根岸ノーベル賞⑥
(根岸先生がノーベル賞をとられた研究は、いつ頃なされたものなのですか)
🔹パデュー大学に6年在籍した後、
私は37歳でシラキュース大学の助教授になりました。
自分のグループを持って研究をしたいというのが1番の目的でした。
実際、私のノーベル賞の仕事は全部シラキュース大学に在籍していた7年間のうちにやったものなんですよ。
特にこれはうまいこと展開をしたら、ノーベル賞に繋がるかもしれないという予感があったのは、1976年のことでした。
ちょうどその頃だとと思うのですが、
大学の近くに製薬会社がありまして、
その研究所長さんがお見えになった時に、こんなことをおっしゃったんですよ。
「ノーベル賞に繋がるような素晴らしい仕事をするのは、だいたい40歳くらいまでですね」
って。
その当時、既に私は40歳を回っていたものですから、少し焦りましたね。
人によっては45歳くらいまでは可能があるだろうと思って、一段と研究に打ち込んだものです(笑)。
(根岸先生がノーベル賞を受賞されたのは2010年ですから、研究の芽が出てから、ゆうに30年以上が経過していますね)
🔹2015年にノーベル賞とられた大村智さんとは1980年からのお付き合いなんですが、
もうその頃から、「この方はいずれノーベル賞を取られるだろう」と言われていたんですよ。
それでも実際に受賞されるまでに35年かかりました。
ですから、非常に気の長い話ではあります。
それはブラウン先生もノーベル賞につながる大きな発見をなされたのは1960年のことで、
実際に受賞されたのは1979年、67歳のことでしたから、20年ぐらいは経っていました。
ちなみに私がブラウン先生から呼び戻されてパデュー大学に教授としてきたのが1979年のことで、
私もストックホルムに呼ばれて授賞式に行っているんですよ。
(予行演習になりましたね)
🔹なりました(笑)。
ただ、今話したように受賞するまでに時間はかかりますが、
我々研究者にとってノーベル賞とは1つの大きな目標であっても、
それが研究の最終目標ではありません。
あくまで研究における究極の目標は、
世のため人のためになるようなものを発見することですから、
絶えずその目標に迫っていく。
ですからこれだけ発見したからもういいそれでいい、というのではないと思うんですよ。
(根岸先生はノーベル賞を取れる人と取れない人にはどんな違いがあると思われますか)
🔹それは最高レベルの、本物の研究をやっていこうという、
確かな自覚を持っているかどうかでしょうね。
果たしてそういった人が100人に1人、1000人に1人いるでしょうか。
普通の人には遥か彼方の高みに向かって手を伸ばそうなんてことまで考えられませんから、そこがまさに限点定です。
大きな夢、青雲の志と言ってもいいですが、
それを持つことができれば、そこを軸にして様々な因子が総合されて、より高いところを目指す力になっていく。
そして、その大きな夢に沿って一つ一つ実績を積み重ねていく過程が、
その夢に対する思いをますます強いものにしていくのだと思います。
(根岸先生はその思いで研究を続けてこられたと)
🔹そうですね。
ですから、もうこれでいいかな、なんて思ったことはこれまで1度もありませんし、
常に情熱の炎を燃やさざるを得ないくらい、真剣に研究に打ち込んできました。
(それは現在も変わらない?)
🔹変わりません。
(その意味では、先生は今も青雲の志に生きておられる)
🔹ええ。それが研究に生きる者の道だと思います。
(最後に、ここ数年日本人のノーベル賞受賞者が増えていますが、
これからも日本人がノーベル賞を取るためには何が必要だとお考えでしょうか)
🔹やはり、これまでの努力のパターンを、さらに拡張し格上げすることですね。
1番危険な考え方は、もう日本人が外国に行って勉強する必要なんてないだろうと思うことです。
鎖国主義じゃないですけど、そこに陥ることを私は懸念しています。
何もアメリカだけがよいというわけではありませんが、
青雲の志を持った若者が、世界のしかるべきところを目指して、
これからもどんどん飛び出していってほしいと願っています。
おしまい
(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)
(根岸先生がノーベル賞をとられた研究は、いつ頃なされたものなのですか)
🔹パデュー大学に6年在籍した後、
私は37歳でシラキュース大学の助教授になりました。
自分のグループを持って研究をしたいというのが1番の目的でした。
実際、私のノーベル賞の仕事は全部シラキュース大学に在籍していた7年間のうちにやったものなんですよ。
特にこれはうまいこと展開をしたら、ノーベル賞に繋がるかもしれないという予感があったのは、1976年のことでした。
ちょうどその頃だとと思うのですが、
大学の近くに製薬会社がありまして、
その研究所長さんがお見えになった時に、こんなことをおっしゃったんですよ。
「ノーベル賞に繋がるような素晴らしい仕事をするのは、だいたい40歳くらいまでですね」
って。
その当時、既に私は40歳を回っていたものですから、少し焦りましたね。
人によっては45歳くらいまでは可能があるだろうと思って、一段と研究に打ち込んだものです(笑)。
(根岸先生がノーベル賞を受賞されたのは2010年ですから、研究の芽が出てから、ゆうに30年以上が経過していますね)
🔹2015年にノーベル賞とられた大村智さんとは1980年からのお付き合いなんですが、
もうその頃から、「この方はいずれノーベル賞を取られるだろう」と言われていたんですよ。
それでも実際に受賞されるまでに35年かかりました。
ですから、非常に気の長い話ではあります。
それはブラウン先生もノーベル賞につながる大きな発見をなされたのは1960年のことで、
実際に受賞されたのは1979年、67歳のことでしたから、20年ぐらいは経っていました。
ちなみに私がブラウン先生から呼び戻されてパデュー大学に教授としてきたのが1979年のことで、
私もストックホルムに呼ばれて授賞式に行っているんですよ。
(予行演習になりましたね)
🔹なりました(笑)。
ただ、今話したように受賞するまでに時間はかかりますが、
我々研究者にとってノーベル賞とは1つの大きな目標であっても、
それが研究の最終目標ではありません。
あくまで研究における究極の目標は、
世のため人のためになるようなものを発見することですから、
絶えずその目標に迫っていく。
ですからこれだけ発見したからもういいそれでいい、というのではないと思うんですよ。
(根岸先生はノーベル賞を取れる人と取れない人にはどんな違いがあると思われますか)
🔹それは最高レベルの、本物の研究をやっていこうという、
確かな自覚を持っているかどうかでしょうね。
果たしてそういった人が100人に1人、1000人に1人いるでしょうか。
普通の人には遥か彼方の高みに向かって手を伸ばそうなんてことまで考えられませんから、そこがまさに限点定です。
大きな夢、青雲の志と言ってもいいですが、
それを持つことができれば、そこを軸にして様々な因子が総合されて、より高いところを目指す力になっていく。
そして、その大きな夢に沿って一つ一つ実績を積み重ねていく過程が、
その夢に対する思いをますます強いものにしていくのだと思います。
(根岸先生はその思いで研究を続けてこられたと)
🔹そうですね。
ですから、もうこれでいいかな、なんて思ったことはこれまで1度もありませんし、
常に情熱の炎を燃やさざるを得ないくらい、真剣に研究に打ち込んできました。
(それは現在も変わらない?)
🔹変わりません。
(その意味では、先生は今も青雲の志に生きておられる)
🔹ええ。それが研究に生きる者の道だと思います。
(最後に、ここ数年日本人のノーベル賞受賞者が増えていますが、
これからも日本人がノーベル賞を取るためには何が必要だとお考えでしょうか)
🔹やはり、これまでの努力のパターンを、さらに拡張し格上げすることですね。
1番危険な考え方は、もう日本人が外国に行って勉強する必要なんてないだろうと思うことです。
鎖国主義じゃないですけど、そこに陥ることを私は懸念しています。
何もアメリカだけがよいというわけではありませんが、
青雲の志を持った若者が、世界のしかるべきところを目指して、
これからもどんどん飛び出していってほしいと願っています。
おしまい
(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)
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