すべてを肯定して生きる②
私の施設に入った直後、父と継母は離婚し、父はマンションに1人で暮らすようになりました。
それから1年半後のこと。
ちょうどクリスマスイブの1週間前、養護施設に父から電話がかかってきました。
しかし、長いこと親子の会話をしていないので、どうやって電話に出たらいいのかさえ分からないのです。
ものすごく緊張しながら受話器を握りましたが、
「もしもし」のひと言が言えません。
少し咳払いをすると、父も緊張したいたのか咳払いをし、話し始めました。
「悪かった。
許してもらおうとか、そんなんで電話したんじゃないねん。
ただ、ほんまに悪かったって、それだけ伝えたかったんや」
そういうと電話を切りました。
そして、その1週間後、父はお酒と強力な洗浄剤を一気に飲み自殺を図りました。
連絡を受け急いで病院に駆けつけるも、そこにいたのは私の知ってる父ではありませんでした。
ガリガリにやせ細り、全身管だらけ。
それから八ヶ月は生きましたが、42歳で最期を迎えました。
「何やってんねん。
ちゃんと名誉挽回して、あたしらに罪償いしてから死ななあかんやろ」
私は無責任にな父に腹が立って仕方ありませんでした。
一方、継母は父と離婚後、実の息子と2人で生活していました。
私は義弟が大好きで、何度か会いに行っていたため、その後も交流がありました。
ところが、義弟が結婚し家を出ると、継母の生活は再び荒れ、
お酒やパチンコに夢中になり、私や義弟に何度もお金を無心するようになったのです。
ある時、お酒を飲んでいた兄が許しを乞うてきたことがあります。
私は、
「過去のことは水に流して、若いんだから頑張らんと」
と元気づけましたが、暴力や虐待というのは、やられたほうよりも、やったほうが心に残り続けるのでしょう。
結局、継母は52歳で自宅の一室で孤独死していました。
私が37歳の時でした。
話は戻りますが、私が中学を卒業すると、全寮制食品工場に正社員として雇っていただき、社会人生活をスタートしました。
22歳で結婚し、4年間で3人の子供を授かりました。
1番下の長男はアスペルガー症候群という自閉症を抱え、小学校高学年頃まで、
いったんパニックになると手がつけられず、落ち着くまでに2時間はかかるような状態が続きました。
そんな中、主人の両親が要介護になり、主人の実家で暮らすことになったのです。
お舅は87歳で重度のアルツハイマー性。
日に何度も家を抜け出して迷子になり、迎えに行かなければなりませんでした。
80歳のお姑は腰を悪くして車椅子生活。
手術後の後遺症で自分で排尿できないので、私が毎回導尿しなければなりません。
しかし、口は達者で思ったことをすべて喋るため、介護生活は非常に大変でした。
みんなの朝食作りから1日が始まり、息子の送り迎えや家事をしながら2人の介護もする。
ストレスが溜まるばかりで、次第に私の顔から笑顔が消えていきました。
その頃、私は重度の「くれない病」に罹っていたのだと思います。
子供が言うことを聞いてくれない。
旦那は手伝ってくれない。
誰も分かってくれない。
本当はそんなことないのに、悲観的になると、すべてがマイナスになってしまうのです。
そして、くれない病の1番恐ろしいところは、感謝力が低下してしまうことです。
以前であれば素直に「ありがとう」と言っていたことでさえ、感謝できなくなってしまいました。
そんな状態の私に畳みかけるように災難は続きました。
いつものように徘徊していた舅がお昼過ぎに警察に発見されたので、
私は慌てて迎えに行きましたが、手続きに手間がかかり、
息子の迎えの時間に少し遅れてしまったのです。
息子は授業が終わり、玄関に降りてきたときに私がいないと大パニックを起こしてしまいますが、
その時も同様で、帰宅後も暴れ続けました。
加えて、その日は朝の洗い物も流しに山積みで、2回目の洗濯機は回したまま。
買い出しに行けてないのにもう夕方で、
私も精神的に参ってしまいました。
そこに、息子の喚き声に対して我慢の限界に達したお姑の一言です。
「いい加減にしろ! この子の口をどうにかせい!」
その瞬間、私の何かが壊れました。
泣き叫ぶ息子の鼻と口を押さえてしまったのです。
静かにして! という一心で、別に殺そうと思ったわけではありません。
でも、その時の息子は殺人犯でも見るような顔をしていました。
私はハッと我に返り、すぐに手を離しましたが、
もう耐えられませんでした。
夕食をつくらなければいけない時刻でしたが、
寝室に行き、布団を被って大声を出して泣きました。
泣けるだけ泣いて武長ないで、十分ほど泣き寝入りをしてしまったのだと思います。
気がつくと、長女が起こしにきてくれました。
本当は家から出て行ってしまいたい気持ちでしたが、
要介護の義父母と息子を置いて逃げるわけにもいかない。
そう思い、リビングに戻って私が真っ先にしたことは、
テーブルの下に隠れて震えていた息子を抱きかかえて、心から
「ごめんね」
と伝えることでした。
謝るという行為がどれほど威力を持っているのか、この時ほど痛感したことありません。
「ごめん」という一言に、息子よりも私自身がホッとしました。
もしこの一言が言えず、
「何か文句あるんか!」
と言ってしまっていたら、今の私はいないでしょう。
その時に学びました。
人は誰でも感情のコントロールが制御不能になり、
加害者になる可能性を持っているということを。
そこで本当に大事なのは、
心から謝罪して、許してもらうことです。
父や継母は、「ごめん」という、たった一言が言えず、
散々モノに当たり、
私たち子供にあたり、
そして最後は、自分に当たり散らして生涯を終えてしまいました。
人間ですからイライラすることもあります。
しんどくなる時もあります。
人に当たりたくなってしまうこともあるでしょう。
そんな時、これは神様が自分に何かを気づかせるために用意した出来事だと思い、
自分の感情を受けることが大事なのです。
2010年に私が児童虐待防止活動を始めたきっかけは、
いつでも心の支えだった小兄が白血病を患い、2年間の闘病の末に40歳で亡くなったことでした。
小兄は喋れる間に遺言をいっぱい残しました。
中でも、もし病気が治ったら、ボランティアでもいいから虐待に関する活動がしたいとの願いは特に覚えています。
入院中にテレビを見る度に、こんなにも豊かな時代に、親が子、子が親を殺す事件が後を絶たないことに心を痛めていたというのです。
小兄は思いを伝えきると、1週間後に亡くなりました。
私は号泣もできず、魂が抜けたような状態でしたが、小兄の
「虐待に関わる活動がしたい」
という思いが、私を立ち直らせ、亡骸に向かって「私がやるよ」と宣言していました。
私自身が親になり誰もが加害者になってしまう恐ろしさに気づかされたこともあって、
虐待までは至らなくても、日常のささいなイライラを軽減させたり、
感情をコントロールするお手伝いができないか。
そうした思いを基に、冒頭で紹介したアンガマネジメントの資格を始め、
様々な勉強して、講演活動を開始しました。
過去に起こった出来事は変えられませんが、
自分が今この活動するために起こったと思うと、辛い過去も財産になるでしょう。
虐待を生き抜いた私だから伝えられることを、全国を回ってお話ししています。
「何でそんなに明るいのですか」
と最近よく聞かれます。
過去の自分のよかったことを1つだけ挙げるとすれば、
立ち上がる力があったことだと思います。
私は自分のことをタンポポだと思っていますが、
踏まれて踏まれて、落ち込んだとしても、
何度でも立ち上がる。
人生には嫌なこと、悲しいこと、
腹が立つことなど、いくらでもあります。
その度に凹んでいてはダメ。
1番悲しい思いをしても、立ち上がる。
なにくそと自分を奮い立たせる。
その連続が人生です。
私は中卒ですから「学」はありません。
しかし、自信があります。
生きてきたという自信です。
よい学校に行くことだけが幸せではなく、
お天道様に堂々と胸を張って生きられることが1番幸せな人生だと思っています。
ですから私はいま最高に幸せです。
死ぬまでに、こんなにも生きている実感や、役に立つっているという感動を得られる仕事ができている人は、そう多くはないと思います。
私は父や継母、小兄など多くの人の死に直面し、
自分自身も死にそうになりながらも、いま生きています。
この二度とない人生、
天から与えられた命を大切にし過ぎて挑戦しない生き方は、もったいないと思います。
私は「命を使う」と表現していますが、
いつ死ぬかは誰にもわからない中で、自分の命を使って仕事する。
私の場合、自分の体験談をお話しすることで1人でも多くの人を笑顔にしようと活動してきました。
講演会の僅か1時間の出逢いでも、
「生きていく元気をもらえました」
「きょうから変わります」
といった感想を、毎回寄せていただいています。
それを読む度に、私は本当に使命を果たしながら生かされているのだと感謝の念が溢れ出てくるのです。
過去や現在に、どんなに辛いことがあったとしても、
未来には素晴らしい世界が広がっていることを、1人でも多くの方にお伝えしたい。
そのためにも、天が私に与えてくれた材を生かして、
自分の使命を果たし切りたいと思います。
(おわり)
(「致知」3月号 島田妙子さんより)
私の施設に入った直後、父と継母は離婚し、父はマンションに1人で暮らすようになりました。
それから1年半後のこと。
ちょうどクリスマスイブの1週間前、養護施設に父から電話がかかってきました。
しかし、長いこと親子の会話をしていないので、どうやって電話に出たらいいのかさえ分からないのです。
ものすごく緊張しながら受話器を握りましたが、
「もしもし」のひと言が言えません。
少し咳払いをすると、父も緊張したいたのか咳払いをし、話し始めました。
「悪かった。
許してもらおうとか、そんなんで電話したんじゃないねん。
ただ、ほんまに悪かったって、それだけ伝えたかったんや」
そういうと電話を切りました。
そして、その1週間後、父はお酒と強力な洗浄剤を一気に飲み自殺を図りました。
連絡を受け急いで病院に駆けつけるも、そこにいたのは私の知ってる父ではありませんでした。
ガリガリにやせ細り、全身管だらけ。
それから八ヶ月は生きましたが、42歳で最期を迎えました。
「何やってんねん。
ちゃんと名誉挽回して、あたしらに罪償いしてから死ななあかんやろ」
私は無責任にな父に腹が立って仕方ありませんでした。
一方、継母は父と離婚後、実の息子と2人で生活していました。
私は義弟が大好きで、何度か会いに行っていたため、その後も交流がありました。
ところが、義弟が結婚し家を出ると、継母の生活は再び荒れ、
お酒やパチンコに夢中になり、私や義弟に何度もお金を無心するようになったのです。
ある時、お酒を飲んでいた兄が許しを乞うてきたことがあります。
私は、
「過去のことは水に流して、若いんだから頑張らんと」
と元気づけましたが、暴力や虐待というのは、やられたほうよりも、やったほうが心に残り続けるのでしょう。
結局、継母は52歳で自宅の一室で孤独死していました。
私が37歳の時でした。
話は戻りますが、私が中学を卒業すると、全寮制食品工場に正社員として雇っていただき、社会人生活をスタートしました。
22歳で結婚し、4年間で3人の子供を授かりました。
1番下の長男はアスペルガー症候群という自閉症を抱え、小学校高学年頃まで、
いったんパニックになると手がつけられず、落ち着くまでに2時間はかかるような状態が続きました。
そんな中、主人の両親が要介護になり、主人の実家で暮らすことになったのです。
お舅は87歳で重度のアルツハイマー性。
日に何度も家を抜け出して迷子になり、迎えに行かなければなりませんでした。
80歳のお姑は腰を悪くして車椅子生活。
手術後の後遺症で自分で排尿できないので、私が毎回導尿しなければなりません。
しかし、口は達者で思ったことをすべて喋るため、介護生活は非常に大変でした。
みんなの朝食作りから1日が始まり、息子の送り迎えや家事をしながら2人の介護もする。
ストレスが溜まるばかりで、次第に私の顔から笑顔が消えていきました。
その頃、私は重度の「くれない病」に罹っていたのだと思います。
子供が言うことを聞いてくれない。
旦那は手伝ってくれない。
誰も分かってくれない。
本当はそんなことないのに、悲観的になると、すべてがマイナスになってしまうのです。
そして、くれない病の1番恐ろしいところは、感謝力が低下してしまうことです。
以前であれば素直に「ありがとう」と言っていたことでさえ、感謝できなくなってしまいました。
そんな状態の私に畳みかけるように災難は続きました。
いつものように徘徊していた舅がお昼過ぎに警察に発見されたので、
私は慌てて迎えに行きましたが、手続きに手間がかかり、
息子の迎えの時間に少し遅れてしまったのです。
息子は授業が終わり、玄関に降りてきたときに私がいないと大パニックを起こしてしまいますが、
その時も同様で、帰宅後も暴れ続けました。
加えて、その日は朝の洗い物も流しに山積みで、2回目の洗濯機は回したまま。
買い出しに行けてないのにもう夕方で、
私も精神的に参ってしまいました。
そこに、息子の喚き声に対して我慢の限界に達したお姑の一言です。
「いい加減にしろ! この子の口をどうにかせい!」
その瞬間、私の何かが壊れました。
泣き叫ぶ息子の鼻と口を押さえてしまったのです。
静かにして! という一心で、別に殺そうと思ったわけではありません。
でも、その時の息子は殺人犯でも見るような顔をしていました。
私はハッと我に返り、すぐに手を離しましたが、
もう耐えられませんでした。
夕食をつくらなければいけない時刻でしたが、
寝室に行き、布団を被って大声を出して泣きました。
泣けるだけ泣いて武長ないで、十分ほど泣き寝入りをしてしまったのだと思います。
気がつくと、長女が起こしにきてくれました。
本当は家から出て行ってしまいたい気持ちでしたが、
要介護の義父母と息子を置いて逃げるわけにもいかない。
そう思い、リビングに戻って私が真っ先にしたことは、
テーブルの下に隠れて震えていた息子を抱きかかえて、心から
「ごめんね」
と伝えることでした。
謝るという行為がどれほど威力を持っているのか、この時ほど痛感したことありません。
「ごめん」という一言に、息子よりも私自身がホッとしました。
もしこの一言が言えず、
「何か文句あるんか!」
と言ってしまっていたら、今の私はいないでしょう。
その時に学びました。
人は誰でも感情のコントロールが制御不能になり、
加害者になる可能性を持っているということを。
そこで本当に大事なのは、
心から謝罪して、許してもらうことです。
父や継母は、「ごめん」という、たった一言が言えず、
散々モノに当たり、
私たち子供にあたり、
そして最後は、自分に当たり散らして生涯を終えてしまいました。
人間ですからイライラすることもあります。
しんどくなる時もあります。
人に当たりたくなってしまうこともあるでしょう。
そんな時、これは神様が自分に何かを気づかせるために用意した出来事だと思い、
自分の感情を受けることが大事なのです。
2010年に私が児童虐待防止活動を始めたきっかけは、
いつでも心の支えだった小兄が白血病を患い、2年間の闘病の末に40歳で亡くなったことでした。
小兄は喋れる間に遺言をいっぱい残しました。
中でも、もし病気が治ったら、ボランティアでもいいから虐待に関する活動がしたいとの願いは特に覚えています。
入院中にテレビを見る度に、こんなにも豊かな時代に、親が子、子が親を殺す事件が後を絶たないことに心を痛めていたというのです。
小兄は思いを伝えきると、1週間後に亡くなりました。
私は号泣もできず、魂が抜けたような状態でしたが、小兄の
「虐待に関わる活動がしたい」
という思いが、私を立ち直らせ、亡骸に向かって「私がやるよ」と宣言していました。
私自身が親になり誰もが加害者になってしまう恐ろしさに気づかされたこともあって、
虐待までは至らなくても、日常のささいなイライラを軽減させたり、
感情をコントロールするお手伝いができないか。
そうした思いを基に、冒頭で紹介したアンガマネジメントの資格を始め、
様々な勉強して、講演活動を開始しました。
過去に起こった出来事は変えられませんが、
自分が今この活動するために起こったと思うと、辛い過去も財産になるでしょう。
虐待を生き抜いた私だから伝えられることを、全国を回ってお話ししています。
「何でそんなに明るいのですか」
と最近よく聞かれます。
過去の自分のよかったことを1つだけ挙げるとすれば、
立ち上がる力があったことだと思います。
私は自分のことをタンポポだと思っていますが、
踏まれて踏まれて、落ち込んだとしても、
何度でも立ち上がる。
人生には嫌なこと、悲しいこと、
腹が立つことなど、いくらでもあります。
その度に凹んでいてはダメ。
1番悲しい思いをしても、立ち上がる。
なにくそと自分を奮い立たせる。
その連続が人生です。
私は中卒ですから「学」はありません。
しかし、自信があります。
生きてきたという自信です。
よい学校に行くことだけが幸せではなく、
お天道様に堂々と胸を張って生きられることが1番幸せな人生だと思っています。
ですから私はいま最高に幸せです。
死ぬまでに、こんなにも生きている実感や、役に立つっているという感動を得られる仕事ができている人は、そう多くはないと思います。
私は父や継母、小兄など多くの人の死に直面し、
自分自身も死にそうになりながらも、いま生きています。
この二度とない人生、
天から与えられた命を大切にし過ぎて挑戦しない生き方は、もったいないと思います。
私は「命を使う」と表現していますが、
いつ死ぬかは誰にもわからない中で、自分の命を使って仕事する。
私の場合、自分の体験談をお話しすることで1人でも多くの人を笑顔にしようと活動してきました。
講演会の僅か1時間の出逢いでも、
「生きていく元気をもらえました」
「きょうから変わります」
といった感想を、毎回寄せていただいています。
それを読む度に、私は本当に使命を果たしながら生かされているのだと感謝の念が溢れ出てくるのです。
過去や現在に、どんなに辛いことがあったとしても、
未来には素晴らしい世界が広がっていることを、1人でも多くの方にお伝えしたい。
そのためにも、天が私に与えてくれた材を生かして、
自分の使命を果たし切りたいと思います。
(おわり)
(「致知」3月号 島田妙子さんより)
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