大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録第21章1~16節「別れの先にあるもの」

2021-03-07 16:07:21 | エフェソの信徒への手紙

2021年3月7日大阪東教会主日礼拝説教「別れの先にあるもの 」吉浦玲子 

【聖書】 

 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。 

わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 

 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」 

 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 

 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。【説教】 

<別れ> 

 3月になりました。最近は9月入学や入社も増えていますが、まだまだ日本では学校の進級進学の区切りは多くの場合、3月となっています。ですから、3月というのは、卒業の季節であり、別れの季節でもあります。様々な別れが私たちの人生にはあります。お互いに生きているならば、多くの場合、再会の希望はありますが、二度と会えない別れもあります。そしてそれが再び会えない別れとは知らず別れる別れもあります。 

 今週は東北の大震災から10年目となります。10年前のあの日もおびただしい人々が、別れの言葉すら交わすことなく、突然の別れを迎えました。牧師として葬儀を司式します時、ヨブ記の中の言葉であります「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」という聖句を必ず式辞や祈りの中で語ります。神はたしかに私たちにすべてを与え、そして奪われます。しかし、現実に思いもかけぬ別れを体験する時、それが神のなさることだとは言っても、耐えがたく、残酷に感じます。まさに神は私たちの大事なものを奪われ、心の一部分までも奪われるように感じます。しかし一方、キリスト者は、この地上で別れても天でふたたび会うことができる、そのことを希望として持っています。それは絶対的な慰めであり、希望です。その希望を持ちながらも、やはり耐え難い別れというものはあり、奪われる悲しみはあります。 

 今日の聖書箇所はパウロがエルサレムへ向かう途上のことが書かれています。「わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した」とあります。パウロたちはミレトスでエフェソの教会の人々と別れて船出したのです。ここで「別れを告げて」と訳されている言葉は「引き離されて」あるいは「引き裂かれて」ともいえる強い言葉です。聖霊に示されパウロが御心と信じ、決断した歩みでありながら、パウロにもエフェソの人々にも、心の糸が引きちぎられるような悲しみがあったのです。 

 昔、広島にある修道院に泊りがけで黙想に行ったことがあります。その修道院の裏手にひっそりと墓地がありました。幼稚園の園庭くらいの広さの墓地には、いろんな国からやってきた修道士たちの墓がありました。スペイン、イタリア、アルゼンチン等々、皆、聖霊に導かれてはるか東の果ての小さな島国にやってきて、キリストに仕え、広島の地で生涯を終えた人々でした。彼らにも故国郷に家族があり、友がいたでしょう。当時私は、まだ献身ということは全く考えていなかったのですが、遠い国から愛する人たちとのつながりをすべて断ち切って、遠い国にやって来た人々の墓を見ながら胸に迫るものがありました。また三年前のことですが、急にある集会での奨励を頼まれました。もともと奨励を為さる予定だったカトリックの司祭さんが突然、天に召されたので、私が代役を依頼されたのです。召された司祭さんは、私は直接存じ上げない方でしたが、アフリカのケニアの出身で、その方の葬儀に親族の方々が日本に来るのにたいへん時間がかかり、一週間以上のちに葬儀が営まれたと聞きました。いくら交通が便利になったといっても、現代でも、何かあっても、すぐには駆けつけることのできない距離に離れていたご家族の心をつくづく思いました。自然災害のように意図せずに関係を奪われる別れであっても、覚悟の上の別れであっても、そこに痛みはあります。 

 しかしまた、生きていくということ、神の御心に従って生きていくということは、人との別れ―奪われること―にまさる神の恵みに生きていくということでもあります。別れの痛みを神によって越えさせていただき、新しい歩みを始めるということです。パウロもエフェソの人々も、神によって引き裂かれた思いの中で、また神によって新しく歩み始めたのです。 

<どちらが正しいのか> 

 その後、パウロは、ティルスで、そしてまたカイサリアでも、人びとに別れを告げました。そしてまたいずれの町においてもパウロは、人びとにエルサレムへ行くことをやめるようにと乞われます。ここで注意したいのは、パウロをエルサレムへ行かないようにと引き留めている人々は、けっして人間的な感情で引き留めているわけではないということです。ティルスでは「彼らは”霊”に動かされ、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」とあります。またカイサリアにおいても、預言することのできるアガボという人が聖霊のお告げとしてパウロがエルサレムで逮捕されることを語ります。このアガポという人は使徒言行録の11章にも出てきた人で、大飢饉を預言した人です。そしてまたカイサリアで、パウロが滞在していて、アガボが訪ねて来たのは、フィリポの家でした。「例の七人」と書かれているのは、フィリポは使徒言行録6章に描かれている、選ばれた7人の執事のうちの一人だったことを示しています。そして使徒言行録8章にはのフィリポが、エチオピアの宦官を救いに導いたと記されていました。さらに、この使徒言行録の著者であるルカ自身も、今日の聖書箇所の14節で「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので」と書いています。つまり<わたしたち>、つまり著者であるルカも含めたパウロの同行者が、この時点でパウロのエルサレム行きに反対をしていたことが分かります。こういうことを総合しますと、カイサリアでパウロを引き留めた人々はけっして、人間的な情でパウロを引き留めたのではなく、むしろ信仰的な思いで引き留めたのです。 

 しかし、一方で、パウロ自身も、聖霊によって導かれてエルサレムに行こうとしていました。20章で「わたしは、”霊”に導かれてエルサレムに行きます」と語っているとおりです。そしてまた、パウロ自身も、エルサレムで投獄と苦難が待ち受けていることを聖霊によって知らされていたのです。エルサレムに行こうとするパウロと、パウロを引き留めようとする人々に双方に対して、聖霊なる神は、エルサレムでパウロが逮捕される、苦難に遭うという、同じ内容を示しているのです。それぞれに聖霊に聞き、聖霊に促されて語っているのです。大筋において同じことを聞きながら、パウロは行くといい、ティルスやカイサリアの人々、そしてルカたちは行くなと言っているのです。皆がそれが御心だと思って言っているのです。それぞれに御心と思ってはいたけれど、パウロもしくはパウロ以外の人々のどちらかが間違っているのでしょうか? 

 これからのちのキリスト教の歴史を知っている私たちは、エルサレムに行ったパウロはそれを契機として、ローマに行くことになりました。さきほどルカがパウロのエルサレム行きを反対していたと申しましたが、ルカの反対の理由は、おそらくパウロ自身がローマを目指していたことを知っていたからです。パウロがローマに行く前に逮捕されたり、殺されたりしてはいけない、そうルカは考えて反対していたと思われます。しかし、結果的にパウロはローマに行きました。2000年後の私たちは、そのことがキリスト教にとって大きなことであったことを知っています。ですから、エルサレムに行くと言ったパウロこそが御心を為したのであって、エルサレム行きを止めようとした人々はルカを含めて、御心を見誤っていたと考えてしまうところがあるかもしれません。 

 しかし、そうとは単純に決めつけられないのでしょう。やはり、どちらが正しいとも言いきれない、ぎりぎりの判断というものがあるのではないかと思います。実際、パウロ自身も、動揺していたことが分かります。13節に「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか」とパウロは言っています。「心をくじく」と訳されている言葉は「心を砕く」「心を粉々にする」という言葉です。英語でbreaking heart、あるいはcrash heartとなります。パウロは人々が何と言おうと、100%の自信をもって揺るぎなくエルサレムに行くと宣言したのではなく、御心を求めながら、心が散り散りになるような思いだったのです。 

 私たちの日々には、すっきりと行く手を示される時もあれば、悩みつつぎりぎりの判断をするときもあります。そしてまた自分の判断のために、多くの人々を悲しませ、パウロのように人々を悲しませながらも進む時もあります。そしてまた、あとから考えて、過去の判断が正しかったのか迷う時もありあります。やはりあの時の判断は失敗だったのか、祈って決めたはずなのに、自分の思いが先走っていたのだろうか?そう悩む時もあります。 

 しかしそのすべてのことを含めて、私たちは神に委ねて生きるのです。大胆に言えば、私たちの判断の正しさや誤りは大きな問題ではないのです。ただただ、どれほど祈ったか?神に求めたか?が問題なのです。私たちは罪深い者ですから、祈りつつも、自分の勝手な思いを捨てきれず、御心を聞きとり切れない時もあるかもしれません。しかし、それでも祈って求めたのであれば、神がすべてを良いものとしてくださるのです。私たちが誤ることなく御心を聞きとり、正しく判断をしたときだけ、神が私たちを助け、導いてくださるとしたら、私たちの未来はずいぶんと硬直したものになります。私たちは失敗して良いし、間違っても良いのです。こういうと無責任ではないかと思う方もおられるでしょう。しかし、神のご計画、そして恵みは私たちの判断や行動のいかんに関わりません。 

<御心がなりますように> 

 「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」とルカは語っています。「御心が行われますように」という言葉は「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と主の祈りの中にも同じような言葉が出てきます。そもそもクリスチャンとは、「御心を求め、御心のなることを求める」者たちであると言えます。しかしまた、「御心」を、逃げ口上のようにクリスチャンは使ってしまうこともあります。自分の祈りを祈る前から「御心がなりますように」「御手に委ねます」と神に丸投げするような姿勢は実際のところ神にまったくゆだねてはいないのです。偽善者の祈りです。「御心がなりますように」「御手にゆだねます」と言いつつ、御心をまったく問うていないのです。しかし、実際のところ、自分の願いを願わず、「御心がなりますように」「御手にゆだねます」ということが、信仰の優等生だと勘違いしている人が多いのです。祈りを通して、神が私たちに思いを問うておられるのに、神との交わりをなしていないのです。それは実際のところ、御心を問うことを放棄している姿勢です。 

 その勘違いは、主イエスのゲツセマネの祈りを表面的にとらえていることから来ます。十字架におかかりになる前、主イエスはゲツセマネで祈られました。そしてまず主は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。つまり十字架にかかることを避けさせてくださいと願われたのです。苦しみもだえ、汗が血の滴るように地面に落ちた、とルカによる福音書に描かれています。私たちは血のような汗を流して祈ることは生涯に何度もないかもしれません。またパウロのように悩みおののき、心くじかれ、なお聖霊に問うことも多くはないでしょう。しかし、恐れつつ悩みつつ、ぎりぎりの思いで御心を問うところに、御心は為されるのです。私たちは心素直に自分の願いを神に申し上げます。神に願いを申し上げるからこそ、また精いっぱい御心を聞こうとするのです。しかし、結果的に聞き間違えてしまうかもしれません。誤った方向に行くかもしれません。しかしなお、心砕かれながらも御心を問う者の上に必ず御心はなるのです。一方で、ぎりぎりの祈りをすることなく、安易に優等生のつもりで「御心のなりますように」「御手にゆだねます」と祈るとき、私たちは永遠に御心を知ることはできません。 

 祈りは神との格闘です。旧約聖書でヤコブが神と格闘したように、私たちもまた、祈りを通して神と精いっぱいの格闘をします。受難節、私たちはゲツセマネの主イエスの祈りを覚えつつ、御心を問います。そのとき、必ず、私たちの上に、また教会の上に御心がなるのです。 

 

 



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