叢書(そうしょ)の名前を「群書類従(ぐんしょるいじゅ)」と決め、
安永8年(1779年) 34歳の時に編纂を始めました。
当然、保己一ひとりでは手に負えませんから、門人たちの協力のもと進めていきます。
「群書類従」では、価値のある古書の群れを系統的に位置づけ、
「神祇(じんぎ)」「帝王」「補任(ぶにん)」「系譜」など25部に分類しています。
例えば物語部には「伊勢物語」「竹取の翁の物語」、
日記部には「和泉式部日記」「紫式部日記」、
紀行部では「土佐日記」「さらしな日記」、
そして雑部には「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「17か条憲法」まで、
私たちが古典古文として習う多くの書物が収められています。
「群書類従」の収録文献数は、1,270種以上。
これだけの文献を集めるのに、保己一はじめ門人たちは、血のにじむような苦労しました。
例えば、平安初期にまとめられた「日本後紀」。
行方知れずになっていた40巻の1部が、京都にあるらしいと伝え聞いた保己一は、
門人の稲山行教(ゆきのり)を京都に派遣します。
行教は京都中を探し回って、ようやく三条西家に、とびとびの10巻があることを突き止めました。
けれども、当時は秘本・珍本の類は
「他見を許さず」といって、
容易に見せたり筆写させたりしません。
そこで行教は策を練り、
三条西家の家司と酒友達となりました。
親しくつきあううちに、家に泊めてもらえるようになり、
そういうゆ晩には、書物を夜の間借りて読むことを許されました。
彼は泊まりに行くたびに、夜通し密かに「日本後期」を書き写し、
ついに三条西家にあった10巻全部を写しとったということです。
「日本後期」は、「日本書紀」に始まる我が国の6つの代表的な国史「六国史」の1つですが、
保己一の志と、この門人の熱意がなかったら、現在のような形で伝わらなかったかもしれません。
このようにして集めた文献について、
保己一と門人たちが原本・写本の綿密な吟味、厳正な校訂を加えた上で、印刷していくわけですが、
現在のような便利な機械はありませんから、すべて版木で行います。
専門の職人が、1枚の板に20字× 10行を1ページとして、左右2ページを逆向きに彫っていきます。
(これが400字詰め原稿用紙の基となったと言われています)
彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木するのです。
版木に墨をしみ込ませ、二回目の墨を塗った上に和紙をのせ、
竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこすって、印刷していきます。
保己一は、出版に向け気の遠くなるような地道な作業を重ねていきました。
そしてついに天明6年(1786年) 2月、構想から7年、
保己一は鎌倉の説話集である「今物語」を刊行し、
上々の評判を得ると、
この「今物語」を見本版として、
「群書類従」の広告文を作り、予約の募集を始めたのです。
この頃から、保己一の活躍の場は大きな広がりを見せます。
「今物語」の刊行と相前後し、水戸藩の彰考館に招かれ、
「源平盛衰記」の校訂、続いて「大日本史」の校正に携わりました。
さらにその後、保己一は、幕府から座中取締役に任用されます。
これは、座の特権を濫用する盲人社会の倫理粛清を目指すもので、
保己一でなければ果たしえない大改革が、彼自身の手に委ねられたのです。
こうして、多忙をきわめながらも、活気に満ちあふれた日々を送る保己一。
そんな彼に、突然、悪夢が襲いかかります。
寛政4年(1792年) 7月、麻布あたりから出火した火の手が広がり、
番長にあった保己一の自宅が全焼したのです。
風の様子から危険を察知した保険一は、早めに門人たちに避難を命じたので、みんな無事でした。
けれども、「群書類従類」の出版のさなか、
家の中には、今まで苦労して集めた書物や他家より借り受けた書籍が溢れていました。
避難する際に、かなりの書物は運び出したものの、版木の多くは焼失しました。
焼け跡に門人たちが、絶望して、
「群書類従の出版は、もう諦めるしかありません」
と口々にいい合う中、保己一はみんなを励ましました。
「何をいうか。みんな元気な体があるではないか。
それに書物さえあれば、版木はいつでも彫れる。
しばらくは中断するとしても、
またはじめるべく、手はずを整えていこう」
翌年、保己一は、律令や歴史を研究するための機関を設けるよう、幕府に願いでました。
時の老中・松平定信は、文武両道に秀で、
寛政の改革を進め学問を奨励していたので、
保己一の願いを二つ返事で許可しました。
和学講談および文庫を建設するための用地300坪が無償で提供された上に、
建物の建設資金350両の貸し付も行われました。
さらにこの後、毎年五十両の資金援助も受けられることをとなったのです。
鴻池家など豪商からの借金で費用を賄っていた保己一にとって、
これは天の助けにも思えたでしょう。
今までは売り上げが上がってから、それを次の出版資金としていたので、
借金は一向に減らないばかりか自転車操業もいいところで、
年間5~6冊しか出版できていませんでした。
それが、このたび幕府の資金援助の約束を取り付けたことで、
この後、毎月4冊刊行の見通しがたつようになりました。
それ以上に、保己一にとってありがたかったのは、
すでに名の知られた学者や優れた人材が和学講談所に集まって、
保己一たちの仕事に加わるようになったことです。
当時は旗本や御家人の暮らし向きも楽ではなかったのでしょう。
講談所ではいつも書を読み合う声、版木を彫る音、さらさらと紙を操る音が溢れていました。
そしてついに文政2年(1819年)「群書類従」の刊行が完了しました。
出版を決意してから40年という歳月が流れていました。
保己一は、74歳にして志を果たしたのです。
現在伝わっている「群書類従」は、総冊数665冊、目録1冊の合計666冊、
版木枚数は17,224枚、両面彫りなので約34,000ページ分となります。
ここには法律、政治、経済、文学から、医学、風俗、遊芸、飲食まで、
あらゆるジャンルの文献が収められており、
「『群書類従』なくしては日本文化の歴史を解明することは不可能だ」
とまで、いわれています。
保己一は、この2年後、76歳で他界しました。
生前、保己一は、「続群書類従」の調査、書写を進め、
出版を始めていましたが、彼の志は子孫や門人たちに引き継がれ、
和学講談所は、明治元年(1868年)まで、75年間も存続しました。
その後、和楽講談所の事業は明治政府に引き継がれ、
現在は東京大学史料編纂所が担っています。
関係者の努力により「続群書類従」が完成したのは、保己一が亡くなって90年目のことでした。
盲目というハンディを持ちながらも、
抜群の記憶力と強い精神力を武器に、
何事も前向きにとらえ、全力で生きぬいた保己一。
彼の人生は、不思議なほどに素晴らしい出会いと、ご縁に恵まれていますが、
それは、彼の周りにいい人が集まっていたからではなく、
彼と出会った人はみんな、協力や援助の手をさしのべずには、いられなかったのではないでしょうか。
一生懸命に生きる事は、それほど美しいことだったのだと、
あらためて気づかせてくれる存在、それが保己一なのです。
保己一の懸命に生きる姿に心打たれた人たちが、
彼に援助の手を差し伸べる。
すると、保己一はその人たちに心から感謝し、
自分にできる精一杯のことを行ってその人たちに喜んでもらおうと、さらに一生懸命に生きる…。
保己一と周囲の人たちは、
きっと、そんなふうにお互い影響しあって、同じ時代を生きたのだと思います。
最後に、保己一の人柄が偲ばれるエピソードを、2つご紹介します。
ある秋の夜、保己一は、妻のイヨとともに、
虫の音を聞きながら穏やかな時間を過ごしていました。
空に浮かぶのは、中秋の名月。
イヨからその美しさを聞いた保己一は、次の一句を詠みました。
「花ならば さぐりても見ん 今日の月」
これが花ならば、手でその形をさぐって美しさを想像することもできようが、
空に浮かぶ月は、そうもいかない…。
それほど美しい月を、一目見たいものだ。
人前では常に前向きな保己一も、心を許した妻には、切ない心情を伝えていたのですね。
この句を聞いた妻の心には、さまざま思いが溢れたことでしょう。
そして、この美しい今宵の月を、一目でいいから夫に見せたいと願ったのでしょうね。
溢れる想いを、イヨは返歌に託しました。
「十五夜は 座頭の妻の 泣く世かな」
ここでの座頭は視覚障がい者全般のことです。
盲目の大学者・塙保己一を支えた妻の慟哭が聞こえてくるようです。
私は、このような夫婦の深い絆が、あらゆることを受け入れ、困難に立ち向かう勇気を、
保己一に与えたのではないかと思っています。
一方、こちらの、保己一が弟子たちを集め、「源氏物語」を講義した時のことです。
ふいに風が吹いて、ろうそくの火が消えました。
部屋の中は真っ暗です。
保己一は、そうとは知らず講義を続けましたが、弟子たちは大慌て。
その様子を察した保己一は、
「目あきというものは不自由なものじゃ」
と、いたずらっぽく笑ったそうです。
ヘレン・ケラーのお気に入りでもあったという、このエピソードには、
いろいろなことを考えさせられます。
火事で版木の多くを失った時もそうでしたが、
目が見える者たちは、目の前の現象を見て一喜一憂し、
有頂天になったり逆に絶望したり、すぐに平常心を失ってしまいます。
それに対し、幸か不幸か、それを見ることのできない保己一は、
常に自分の心と向き合い、物事の本質を見極めることができました。
だから彼は、どんな困難にもくじけることなく、
またどんな幸運にも驕ることなく、いつの日も冷静でいられたのだと思います。
「群書類従」の編纂は、実に40年の歳月をかけた大事業で、
それを盲目の学者がやり遂げたということに、
大きな驚きと感動があるのですが、
もしかしたら、盲目の保己一だったからこそ、
出来たことなのかもしれません。
そういう意味でも、「群書類従」の編纂というのは、
まさに保己一に与えられた天命だったといえるのではないでしょうか。
どんな環境にあっても、人はみな自分の花を咲かすことができるということ。
その第一歩は、いま自分に与えられた環境を受け容れ、感謝し、ご縁をいただいた人たちを笑顔にするために、
自分にできることを精一杯行うことからはじめるということ。
そうやって自分に与えられた目の前のものに対して心を尽くしていくうちに、
使命感が育まれ天命に気づくのだということ。
資料の編纂に明け暮れた保己一でしたが、
もし自分自身の考えを著作に著すとしたら、
そんなメッセージを私たちに伝えてくれたのかもしれませんね。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
すごい人ですね。(^_^)
30歳の正月のことです。
保己一は15年世話になった雨富検校の家を出て、
旗本の高井実員の屋敷に住まうことになりました。
高井家と保己一は、不思議な縁で結ばれていた間柄でした。
保己一が学問に精進し始めて間もない頃、
「栄花(えいが)物語」40巻を保己一に与えてくれたのが、実員の奥方だったのです。
初めて蔵書となった「栄花物語」を、保己一は生涯大切にし、奥方への感謝を忘れませんでした。
奥方にとっても、10数年ぶりに再会した保己一が、学者として立派に独り立ちしていたので、喜びもひとしおだったでしょう。
高井家に移っても、保己一の学問第一の暮らしは変わりませんでした。
粗末な食事に冬でも足袋なしで過ごして、少しでも蓄えができると
書物を購入するという日々を送っていました。
ただ、周囲の反応は、少しずつ変化していきました。
保己一の学者としての名声が高まるにつれ、
来客が増え、弟子入りを希望する者までで現れるようになりました。
そんな時、保己一に転機が訪れます。
保己一の噂を聞いた大名家から、藩で秘蔵をしている書物が正統な典籍かどうか調べてほしいと、
一種の鑑定を依頼されるようになったのです。
あちこちに埋れていた貴重な書物が、次々に保己一のもとに集まってきます。
こうした状況になって、初めて保己一は天命に気づくのです。
彼は、村田晴海の「和学大概」に、次のように書かれていたことを思い出しました。
「全ての学問をするには古からの日本の国体を知らねばならない。
国対応するには古書の研究が必要であるが、
そうしたことを好む人々が少ないために古書が失われて、100年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。
これは太平の世ので恥である。
誰かこれを研究して、後の世に残したなら、
それこそ国の宝となるだろう」
保己一の心に、使命感が湧き上がってきました。
古書や古本の保存研究こそ、
まだ誰も足を踏み入れたことのない事業であり、
前人未到のこの事業こそが、自分の為すべき仕事ではないか、と。
寺院や神社の文庫に入れられていたり、大名の書庫に入ったまま、
多くの人の目に触れられることもなく失われていく書物や手紙。
これらを1冊の本にまとめ、新たに版を起こして出版すれば、
大いに後世の人々の役に立つはずです。
そして、これほど保己一にうってつけの仕事もないでしょう。
天命とは、探し求めて手に入れるものではなく、
目の前のことに全力で取り組んでいくうちに、
やがて扉が開き、導かれるものなのかもしれません。
いずれにしても、保己一のように、人が喜んでくれることの中に、
自分が好きなこと、自分の才能を生かせる道を見つけられた人は、幸せですね。
この後、保己一は天命に従い、古書や古本の保存研究事業に邁進していくことになるのです。
彼は叢書(そうしょ)の名前を「群書類従(ぐんしょるいじゅ)」と決め、
安永8年(1779年) 34歳の時に編纂を始めました。
当然、保己一ひとりでは手に負えませんから、門人たちの協力のもと進めていきます。
「群書類従」では、価値のある古書の群れを系統的に位置づけ、
「神祇(じんぎ)」「帝王」「補任(ぶにん)」「系譜」など25部に分類しています。
例えば物語部には「伊勢物語」「竹取の翁の物語」、
日記部には「和泉式部日記」「紫式部日記」、
紀行部では「土佐日記」「さらしな日記」、
そして雑部には「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「17か条憲法」まで、
私たちが古典古文として習う多くの書物が収められています。
「群書類従」の収録文献数は、1,270種以上。
これだけの文献を集めるのに、保己一はじめ門人たちは、血のにじむような苦労しました。
例えば、平安初期にまとめられた「日本後紀」。
行方知れずになっていた40巻の1部が、京都にあるらしいと伝え聞いた保己一は、
門人の稲山行教(ゆきのり)を京都に派遣します。
行教は京都中を探し回って、ようやく三条西家に、とびとびの10巻があることを突き止めました。
けれども、当時は秘本・珍本の類は
「他見を許さず」といって、
容易に見せたり筆写させたりしません。
そこで行教は策を練り、
三条西家の家司と酒友達となりました。
親しくつきあううちに、家に泊めてもらえるようになり、
そういうゆ晩には、書物を夜の間借りて読むことを許されました。
彼は泊まりに行くたびに、夜通し密かに「日本後期」を書き写し、
ついに三条西家にあった10巻全部を写しとったということです。
「日本後期」は、「日本書紀」に始まる我が国の6つの代表的な国史「六国史」の1つですが、
保己一の志と、この門人の熱意がなかったら、現在のような形で伝わらなかったかもしれません。
このようにして集めた文献について、
保己一と門人たちが原本・写本の綿密な吟味、厳正な校訂を加えた上で、印刷していくわけですが、
現在のような便利な機械はありませんから、すべて版木で行います。
専門の職人が、1枚の板に20字× 10行を1ページとして、左右2ページを逆向きに彫っていきます。
(これが400字詰め原稿用紙の基となったと言われています)
彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木するのです。
版木に墨をしみ込ませ、二回目の墨を塗った上に和紙をのせ、
竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこすって、印刷していきます。
保己一は、出版に向け気の遠くなるような地道な作業を重ねていきました。
そしてついに天明6年(1786年) 2月、構想から7年、
保己一は鎌倉の説話集である「今物語」を刊行し、
上々の評判を得ると、
この「今物語」を見本版として、
「群書類従」の広告文を作り、予約の募集を始めたのです。
この頃から、保己一の活躍の場は大きな広がりを見せます。
「今物語」の刊行と相前後し、水戸藩の彰考館に招かれ、
「源平盛衰記」の校訂、続いて「大日本史」の校正に携わりました。
さらにその後、保己一は、幕府から座中取締役に任用されます。
これは、座の特権を濫用する盲人社会の倫理粛清を目指すもので、
保己一でなければ果たしえない大改革が、彼自身の手に委ねられたのです。
こうして、多忙をきわめながらも、活気に満ちあふれた日々を送る保己一。
そんな彼に、突然、悪夢が襲いかかります。
寛政4年(1792年) 7月、麻布あたりから出火した火の手が広がり、
番長にあった保己一の自宅が全焼したのです。
風の様子から危険を察知した保険一は、早めに門人たちに避難を命じたので、みんな無事でした。
けれども、「群書類従類」の出版のさなか、
家の中には、今まで苦労して集めた書物や他家より借り受けた書籍が溢れていました。
避難する際に、かなりの書物は運び出したものの、版木の多くは焼失しました。
焼け跡に門人たちが、絶望して、
「群書類従の出版は、もう諦めるしかありません」
と口々にいい合う中、保己一はみんなを励ましました。
「何をいうか。みんな元気な体があるではないか。
それに書物さえあれば、版木はいつでも彫れる。
しばらくは中断するとしても、
またはじめるべく、手はずを整えていこう」
翌年、保己一は、律令や歴史を研究するための機関を設けるよう、幕府に願いでました。
時の老中・松平定信は、文武両道に秀で、
寛政の改革を進め学問を奨励していたので、
保己一の願いを二つ返事で許可しました。
和学講談および文庫を建設するための用地300坪が無償で提供された上に、
建物の建設資金350両の貸し付も行われました。
さらにこの後、毎年五十両の資金援助も受けられることをとなったのです。
鴻池家など豪商からの借金で費用を賄っていた保己一にとって、
これは天の助けにも思えたでしょう。
今までは売り上げが上がってから、それを次の出版資金としていたので、
借金は一向に減らないばかりか自転車操業もいいところで、
年間5~6冊しか出版できていませんでした。
それが、このたび幕府の資金援助の約束を取り付けたことで、
この後、毎月4冊刊行の見通しがたつようになりました。
それ以上に、保己一にとってありがたかったのは、
すでに名の知られた学者や優れた人材が和学講談所に集まって、
保己一たちの仕事に加わるようになったことです。
当時は旗本や御家人の暮らし向きも楽ではなかったのでしょう。
講談所ではいつも書を読み合う声、版木を彫る音、さらさらと紙を操る音が溢れていました。
そしてついに文政2年(1819年)「群書類従」の刊行が完了しました。
出版を決意してから40年という歳月が流れていました。
保己一は、74歳にして志を果たしたのです。
現在伝わっている「群書類従」は、総冊数665冊、目録1冊の合計666冊、
版木枚数は17,224枚、両面彫りなので約34,000ページ分となります。
ここには法律、政治、経済、文学から、医学、風俗、遊芸、飲食まで、
あらゆるジャンルの文献が収められており、
「『群書類従』なくしては日本文化の歴史を解明することは不可能だ」
とまで、いわれています。
保己一は、この2年後、76歳で他界しました。
生前、保己一は、「続群書類従」の調査、書写を進め、
出版を始めていましたが、彼の志は子孫や門人たちに引き継がれ、
和学講談所は、明治元年(1868年)まで、75年間も存続しました。
その後、和楽講談所の事業は明治政府に引き継がれ、
現在は東京大学史料編纂所が担っています。
関係者の努力により「続群書類従」が完成したのは、保己一が亡くなって90年目のことでした。
盲目というハンディを持ちながらも、
抜群の記憶力と強い精神力を武器に、
何事も前向きにとらえ、全力で生きぬいた保己一。
彼の人生は、不思議なほどに素晴らしい出会いと、ご縁に恵まれていますが、
それは、彼の周りにいい人が集まっていたからではなく、
彼と出会った人はみんな、協力や援助の手をさしのべずには、いられなかったのではないでしょうか。
一生懸命に生きる事は、それほど美しいことだったのだと、
あらためて気づかせてくれる存在、それが保己一なのです。
保己一の懸命に生きる姿に心打たれた人たちが、
彼に援助の手を差し伸べる。
すると、保己一はその人たちに心から感謝し、
自分にできる精一杯のことを行ってその人たちに喜んでもらおうと、さらに一生懸命に生きる…。
保己一と周囲の人たちは、
きっと、そんなふうにお互い影響しあって、同じ時代を生きたのだと思います。
最後に、保己一の人柄が偲ばれるエピソードを、2つご紹介します。
ある秋の夜、保己一は、妻のイヨとともに、
虫の音を聞きながら穏やかな時間を過ごしていました。
空に浮かぶのは、中秋の名月。
イヨからその美しさを聞いた保己一は、次の一句を詠みました。
「花ならば さぐりても見ん 今日の月」
これが花ならば、手でその形をさぐって美しさを想像することもできようが、
空に浮かぶ月は、そうもいかない…。
それほど美しい月を、一目見たいものだ。
人前では常に前向きな保己一も、心を許した妻には、切ない心情を伝えていたのですね。
この句を聞いた妻の心には、さまざま思いが溢れたことでしょう。
そして、この美しい今宵の月を、一目でいいから夫に見せたいと願ったのでしょうね。
溢れる想いを、イヨは返歌に託しました。
「十五夜は 座頭の妻の 泣く世かな」
ここでの座頭は視覚障がい者全般のことです。
盲目の大学者・塙保己一を支えた妻の慟哭が聞こえてくるようです。
私は、このような夫婦の深い絆が、あらゆることを受け入れ、困難に立ち向かう勇気を、
保己一に与えたのではないかと思っています。
一方、こちらの、保己一が弟子たちを集め、「源氏物語」を講義した時のことです。
ふいに風が吹いて、ろうそくの火が消えました。
部屋の中は真っ暗です。
保己一は、そうとは知らず講義を続けましたが、弟子たちは大慌て。
その様子を察した保己一は、
「目あきというものは不自由なものじゃ」
と、いたずらっぽく笑ったそうです。
ヘレン・ケラーのお気に入りでもあったという、このエピソードには、
いろいろなことを考えさせられます。
火事で版木の多くを失った時もそうでしたが、
目が見える者たちは、目の前の現象を見て一喜一憂し、
有頂天になったり逆に絶望したり、すぐに平常心を失ってしまいます。
それに対し、幸か不幸か、それを見ることのできない保己一は、
常に自分の心と向き合い、物事の本質を見極めることができました。
だから彼は、どんな困難にもくじけることなく、
またどんな幸運にも驕ることなく、いつの日も冷静でいられたのだと思います。
「群書類従」の編纂は、実に40年の歳月をかけた大事業で、
それを盲目の学者がやり遂げたということに、
大きな驚きと感動があるのですが、
もしかしたら、盲目の保己一だったからこそ、
出来たことなのかもしれません。
そういう意味でも、「群書類従」の編纂というのは、
まさに保己一に与えられた天命だったといえるのではないでしょうか。
どんな環境にあっても、人はみな自分の花を咲かすことができるということ。
その第一歩は、いま自分に与えられた環境を受け容れ、感謝し、ご縁をいただいた人たちを笑顔にするために、
自分にできることを精一杯行うことからはじめるということ。
そうやって自分に与えられた目の前のものに対して心を尽くしていくうちに、
使命感が育まれ天命に気づくのだということ。
資料の編纂に明け暮れた保己一でしたが、
もし自分自身の考えを著作に著すとしたら、
そんなメッセージを私たちに伝えてくれたのかもしれませんね。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
すごい人ですね。(^_^)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます