大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第2章13~17節

2022-02-06 08:26:47 | マルコによる福音書

2022年2月6日大阪東教会主日礼拝説教「罪人を招いたら祝福が広がった 」吉浦玲子 

 レビという男は徴税人でした。徴税人はその名の通り、税金を取るのが仕事でした。その税金というのは、イスラエルを支配していたローマに支払う税金でした。ローマに支配されていた植民地に生きる民として、ことに神から選ばれた民だという自負のあったイスラエルの人々にとって、ローマ帝国への納税は屈辱的なことでした。徴税人たちは、言ってみれば、ローマに媚びをうって自分の懐を温めている存在でした。そしてまた、この徴税人たちは、規定以上のお金を取り、自分の懐に入れていました。税の取り立ての仕方もかなりえげつなかったようです。ですから人々からかなり嫌われていたのです。徴税人は罪人と扱われていました。 

 そのような徴税人としてレビは生きていました。生活は裕福であったかもしれません。同じ徴税人の話がルカによる福音書にあります。ザアカイという徴税人が出てきます。このザアカイは、主イエスの話を聞きつけて一目主イエスを見ようと思って、木に登って主イエスの姿を見ていた男でした。そのザアカイを主イエスは招かれました。それに対して、このレビは、主イエスの話を聞きに行ったりお姿を見ようとしたとは書かれていません。彼は「取税所に座っていた」のです。群衆は主イエスの周りに集まっていました。しかし、レビは無関心でした。実際、無関心であったか、無関心を装っていたのかはわかりません。主イエスのことは耳には入ってはいたでしょう。町中、主イエスのことで持ちきりだったでしょうから。しかし、レビはザアカイのように主イエスに興味を示すことはなかったのです。自分には関係がないこと、そう思っていたのでしょう。 

 最初に申し上げましたように徴税人は罪人とみなされていました。神から遠い人間、救われようのない人間、そうみなされていました。そして徴税人であるレビ自身も自分のことをそう思っていたのでしょう。自分は神から見捨てられた人間だと思っていたのです。少し前に悪霊に取りつかれた人や重い皮膚病の人の救いの物語をお読みしました。ことに、当時、重い皮膚病の人は、律法で汚れた者と見なされ、信仰共同体から切り離されていました。片やこの徴税人は病ではありませんし、町の中に住むことはゆるされていましたが、やはり、共同体いは受け入れられない人々でありました。そして悪霊に取りつかれた人や重い皮膚病の人はある意味、当人にはどうしようもないことで苦しんでいた人たちであったともいえます。それに対して、徴税人たちは、徴税人になった経緯はさまざまにあるでしょうけれど、自らの意思によってあくどいことをしていた人々であったという側面があります。意識的に罪を犯してきた人々です。しかしそのような人々もまた、主イエスの招きによって、神との関係を回復していただきました。それが今日の物語です。 

 しかしまだ、主イエスと出会う前のレビは、イエスという男がどれほどすばらしい神の業をしていたとしても、そもそも神から見捨てられている自分とは関係がないと考えていたのです。だからレビは主イエスに興味も持たなかったのです。レビは魂の深いところで痛み、闇を抱え、そしてそれを見ないようにして、あきらめて生きていたのです。もてはやされているイエスという男を見たら、そして実際にそれが神から来た者であったとしても、いや神から来た特別な者であればあるほど、むしろ自分が神から遠いこと、自分が救われようのない存在であることを、いっそう突きつけられるかもしれない、そうレビは思ったかもしれません。 

 そんなレビを主イエスは通りかかりにご覧になりました。そして「わたしに従いなさい」と言われました。レビは立ち上がってイエスに従ったとあります。たいへん短い記述です。主イエスがレビのことをどのように思って声をかけられたのか、またレビがなぜすぐに主イエスのお言葉に応じたのか、聖書は語りません。ただ、レビが「すぐに立ち上がった」とだけ書かれています。この立ち上がるという言葉は、先週読みました中風の人が起き上がるという言葉とは別のギリシャ語になります。しかしまたこの、「立ち上がる」という言葉も、主イエスがよみがえられる時に用いられる言葉です。(マルコ8:31) 

 この場面で、レビはよみがえったのです。神から離れ、救いからこぼれていると考え、霊的に死んでいたレビは、命を与えられ、生き返ったのです。主イエスの招きのゆえに、神のもとに帰って来たのです。彼が立ち上がりたいとか、神のもとに行きたいと願ったわけではなく、主イエスがお呼いになったのです。その声を聞きとめたのです。人々から不正に金を巻き上げ嫌われながらも財産を為し、その物質的豊かさの中で、実際のところはむなしく感じていた自分の心から目をそらしてたレビは立ち上がり、よみがえりました。主イエスの招きに答えたとき、彼は本当の自分の人生に向かって立ち上がったのです。彼は主イエスの「わたしに従いなさい」という言葉を聞いて、その言葉を吟味し、なるほどこの人に従おうと決心したのではなく、主イエスの言葉そのものによって、レビは立ち上がらせられたのです。主イエスの言葉がレビを立たせてくださったのです。 

 私たちも聞くのです。「わたしに従いなさい」という主イエスの声を。虚しさの中で、疲れの中で、混沌の中で、さまざまな人間の思惑の中で怒りさえ覚える日々に、あるいは自信を無くして座り込んでいる心に聞くのです。「わたしに従いなさい」その主イエスの言葉を聞くのです。私に従って徳を積んだら救われる、私に従って聖書を勉強したら神に喜ばれる、そういうことではないのです。ただただ主イエスの歩むそのあとをついて行くのです。示される道を歩むのです。主イエスの御跡をついていくとき、私たちにはまことの力が与えられるのです。空元気ではなく、自然な元気をいただくのです。 

 さて、こうして主イエスに従ったレビは食事の会を開きました。「食事の席に着く」というのは食事に横たわるという意味です。これは当時、ユダヤにおいては食事の時、人々は実際、横たわっていたということもあります。同時にこの言葉は、宴会を指す言葉でもありました。祝宴ということです。実に大勢の人がいて、とあるように大宴会でした。そもそもユダヤにおいて、食事を共にするというのは大きな意味がありました。ユダヤ人は、基本的には罪人や異邦人とは一緒に食事をしませんでした。しかし、主イエスは徴税人たちと共に食事をしました。「徴税人や罪人たち」といわれているというのは、そこには娼婦もいたと考えられます。おそらくその光景は、当時の人が見る時、おどろくべきものであったでしょう。町で鼻つまみ者である徴税人と、いかがわしい女性たちが集まっているのです。 

 そして今日の聖書箇所には有名な言葉が出てきます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」医者を必要とするのは健康な人ではないという言い回しは当時、寛容的に使われていた言葉であったようです。そこに重ね合わせて主イエスはこの言葉をおっしゃったのです。一般的に、宗教的と考えられる生き方は、正しい人間になること、少なくとも正しさを目指すことであると考えられます。しかし、主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいます。主イエスは、正しくない罪人を招いてくださる、私たちはそこに慰めを覚えます。こんなどうしようもない自分をも主イエスは招いてくださる、そのままの自分を、罪人のままで招いてくださる、何と感謝なことだろうと思います。もちろん実際、これはとてつもなく感謝なことなのです。しかし、覚えなくてはいけないことは、罪人である私たちを招くために、主イエスは十字架におかかりになったということです。聖なる清い神の前には本来罪人は立つことができないからです。ですから、主イエスは私たちの罪の裁きを代わりに受けてくださいました。主イエスの命と引き換えに私たちは招かれたのです。 

 徴税人や娼婦と食事をされる主イエスのお姿は、ともすれば、人を差別しないおやさしいイエス様という薄っぺらなヒューマニズムで捉えられたりします。しかし、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というこの言葉を私たちはじっくりと味あ 

わなければなりません。この宴会を見たファリサイ派の律法学者は非難をしました。これは主イエスが人を差別しない人格者で、律法学者たちは高慢な差別主義者だという側面だけでは見てはいけないのです。神の前には厳然とした秩序があるのです。聖なる清い神と、罪や汚れは一線を画さねばならない、神の前にあるとき、自らの清さを保たねばならない、それが律法によって定められたことでした。ですから、律法学者たちがいうように、徴税人や娼婦と交わることは本来ゆるされないことでした。しかし、主イエスは、すべての罪を、汚れを、清めるお方でした。時は満ち、神の国は近づいた、その主イエスの言葉によって、福音が与えられました。実際に、神の国は近づいたのです。だから、罪人も徴税人も娼婦もすでに近づいている神の国に主イエスと共にいるのです。 

 ここで宴会の場面が描かれていますが、聖書において終わりの日の天の大宴会がよく描かれます。キリストの再臨ののち、天のエルサレムで、私たちは喜びの宴に着くのです。主イエスご自身、地上を歩まれる時、多くの人々と、食事を共にされました。それは天の宴の先取りでした。すでに救い主なる主イエスが共におられる祝福された食事です。そこに招かれている者たちはすでに天上の宴にいるのです。そこには徴税人も罪人も関係ないのです。主イエスが共におられるからです。神の前に清くされた存在として、皆、祝宴に連なるのです。教会はその天の祝宴の先取りでもあります。私たちは今、主イエスと共に宴についているのです。招かれた罪人として、私たちは喜びの宴に今います。 

 ところで、現実的な話をしますとき、教会の多様性ということはたいへん難しいことです。遠いお話として読むだけならば、なかばやくざのような存在であった徴税人や娼婦たちと一緒に食事をとっておられる主イエスのお姿は素晴らしいと思うのですが、実際問題として、現時点で教会に集っておられる人々とは、背景の異なる人々が教会に多数入って来られたら、やはり難しい問題が起こると思います。実際、初代教会では、ユダヤ人ではない、異邦人が教会に入って来たとき、対立や問題が起きたのです。背景や身なりや言動が自分とは異質な人々であっても、率直に言って、嫌悪感すら覚える人々であっても、その人々は主イエスに招かれた人々です。そして私たちも、その人々と罪人であることにおいてなんら変わらない者です。神から憐れまれなければいけない存在です。しかし、そのことが頭ではわかっていても、どうしても教会は同質な人々で固まりがちになります。多様性を持てないのです。 

 昨日は大阪東教会の140年目の創立記念日でした。本来、今日は、創立記念礼拝として持つべき礼拝でした。創立記念、それも140年という節目の記念です。その記念すべきとき、私たちは、会堂に集い礼拝を行うことができません。140年前、身を粉にして宣教をされたヘール宣教師兄弟、そして教会草創の頃の信仰者たちは、いま、私たちがこのような状況であることをどう思っておられるでしょうか。この二年、コロナの禍の中、礼拝出席は低迷しました。財政的にも危機といってよいでしょう。しかし同時に大きな祝福もありました。この二年に、4名の方々が洗礼をお受けになりました。神の憐れみが教会に注がれていることを覚えます。私たちはかつても、今も、未来においても神の憐れみの内に生かされています。心貧しく、時に傲慢で、罪を繰り返す者でありながら、なお神が招き続けてくださっています。その感謝の内に私たちは新しく生きていきます。本来、招かれるはずがなかったのに、恵みのゆえに招かれた者として生きていきます。そして新たに招かれた人々を迎える者として生きていきます。罪贖われた罪人として、謙遜に、そして喜んで神の宴に連なります。その原点に立ち150周年へ向けて歩んでいきましょう。150周年の記念の日には、多くの信仰者が、多様な信仰者が集う、大いなる神の宴となっていることを信じます。それを信じることは、私たち一人一人の信仰生活の喜びの源でもあります。私たちはそれぞれに孤独を抱えて生きていきますが、同時に信仰共同体の中に生かされています。共に招かれた者として、愛し合う共同体の祝宴にすでに入れられています。 



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