2018年9月23日 大阪東教会主日礼拝 「イエスのもとにとどまる」 吉浦玲子
<主イエスへの罠>
ときどき、新約聖書ではイエス様が愛を説いておられ、イエス様は寛容でやさしいからいいけど、旧約聖書の神様は人間を裁かれたりして怖いとおっしゃる人がいます。しかし、もちろん、旧約聖書と新約聖書で異なる神様のことが語られているわけではありません。旧約の神様は厳しくて怖くて、新約の神様は優しいということではないのです。しかし、今日の聖書箇所などを読むと、たしかに、ああイエス様って寛容だおやさしいなと感じるかもしれません。
本日の聖書箇所は、「姦淫の女」の物語として知られている場面です。8章に入る手前7章53節からこの姦淫の女の物語の最後8章11節までがカギかっこで括られています。これはもともとこの箇所はヨハネの福音書に記されていなかった可能性があることを示しています。この箇所は、聖書に正典として入れるべきか否かということが長く議論された箇所です。そもそも聖書はどこかに原本が残っているわけではなく、写本と言われる、人が手で書き写したものが残っているだけです。いろいろな地域にいろいろな時代の写本が残っています。印刷技術のない時代、人が手で書き写すのですから、写本間で内容が少し異なっている部分もあります。その異なっている所を丁寧に突き合わせて研究して、もともとの原本はこうなっているのだろうと判断した結果が今日の正典としての聖書です。このカギかっこに入った部分は、時代の古い写本には見られない箇所で、そのためもともとの原本にはなかったのではないかという議論があったのです。そしてこの箇所はもととなる写本の正当性もさることながら、内容的にも議論となるところであったようです。その議論は冒頭に申しましたように、イエス様が優しすぎる、寛容すぎるというところがまさに焦点でした。「姦淫」というたいへん大きな罪を犯した女が無罪宣告される内容を扱いかねるところがあったからなのです。新約聖書の時代であっても、罪は罪であります。そして教会は人々が罪を犯さないように指導をし、戒めを行う義務があります。ですからこの場面のように、明確に大きな罪を犯した女が無罪放免されるというのは教会にとって少々扱いが難しいものだったのです。
しかし、よくよくこの箇所を味わいますと、この箇所こそ罪と救いのポイントが記されている場所であることがよくわかります。教会にとって扱いが難しいなんて箇所ではないのです。ですから、最終的にこの箇所が正典に入れられたのは、むしろ、主イエスの救いの急所が記されていると判断されたからだと思われます。
さて、祭りののち、主イエスはふたたび神殿に向かわれ、人々に教えておられました。主イエスはすっかりユダヤ人、つまりエルサレムの権力者たちからは敵視されておられました。主イエスは、ユダヤ人たちから、何か理由をつけてやっつけてやろう、殺してやろうという憎しみを受けておられました。ユダヤ人たちは、下役たちに逮捕させようとしてもうまくいかず、知恵を絞りました。そんな権力者たちが連れてきたのは、姦淫の現場を押さえられた女性でした。しかし、この場面には少し妙なことがあります。現場を押さえられたのであれば、相手もいるはずです。レビ記には、姦淫をした男女とも死刑と書いてあります。女性だけが連れてこられたのは奇妙なことです。男性は逃げたのでしょうか。あるいは男性優位な当時、なんらかの不当なことがあったのかもしれません。さらに本来ならば、小サンヘドリンと呼ばれる裁判の場所に連行すべき案件です。それをわざわざ主イエスのところに連れてきています。そして女性を群衆の真ん中に立たせて晒し者にしています。たしかに姦淫は十戒を破り、律法に背く大きな罪です。その現場を押さえられただけでも恥ずかしいことなのに、さらに大衆の面前でこの女性に恥をかかせています。いくら罪人とはいえ、正しい扱いとはいえません。権力者たちは、実際のところ、女性の罪のことなどどうでもいいのです。「イエスを試して、訴える口実を得るため」と6節に書かれていますが、律法学者やファリサイ派の人々の頭にあるのは、信仰共同体の中の一人の人間の罪に向き合う真剣な思いではありませんでした。罪を神に問う思いではなく、主イエスを陥れることだけが頭にあったのです。
<顔を隠される神>
律法学者やファリサイ派の人々は「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と主イエスに聞きます。群衆の中でわざと聞いています。もちろん、彼らは主イエスに教えを請おうというわけではないのです。主イエスが殺せと答えても殺すなと答えても、主イエスが窮地に陥るように質問をしているのです。
「殺せばよい」と主イエスがお答えになった場合、主イエスはローマへの反逆者とみなされます。といいますのは、当時死刑執行の権限はローマに支配されていたイスラエルにはありませんでした。実際、のちにイエス様が十字架におかかりになったとき、死刑判決はイスラエルを支配していたローマのピラト総督がくだしています。ですから、ここで主イエスが殺してよいというと、ローマの権限より律法を上に置くローマへの反逆者としてローマに突き出せるのです。また主イエスは、律法で定められた安息日を守らないといった律法への態度がありながら、ここでは律法を守るという矛盾もあります。さらに、そもそも主イエスは愛を説いておられました。裁きあうなと説いておられました。その普段の主イエスの教えと矛盾するではないかという突っ込みもできるのです。そしてまた「殺したらいけない」と主イエスがお答えになったら、それは当然、「この男は律法に背く人間」として糾弾をすることができるのです。
その質問に対して、主イエスは「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と記されています。これは謎の行動です。さすがのイエス様もここでは即答できず、時間を稼いでおられたのか?と勘繰ったりします。ひょっとしたら、その様子を見て、権力者たちは内心、ついに主イエスを追い詰めたと喜んでいたかもしれません。
この場面で、主イエスは何を書いておられたのか、多くの学者たちが議論してきたところです。エレミヤ書の言葉を書いておられたのだとかいろいろな意見があります。しかし、ひとつはっきり言えますことは、主イエスは自分を陥れようとしている人々から顔を背けておられるということです。言ってみれば神が顔を隠しておられるという場面です。罪を犯した女性を自分たちのたくらみのために晒し者にしているおのれの浅ましさに気づかず、自分こそは正義であると、自らの正義をかざしている姿を拒否しておられたのです。群衆のなかで自分たちの正義を掲げつつ、その心には本当に意味での神への畏れも人間への愛もない、そんな人々の姿を悲しみつつ会話を拒否しておられる、それが地面に何かを書かれているお姿となっているのではないかと考えられます。
ところで、昨今、著名な人が、事件やスキャンダルを起こすと、テレビやネットで大バッシングが起きます。このバッシングは昔からあったようにも思いますが、ソーシャルネットワークの発達でさまざまな昔ならわからなかったような事実があらわにされたりしてそれに反応してバッシングが起きるようになり、そのバッシングは昔よりももっと大きくなったようにも思います。たしかに倫理的に間違ったこと、法律に違反することをしたという事実はあっても、それが明るみに出て、すでに本人は十分すぎるほど法的制裁あるいは社会的制裁を受けているにもかかわらず、一億総コメンテーターのような状況でバッシングが吹き荒れます。自分に直接かかわりのない人であるから気軽に批判ができるのです。昨日までそれぞれの分野で脚光を浴びていた人が、水に落ちた犬が叩かれるように批判を受けます。人間にはこのような批判を楽しむ心があるからです。自分はこんな奴とは違う、自分の正義を確認しつつ、溜飲を下げるのです。そのような現代人のあり方と主イエスを陥れようとした人々は、共に自分を正義の側に置いていることにおいて共通します。主イエスはそのような人間のあり方を悲しみつつ言葉をしばし発されませんでした。
<イエスのもとにとどまる>
やがて「彼らがしつこく問い続けるので」ついに主イエスは身を起こしておっしゃいます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ったとあります。
そこにいたすべての人が「自分は罪を犯したことがある」と認めたということです。私はこれまで、この部分は、それほどひっかかりがなく読んでいました。人間はだれでも罪人である、それは教会において普通に言われることで、罪を犯したことのない人などいないというのは当たり前のことのようです。ノンクリスチャンの方が読んでも、ここは理解できると思います。人間は誰だって生まれてこのかた罪を犯したことがないなんて言えないということは誰にでも感じられることです。
しかし、今回改めて読んでみて、この場面は少し不自然に感じられました。そもそも律法学者やファリサイ派の人々は先ほども申し上げましたように自分を正しいと思っていた人たちなのです。当時の律法学者やファリサイ派の人々には胸を張って「わたしは律法を完全に守ってきました」と言える人がいたのです。その点では、当時の律法学者やファリサイ派の人々と現代に生きる私たちでは罪への意識は異なっていました。自分たちこそ正義だと感じる点においては同じのようであって、その正義の基盤が幼いころから叩き込まれてきた律法にあるという点で少し異なるのです。当時の律法学者やファリサイ派の人々にとって「罪を犯した」という言葉は、今日的な意味での個人の罪悪感や倫理観に訴える言葉ではなかったのです。
しかし、人々は去っていきました。ここで石打ちが起これば、その首謀者として主イエスをローマに差し出すことができたのに、なぜでしょうか。ある方は、それは「そこに主イエスがいたからだ」とおっしゃっています。人間は自分の罪が分かりません。しかし、そこに主イエスがおられる、神の御子がおられる、神なる方がおられる、そのお方の前では律法を完全に守っていると自負していた人々も、否応なく自分の罪や汚れを感じてしまうのです。神の前にあるとき、自分の本当の姿が明らかになるのです。姦通の罪を犯して晒し者にされている女性と同じように、自分自身のみじめな罪の姿が自分自身に対して晒されてしまうのです。罪は暗闇では見えないが、光が当たると見えると、よく言われます。カーテンの隙間から入る光によって浮かびだして見える空中の塵のように罪が神の光によって浮かび上がってくると、罪のことがよくたとえて言われます。光なる方、キリストの前にあるとき、普段は見えない罪は浮かび上がってくるのです。
人々が去っていったのは当たり前のことではなく、神の前での出来事でした。主イエスはただ寛容に罪をお赦しになったわけではないのです。むしろ、その場にいたすべての人々の罪をあらわにされたのです。あなた方は皆罪人だとこの場面ではおっしゃったのです。
人々は去っていき、真ん中で晒し者にされていた女性だけが残りました。私はこれまでこの女性は逃げるに逃げられず最後まで主イエスのもとにいたのだろうと考えていました。しかし、おそらく実際は、人々が去ってから、イエス様が身を起こされるまで一呼吸あったと思われます。イエス様が地面に何か書いておられるとき、女性はこっそり主イエスのもとから離れる時間はあったと思われます。しかし、この女性はとどまったのです。主イエスの前にいたこの女性もまた本当の罪が分かったからです。そしてそこにとどまった女性だけが去っていた人々と違い、ここにおられる主イエスこの人こそ罪を定められる方だと知ったのです。女性は姦淫が律法を破る罪であることは知っていたでしょう。しかし、現場を押さえられながら、ひょっとして本当は悔い改めていなかったかもしれません。このくらいのことはほかの人もやっている、見つかってしまった私はついてなかった、運が悪かった、そんな思いもあったかもしれません。しかし今、神の御子主イエスの前に立ち、自分の本当の罪が女性は分かったのです。神から離れていたという自分の罪が分かったのです。神から離れていたから、姦淫を犯すことができたのです。しかしいまや、神の御子キリストが共におられます。すべてのことが明るみになりました。女性は神の御子であるキリストのもとにとどまったのです。
<行きなさい>
主イエスは「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問われます。「主よ、だれも」と女性は答えます。女性はこのお方こそ罪を定め、そして赦してくださる方だと知ったのです。だから人々は去ってもこの女性は残ったのです。主イエスのもとにとどまったこの女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない。」とおっしゃいました。これは単純にわたしを信じたから罪を帳消しにしてあげようということではないのです。正確に言いますと人間の罪は神の前で消えたりはしないのです。なかったことにはならないのです。しかしその罪は、キリストのゆえに神の前で数えられないのです。本当は数え切れないほどある人間の罪がカウントされない、それが罪に定めないということです。
そして「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という主イエスの言葉が響きます。罪定められなかった者は自由を得て歩んでいくのです。そして神と出会い、神ご自身から罪に定められなかった者は、じゃあこれからも罪を犯してもイエス様のもとに来たら罪に定められないだろうと考えて再び罪を犯すのではないのです。そうではなく「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉は「もう罪を犯さずあなたは生きていけるのだ」という主イエスの愛の言葉です。その言葉を受けて女性はふたたびこの世に送り出されていったのです。このとき、まだこの女性は十字架の贖いのことは知らなかったでしょう。しかしやがて知ったでしょう。自分を罪に定めなかったあのお方が罪人として死なれたことを。あなたを罪に定めない、そうおっしゃった方は、自分が代わりにあなたの罪によって死ぬから、あなたは罪に定められないのだとおっしゃのだと、やがてこの女性は分かったと思います。あれは、いいよいいよ赦してあげるよ、というような軽い赦しではなかったことを。パウロがのちに書いたように「罪の報酬は死」であるゆえに、キリストがその死の報酬を受けられたことを女性は知ったでしょう。あのとき、あなたの代わりに私が罪に定められて死ぬから、安心して行きなさい、だからもう罪を犯してはならない、あなたは死ではなく命の中を生きるのだ、いやあなたはきっともう罪を犯すことはない、そうイエス様はおっしゃったことをはっきりとわかったでしょう。
私たちも出ていきます。キリストが罪に定められたゆえに。キリストが死んでくださったゆえに。私たちにもキリストの深い愛の言葉が語られます。
「行きなさい。もう罪を犯してはならない。」
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