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「しがらみ」を「つながり」に

2016-01-11 15:17:18 | 
「しがらみ」を「つながり」に


「自由意志と自己責任の法則」というものがあります。

人には自由意志があり、それに伴い行動する。

これは、だれにでも当てはまる。

家族や子供、兄弟姉妹でも同じ。

人の行動を妨げてはいけない。

自由にさせる。

その方が成長が早い!

(赤ちゃんみたいに自分の意志がまだないのは別)


それに対しての結果は、それぞれの自己が責任をとる。

誰の責任にもできない。


これを教える。
教えたい。

すると、

争いは起きないし、魂はどんどん成長する。


基本、
「他人は変えられない。
変えられるのは自分だけ」

ということ。

これを、深くわかってくると、ほんとうに、幸せな世界が待ってます。

責任は、全部自分ですから、
他人を責めることがなくなり、
自ら成長することに力を注ぐ。

これが、ほんらいの在り方です。


では、
過去のしがらみは、どうするか?

それは、

今から!、たった今から!

気にしないこと。(≧∇≦)

そして、何かしてもらったら、
「ありがとう」
でいい。

また、何かしたくなったら、

したいときに、してあげる。

自分の心に正直に。


すると、

「しがらみ」が「つながり」に変わる。


とにかく、やってみなよ。

これで、全部うまくいくから。


「今からの思考が、これからの現実をつくる」

です。


だから、過去は気にしない。

気にしなくていい。

これが大事。


前を向き、
これからの行動をぜんぶ自己責任としてとらえ、
自由に道を選ぶ。

そうすることが、あなたを最大限に輝かせる方法なんです。

これが全宇宙で通用する法則なんですよ。(^_^)


(これやってみて、いいことあったら、教えてくださいね)

道徳秩序

2016-01-10 15:38:40 | 
「道徳秩序」


1つの「道徳的世界秩序」が厳存し、その下に個人はもとより、

およそ人間生活の営み全体が従属しているという事実は、

我々が明らかに知りうることである。

なぜなら、

これは直接経験に基づくことであって、

この秩序に反して行動すれば、

だれでもそれを経験することができるし、

また必ず経験するであろうから。

このような道徳的世界管理のくわしい仕組みについて

われわれは何も知らないし、

また知るべきでもない。

これについて教えたり書かれたりした事は、すべて空想に基づくものである。

同様にまた、

この世界管理についてもっぱら信頼すべき伝達をなしうる地上の代理者が任ぜられたこともない。

むしろ個々の魂がそれぞれできる限り、

また必要なだけ、

このことについて自主的に知りうるのでなければならない。

これこそ、

すべての宗教的権威に対抗する、われわれの近代思想の核心である。

現実の道徳的世界秩序に関するこのような思想によって、

国家や法律ばかりでなく、

家族やその他あらゆる種類の社会的集団が浸透されて、

絶えず自然のままの結びつきから、

神の霊によって満たされた結合に改変されることだけが、

現在における「神の国」実現の道である。

もちろん

これもひとえに神のみこころによることであって、

そのほかの道ではもはや不可能である。

これはまた、

いわゆる「民主主義の理想化」への唯一の道でもある。

そしてこのような民主主義こそ、

現代における正しい「国家の理想」である。

なぜなら、

神は、みずからの意志が、

地上において人間の自由な意思に基づき、

できるかぎり広く

すべての人々によって

均等かつ同権的に、行われることを欲し給うからである。


(「幸福論」ヒルティより)


みずからが、求めることにより、その道を知る。

そのことを、自身で確信しながら、成長してゆく。

それが、最も幸福な道。

「オランダと日本」②

2016-01-08 16:56:42 | 物語
「オランダと日本」②


さて、日本とオランダの関係を俯瞰したとき、最初の340年は概ね良好だった。

しかし、

1942年、太平洋戦争で旧日本軍がインドネシアに侵攻したことで、
約350年続いたオランダの植民地支配に終止符が打たれた。

そのため

天然資源やコーヒー・茶の栽培で潤っていたオランダは、
自国の36倍もある領土を失って九州ほどの小国に転じてしまった。

しかも、

旧日本軍に敗れたことで、オランダ軍人4万人と民間人9万人が不衛生な抑留所に収容されてしまった。

元はといえば、その抑留所はオランダ人が現地人のために建てた粗末な宿舎だったのではあるが。

しかし民間人が強制労働させられたり、
オランダ人女性が慰安婦にされた思い出がオランダ人の記憶からぬぐいされなかった。

事実、
1971年に昭和天皇がオランダを訪問した折り、
市民から車に生卵を投げつけられるなどの手荒な歓迎を受けたこともあった。

また、
86年にはオランダ国民の反発でベアトリクス女王の訪日が見送られたり、

91年に海部首相がオランダを訪問した際に
戦没者慰霊碑に献花した花束が池に投げ捨てられるといった事件が起こり、

オランダ人の怒りはいつまでも静まりそうになかった。


そんな人々が変わったのは、

2000年にベアトリクス女王に招かれて
天皇皇后両陛下がオランダを訪問したときのことだ。

王宮前のダム広場に建つ戦没者記念式の前で献花した天皇皇后両陛下は、
真摯な面持ちで黙祷を捧げた。

静寂の中で身じろぎもせず、1分間にもわたってずっと立ち尽くした。

そのニュースを見て、胸を熱くし涙を浮かべたオランダ人は少なくなかったと言う。

ビクトリア女王もそのひとりだった。

その夜、アムステルダムの王宮で表敬晩餐会が催された。

ここには大戦中インドネシアで旧日本軍から抑留された経験を持つ8人のオランダ人も、女王から直接招待されていた。

その中には17歳のときに3年半抑留生活を強いられた、P.J.Hヨンクマン氏の姿もあった。

氏は在英オランダ大使を退任後、
デンハーグにある国際司法裁判所において常設調停裁判所の事務次官や、
ビクトリア女王の枢密院顧問をしていたこともある。

当初からビクトリア女王は天皇皇后両陛下にかつての抑留者を引き合わせようとしたが、

日本の外務省は慎重だった。

もし会見の場で事件が起こってはと心配するのは、むしろ当然のことだった。

だが、元抑留者の人物をよく知る女王はその心配はないこた、

また彼らとの面会を望まれるだろうと確信した女王は、

この件で天皇皇后両陛下に直接お話しされた。

そして女王は、まっ先に両陛下を広い晩餐会場の8人のグループのもとに案内した。

熱心に耳を傾ける姿を間近にし、

ヨンクマン氏は

「天皇皇后両陛下は、私たちが得てして想像しがちな、近づきがたい君主と言うようには全然お見受けいたしませんでした。

それどころか、

彼らは戦時中に

インドネシアで何がオランダ人に起こったかという事を

よくご存知であられるばかりでなく、

そのことについて自由にお話しされました」

と綴っている。

さらにヨンクマン氏が驚いたのは、

皇后陛下はまったくご自分の意思で自由に抑留者全員の中に入って話したうえ、

戦時中の辛い経験を話す女性の手を長い間ずっと優しく握って

慰めの言葉をかけたことだった。

ヨンクマン氏は

「このようにして陛下はこの公式訪問によりインドネシアからの帰国者グループ内にある多くの批判をお和らげくださいました」

と述べている。

その翌日、
天皇皇后両陛下はアムステルダムの児童養護学校「ミチルスクール」を訪問。

ここでおふたりは脳障害や筋ジストロフィーなどの障害のある200人ほどの子供たちのお出迎えを受け、なごやかな時を過ごした。

この中にひとり金色の王冠をかぶった女の子が机に伏せたまま眠っていた。

この日の出会いを楽しみにするあまり、はしゃぎすぎて疲れて眠り込んでしまったのだった。

女の子に気づいた皇后陛下はあえて起こすのも気の毒だと気遣い、そのまま立ち去った。

まもなくハッと目を覚ました女の子は、
すべてが終わってしまったことがわかると泣きながら
後を追って走ってきた。

すると、身をかがめてしっかりと胸で抱きとめられた皇后陛下に、女の子は無心でしがみついた。

このニュースと写真が大々的に報じられると、

オランダ人の心はようやく氷解し、
ネガティブな批判がピタリとやんだ。

「皇室は1,000人の外交官に匹敵する」と言われるが、

皇室を尊敬する伝統があるこの国では皇室外交がオランダ人の心をとらえたのだった。


その2年後の2002年に外務省がオランダ人の624人を対象にした対日世論調査では、

75%が日本を「豊かな伝統・文化を持つ国」と称し讃え、

89%までが日本人を「勤勉」と評価するまでになった。

また、2005年の米国「ピュー・リサーチセンター」の調査では、

68%もオランダ人が日本にポジティブな印象をもっていることがわかった。

事実、
東日本大震災後にオランダのビッディングハイゼンで開催された国内最大のイベントでは、

5万人の参加者が

「私たちはあなたがた、日本を愛しています(We love you.Japan!」

「私たちはあなたのために祈っています(We pray for you.)」

という赤と白のポスターを手に、

ハートの人文字(マーク)をつくって激励してくれたのだった。


(「日本人になりヨーロッパ人」片野優 須貝典子著より)


戦後のシベリア抑留や、たくさんの領国を取られたことなど、

戦争時代、日本も他国に同じようなことをしていたのですね。

それでは、うらみも残りますね。
知らないって無責任でいやですね。

少しでも、事実を知って謙虚に。

反省すべきことは、反省したいですね。


そして、いつの時代でも、

愛が、うらみを溶かし、すべてを赦すのですね。

「オランダと日本」①

2016-01-07 16:33:43 | 物語
「オランダと日本」


かつてオランダは日本に最も近い国だった。

何しろ鎖国中の200年間、お隣の中国は別として、お付き合いしていた唯一の外国だったのだから。

オルゴール、カバン、ランドセル、ビール、コーヒー、ポン酢から、はては、おてんば(「負けん気の強い」の意味)やアスベストまで、

普段日本語として使っている言葉の中には、実はオランダ語から借用した言葉が少なくない。

そもそもオランダ人(当時の呼び名では紅毛人)が日本に最初にやってきたのは、今から400年以上も前の慶長5年(1600年)のこと。

商船「フリーデ」号が豊後(大分県)の臼杵に漂着したのを始まりとする。

当初112人いた乗組員は、その時に14人になっていた。

ここにはイギリス人のウィリアム・アダム(三浦按針)とともに、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)がいた。

徳川家康に気にいられたこの2人は、帰国したくても返してもらえず日本に居つくことになった。

通訳や外交顧問として朱印船貿易に活躍したヤン・ヨーステンは、日本人女性と結婚し、今の八重洲あたりに屋敷を構えていた。

八重洲はヤン・ヨーステンの名前が訛って、
「やようす(耶揚子)」
→「やよす(八代洲)」
→「やえす(八重洲)」
に変化したものといわれる。

その後、キリスト教の布教を行ったポルトガル人は出島から追い出され、

代わりに布教はせずに商売一筋を誓ったオランダ人が平戸からここに移って商館を構えた。

オランダ人は日本の貿易を独占したものの、アムステルダム中心部にあるダム広場ほどの狭い人工の島に押し込められてしまった。

オランダ人には、出島に出入りを許されていた丸山遊女との逢瀬や、将軍に目通りするために江戸に上がる「江戸参府」くらいしか楽しみはなかった。

ちなみに、将軍家の献上品には望遠鏡・地球儀・シャンデリアなどのほか、ラクダやシマウマといった珍しい動物まであったと言うから、さぞかし将軍は目を丸くしたことだろう。

しかし江戸時代末期になるとオランダは力を失い、変わってイギリスとアメリカが制海権を握る。

そういいながらも嘉永6年(1853年)、黒船に乗って浦賀にやってきたぺリーは英語ではなくオランダ語の通訳を介して日本に開国を迫ったという。

一方、巻き返しを図りたいオランダ国王は、幕府から艦船の受注を見込んで軍船「スンビン」号(観光丸と改名)を将軍に献上。

この船を使って砲術、航海術、造船技術を教える海軍伝習場が長崎にできると、後に江戸無血開場に貢献した勝海舟が教頭に収まった。

次に幕府がオランダに発注した「ヤパン」号(咸臨丸と改名)を指揮し、勝海舟はアメリカに渡ったのだった。

そのほか、オランダは日本に治水・灌漑技術も提供してくれた。

国土の4分の1が海抜0メートル以下にあるこの国は、
「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」
と自負するように、

古くから海水をくみ出したりする水に関する技術に長けていた。

この時期、オランダから12人の土木技術者が来日しているが、
そのうち、デ・レイケは木曽三川に堤防を築いたり護岸工事を施して、住民を洪水から守ってくれたことで知られる。

また、ファン・ドールンは雨が降らない不毛な福島県安積原野に猪苗代湖から水を引いて灌漑用水路(安積疎水)を作ったことで、

やがて、この一帯は日本有数の米の産地となった。

その功績が称えられ、猪苗代湖畔に彼の銅像が建てられた。

銅像は第二次世界大戦中の金属回収令で徴収されそうになるが、
恩を忘れる地元住民の反対で守られたという逸話がある。


(つづく)