大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第2章18~22節

2022-02-13 08:49:13 | マルコによる福音書

2022年2月6日大阪東教会主日礼拝説教「発泡する福音」吉浦玲子 

 ここにいる多くの人にとって、断食というのはなじみの薄いものではないでしょうか。ですから、断食について書かれた聖書箇所を読むと自分とは関係ないと思ってしまわれる方もあるかもしれません。信仰によって救われたんだから、断食という苦行めいた行為などは必要ではないと考える方もおられるかもしれません。一方、断食は聖書の世界のみならず、多くの宗教で、宗教的行為として行われます。旧約聖書の時代からイスラエルにおいては悔い改めの時や神への特別な嘆願の時などに行われてきました。時代によって変遷がありますが、バビロン捕囚ののちは年に四回断食の期間が設けられていたようです。その後、新約聖書の時代には週に二回、月曜日と金曜日に断食が行われていました。イエス様ご自身、荒れ野で40日間の断食をなさいました。断食はユダヤ教においては神への敬虔のしるしでした。初代教会の信徒たちも断食をした記録があります。現代でも、キリスト教の多くの教派で断食や、なんらかの食物の規定を守っています。アドベントや受難節、あるいは決まった曜日には肉を食べないとか、お酒を飲まないといったなんらかの決まりをもっているところがあります。プロテスタントの教会でも教会によっては断食祈祷を積極的に行うところもあります。私が洗礼を受けた頃、母教会の献金報告の中の「感謝献金」のところに、牧師ご夫妻の名前があって「断食祈祷感謝」と書かれてあったことがあります。へえ!牧師先生は断食祈祷をされるんだと驚いた記憶があります。だからといって信徒も断食しなさいと言われたりした記憶はありませんでした。ただ「祈りと断食」というのはペアなのだということはお聞きした記憶があります。 

 いずれにしても断食というのは、その行為そのものに良し悪しがあるのではありません。もちろん、イエス様ご自身が断食をなさっていることから、断食自体が否定されるものではないのですが、断食は形式化する危険がありました。本来断食は神へと心を向けるためのものでした。先ほど申し上げましたように、祈りとペアのもので、深い祈りとともになされるべきものでした。しかし、断食そのものが立派なことであって、断食自体が目的化してしまうことがありました。 

 今日の聖書箇所を読みますと、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は熱心に断食をしていたことがわかります。彼らは熱心に神を求めていたのです。ですから祈りと断食を熱心にしていたのです。その態度は、ある意味、立派でした。しかし、その立派な宗教的行為をする人々の中には、断食を形式的に行っている人々もいたのです。断食が形式、あるいは律法的に行なっていると、ほかの人々の行いを批判的に見てしまうようになります。今日の聖書箇所には批判したとは書いてありませんが、ある人々が主イエスに対して「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言ったと書いてあります。直接に批判はしなかったのですが、やはり批判的なのです。本当に神への祈りのために、また神を求めて断食をしているならば、他の人のことは気にならないはずです。しかし、彼らは気になるのです。自分たちはちゃんとやっているのに、なぜこいつらはちゃんとやらないのか?と。行為が形式化する、教条主義化するとこうなるのです。自分がちゃんとやっていることを人に見てもらいたいし、人がやっていないとケチをつけたくなるのです。そこには本当の神との交わりの喜びがないからです。 

 そしてまた、今日の聖書箇所の前のところでは、主イエスたちが徴税人や娼婦たちと一緒に食事をする場面が描かれていました。律法を守る当時の人々の感覚から言ったら、罪人、神から離れている人々とみなされている徴税人や娼婦と食事をすること自体、ありえないことでした。しかも、徴税人たちは裕福だったので、その宴会も豪華であったと考えられます。これは実際、宗教や宗教者へのイメージとして考えた時、分かりやすいと思います。ファリサイ派の人々は、週に二回断食をしている真面目な宗教者のイメージがあります。しかし片や、主イエスの弟子たちは、やくざのような徴税人やいかがわしい娼婦たちと大宴会を開いているのです。じゃあ宴会をしていないときは断食をしているかというと、その様子もないのです。普通に考えて、どちらが真面目に神を求めているように見えるかということです。現代においてもそうではないでしょうか。宗教者がやたらグルメな食事をしたり、宴会を開いて大酒飲んでいるより、質素な食事をして定期的に断食している方が、立派に感じられるでしょう。人間は形式や見た目を気にするのです。本当の神との交わりがないとき、人から宗教的に思われたい、信仰深い人と思われたいという思いが出てきます。そしてまた人に対しても、あの人の態度は信仰的ではないと批判的に見たりするのです。 

 それに対して主イエスはおっしゃいます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」前にも申し上げましたように、神と共なる喜びは、聖書において、宴会、それも婚礼の祝いの祝宴で良く表現をされます。そもそもイスラエルでは婚礼の式はとても大事にされていて、真面目なファリサイ派でも婚宴のときには聖書の講義を休むというくらいだったそうです。ここで花婿とは主イエスです。時は満ち、神の国は近づき、まさに花婿たるキリストがこの世界に来られた。そのキリスト、救い主たるイエスと共にいるということは、神の祝宴にすでに連なっているということです。ですからそこで断食はできない、そう主イエスは答えられたのです。 

 そして先ほども申し上げましたように、断食は特に神への悔い改めや嘆願のためになすものでした。神への特別な祈りを伴うのが断食でした。神との特別な交わりを求めるのが断食でした。しかし今や、天から来られた神の御子、神そのものであるお方が直接に語り、交わってくださっているのです。ですから、主イエスが共におられる場で断食は不要なのです。 

 そしてこの聖書箇所では、有名な言葉が出てきます。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 

 固い古い布に柔らかな織りたての布で継ぎをあてると破れがひどくなる、また新しくて発酵が進んでいるお酒を固い革袋にいれると発泡しているお酒で皮が破れてしまう。新しいものは新しいやり方でやっていかねばならないという譬えです。 

 たとえば、あたらしい時代にあった伝道の仕方があるのだから、新しい伝道を考えようではないかという意見があります。また、新しい時代にあった礼拝の仕方があるから、礼拝の仕方も変えようということもあるかもしれません。実際、キリスト教2000年の歴史において、初代教会と現代の教会は大きくいろんなものが変わっています。礼拝の捧げ方、祈り方、賛美の仕方、さまざまに違うでしょう。宗教改革ののちであっても、バッハの時代と今では、やはりずいぶん違います。だから現代においても、若い人が好むような音楽を用いて礼拝を行ったら若い人が教会に来るようになるでしょうか?実際、そのようになさっている教会もあります。それは悪いことではありません。しかし、新しい革袋というのはそのような問題でしょうか? 

 ヨハネによる福音書の中にニコデモという男性が出て来る場面があります。彼は善良なユダヤ教の指導者でした。権力者でありながら、権力者たちから疎まれていた主イエスのところへ教えを乞いに来たのです。そのニコデモに主イエスはおっしゃいます。「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。新しく生まれ変わらなければ、神の国には入れないと主イエスはおっしゃったのです。新しい教えを学んだら良いとか、これまでの生き方をこのように変えたら良いということではなく、新しく生まれなさいとおっしゃったのです。よく生まれ変わった気持ちでやり直すということは言われます。しかし主イエスはニコデモに生まれ変わった気持ちでやり直せとはおっしゃっていないのです。生まれ変わりなさい、新しく生まれなさいとおっしゃったのです。そもそも私たちは自分の命を新しく生まれさせることはできません。生まれ変わったように心を入れ替えることはある程度はできるかもしれません。しかし、主イエスはそういうことをおっしゃっていはいません。水と霊によって生まれるとは具体的に洗礼によって新たに生まれるということですが、神によって新しくされなければならないとおっしゃっているのです。 

 翻って、この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ということは、神によって新しくされたぶどう酒は新しい革袋に入れなさいということですが、神によって新しくされたぶどう酒とは何でしょうか?それは福音そのものです。福音とは何でしょうか?それは神ご自身が人間を救ってくださるということです。人間の側の努力や善行や断食や祈りのゆえではなく、神ご自身が救ってくださるということです。罪にまみれた人間を新しく生まれさせてくださるということです。神が、人間の側にいっさいの理由がなく、そして人間の行いによらずに、救ってくださる、新しく生まれさせてくださるということです。その神の救いの業を信じること、それが新しい革袋ということです。単に断食を止めるとか行うとか、礼拝のスタイルを変えるということではなく、神の救いの恵みを信じる生き方をする、神がすでに与えてくださっている恵みを感謝する生き方をするということです。 

 さて、しかし20節に「花嫁が奪い取られる時が来る」と語られています。これは直接的には十字架の時です。主イエスが共におられなくなる時が来るということです。ということは、主イエスが肉体をもってそばにおられない今は、やはり週に二回断食をすべきでしょうか?そうではありません。私たちには、キリストを示してくださる聖霊が与えられています。ですから、時は満ち、神の国は近づいたということは変わりません。私たちはすでに救われた喜びのうちに生かされているのです。しかしまた同時に、主イエスによって救われたことを感謝して生きる時、おのずとそれは主イエスの御跡を追う歩みとなります。神の恵みに感謝して生きる歩みには、時に、試練もあるのです。そのとき、私たちはよりいっそう神への祈りを深めます。キリストの十字架の苦しみを覚える時もあります。そのとき、祈りのために断食をすることもあるでしょう。形式的な断食ではなく、さらに神を求める祈りとして、キリストの十字架の歩みを覚えるための断食をすることもあるでしょう。 

 断食をするにせよしないにせよ、大事なことは私たちはすでに新しいぶどう酒をいただいているということです。昔、ぶどう酒ではないのですが、友人との食事会の折り、日本酒の新酒をいただいたことがあったのですが、それがスパークリングワインのように発泡していたのです。それに頓着せず、ふたを開けたとたん、勢いよくお酒が噴き出して来て慌てたことがあります。新しいお酒はいきいきと生きているのです。命にあふれているのです。それを形式主義的な、古い革袋に入れてはいけないのです。入れることはできないのです。神の愛があふれているように、神に救われ神の愛を知った私たちもまたその信仰の心は豊かに動き、泡立ち、勢いよく飛び出していくのです。そこには、自分はこんなにがんばって信仰してるのに、あいつらはなんだ?と人を批判したり、単なる形式的なことスタイルに過ぎないことを教会の伝統だと固執する姿はみじんもありません。もちろんだからといって何でもありの無秩序ではありません。神の前に畏れと敬虔をもって、そして神の秩序に従って歩むのです。私たち一人一人も教会も古い革袋ではありません。福音はそのようなものに入り切れるようなものではありません。春が近づいています。土を突き破って、草花の芽が出てきています。枝々につぼみが膨らんできています。福音によってわたしたちの命も天に向かって勢いよく伸び伸びと飛び出していきます。 



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