大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第8章1~21節

2022-07-17 12:21:44 | マルコによる福音書

2022年7月17日大阪東教会主日礼拝説教「内なる悪が膨れる時」吉浦玲子

 今日の聖書箇所は、まず主イエスが4000人の人々に食事をお与えになる場面から始まります。これは少し前にお読みした5000人の人々に食事をお与えになった話の繰り返しのように感じます。人の人数やパンや魚の数が異なりますが、話の流れとしてはほぼ同じです。一方で、さて、この一般に「四千人への給食」と呼ばれる出来事があったところは、はっきりと場所を特定はできませんが、前後に出てくる地名、デカポリスやこののち向かったダルマヌクなどから類推すると、おそらく異邦人の地であったと考えられます。以前の「五千人への給食」がイスラエルの地での出来事でしたから、こちらは異邦人へもまた神の恵みが表された出来事であったと言えます。

この箇所で驚くのは、弟子たちの態度が、以前の「五千人の給食」の時と変わらないことです。主イエスが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」と群衆への慈しみの言葉を語られますが、弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言います。かつて五千人に対して主イエスが五つのパンと二匹の魚で十分に満腹させられた出来事から弟子たちはまったく主イエスの恵みの業を学習していないようです。こういうところを読むと、なんて弟子たちは愚かなのだろうと思いますが、しかしこれは人間の愚かさそのものなのです。旧約聖書の「出エジプト記」に有名な海を割ってイスラエルの人々をエジプト軍から救われる場面がありますが、この驚くべき奇跡を体験したイスラエルの人々が三日後には「水がない」といって文句を言っているのです。私たちは神の恵みに鈍感で、たとえひととき驚き感謝をしてもすぐ忘れてしまいます。そんな私たちに対して神は匙を投げられるどころか、繰り返し繰り返し恵みを与えてくださるのです。私たちが神の恵みを覚えられるように、神は繰り返し、その業を見えてくださいます。

その恵みの出来事ののち、主イエスはふたたび舟に乗ってダルマヌクの地方に行かれました。そこでファリサイ派の人々がやってきて「天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。これは7章の最初のところなどで、主イエスに面目をつぶされたファリサイ派の人々がやってきて、悪意をもって主イエスを試そうとしたのです。すごい奇跡を見せてみろ、そうしたらあなたを神のもとから来たと信じようと言っているのです。あなたが神のもとから来たというエビデントを出せと言っているのです。これまでの彼らは主イエスの恵みの業を見、言葉を聞いてきているのです。主イエスのなさったことを見ても、おっしゃったことを聞いても、神のもとから来られたことが分からなければ、目の前でどれほど奇跡を行っても、理由をつけて主イエスが天から来られた神であることを信じられないのです。「出エジプト記」のなかでエジプトのファラオが神の奇跡を見せられましたが、かたくななファラオは信じようとはしませんでした。奇跡のうちのいくつかはエジプトの魔術師でもできる事柄もありました。ですから、ますますファラオはかたくなになりました。神の奇跡、神のしるしというものは、魔術師が人を驚かすために行うものではないからです。あくまでも人を救いへと導くためのものです。最初から自分たちが救われる必要はないと思っている人間の前で奇跡は起こりませんし、怒っても、合理的に説明をつけてしまうのです。

そして、主イエスはそのようなファリサイ派の人々をそのままになさって、ふたたび舟に乗って向こう岸に行かれました。ファリサイ派の人々をそのままになさいましたが、やがてしるしは与えられるのです。それは十字架のしるしです。ファリサイ派の人々のためにも主イエスは十字架にかかってくださり、神のしるしを見てせてくださいました。

さて、ふたたび乗られた舟の中で弟子たちが慌てる場面が描かれています。さきほどの四千人の給食の時にあまったパンの屑が七籠になったのですが、弟子たちはそれを持ってくるのを忘れたのです。そして舟の中にはパンが一つしかありませんでした。弟子たちにしてみれば、毎日の食事の調達はたいへんなことだったでしょう。パンが一つしかない、ということは大問題です、いったい誰が持ってくるのを忘れたのかとか、言い合っていたのかもしれません。その弟子たちのやり取りをお聞きになった主イエスがおっしゃったのが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」という言葉でした。この言葉をきいてさらに弟子たちは自分たちがパンを持ってこなかったから、主イエスが戒められているのだと言い合っていました。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」という言葉は、パンがないと慌てている弟子たちに、「そんなことよりもっとだいじなことはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種だよ」とおっしゃっている言葉です。ある牧師はここは主イエスのユーモアだとおっしゃっています。パンがないと心配している弟子たちに、パンはパンでもファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種の入ったパンはだめだぞと冗談をおっしゃっているともとれます箇所です。いずれにせよ、主イエスはパンがないことを諫めておられるのではありません。

ところで、パンを作ったことのある方ならご存じと思いますが、パンを膨らませるために入れるパン種であるドライイーストは、小麦粉の重量の1%~2%程度のものです。その少量のものがパンを膨れさせるのです。主イエスは、全体からしたらごく少量の悪しきものが全体に影響を与えるとおっしゃるのです。

 ファリサイ派のパン種とは、律法主義です。律法主義といっても、彼らにとっての律法は、本来の神から与えられた「神を愛し隣人を愛する」という律法の根本から離れた、言ってみれば教条主義でした。ヘロデのパン種とは世俗主義、権力主義です。権力のためならユダヤ人である誇りも捨ててローマと結びついてローマの傀儡となることも厭わないのがヘロデを中心とした当時のユダヤの権力者たちでした。律法への考え方は間違っていましたが宗教的な人々がファリサイ派で、世俗的な人々がヘロデ派といえます。そして本来、まじめなファリサイ派と、世俗的なヘロデ派は反目していたのです。しかし、不思議なことに、もともと仲の悪かったファリサイ派とヘロデ派は主イエスを陥れるために、結託するようになってきます。マルコによる福音書でも、第3章で手の萎えた人を主イエスが癒されたとき、すでにファリサイ派は「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。主イエスはファリサイ派からもヘロデ派からも早い時期から敵と見なされていたのです。なぜファリサイ派とヘロデ派は、それぞれに違う考えを持った人々でありながら、反イエスとしてつながったのでしょうか。共通の敵だから互いの反目はいったん置いておいて共同戦線をはろうということもあったでしょうが、なによりその根本には人間主義がありました。彼らは一見、まったく違う人々のようでありながら、共に、人間中心であったのです。ファリサイ派は神の律法を守っているつもりでしたが、実際は、律法を守っている自分しか見ていませんでした。そしてそんな自分が人からどう思われているかを大事にしていました。大げさに祈ったり、断食していることが人からわかるようにしていました。そしてまた律法を守っていない隣人を裁いていました。一方、ヘロデ派は当然ながら自分の利益だけを考えていました。

 そんなヘロデ派とファリサイ派に注意しなさい、と主イエスはおっしゃったのです。それはファリサイ派やヘロデにつながる心は人間の中にやはりあるからです。パン種として、ほんの少量であっても、あるからです。弟子たちは4000人に食事を与えられた時、そこに神の業をしっかりとは見ることはできなかったのです。彼らは素晴らしい業をなさる主イエスを誇りに思ったかもしれません。しかし、そこに神の業を見て感謝するよりも、そんなすごい先生につながっている自分たちを誇らしく思ったというところもあったでしょう。人々から感謝されている自分たちという人間中心の思いがあったでしょう。ですから、まっすぐに主イエスの業を神の業とみることができなかったのです。五千人の給食の時も、四千人の給食の時もそうです。主イエスが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」とおっしゃったときも、その言葉をまっすぐに受け取ることができず、パンを持ってこなかった自分たちを諫めておられる言葉だと受け取ったのです。パンがない、その思いでいっぱいだったからです。もちろん主イエスに召し上がっていただくものがないということで困っていたという善意もありましたが、神を見ずに現実だけを見ていたのです。

 しかし、たしかに私たちも現実の日々はパン一個のために苦労をするものです。日本には現実的に今日食べるパンで困っておられる方が多くおられます。また今日明日食べるものにはさしあたり困っていなくても、やはり、日々の生活という点ではきびしいなかに生きている人が大半かと思います。明日の生活、未来の生活を思うと、その現実の前に暗澹としてしまいます。だからこそ、私たちはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけて生きていかねばなりません。人間主義、現実の中で埋もれてしまって大事なことを見失ってしまうのです。そして余計、一個のパンのことで頭がいっぱいになってしまうのです。

 主イエスはおっしゃいます。「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」弟子たちは「十二です」と答えました。さらに「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」と問われますと「七つです」と弟子たちは答えました。この十二とか七という数字は意味があります。どちらも聖書においては祝福された数字です。十二はイスラエルの十二部族を指し、イスラエル全体に祝福が満ちることを指しますし、七は完全数であり、この世界に祝福が満ちることを指します。たしかに五千人の人々が満腹し、四千人の人々が満腹した出来事は素晴らしいことです。

しかしまた、ひととき満腹しても、ふたたびお腹は空くのです。肉体を持っている人間にはこの地上にあってパンのため、生活のための苦労はどこまでいってもあるのです。しかしなお、神の恵みはあふれるほどにあるのだと主イエスはおっしゃっているのです。圧倒的な恵みがあるのだと主イエスはおっしゃるのです。

 ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種から自由になり、素直な心で神を見上げる時、私たちはほんとうの恵みが見えてきます。この世のあれこれ、人の目、さらには自分で自分を縛っている思い込みから離れる時、豊かなものが見えてきます。まことの神のしるしが見えてきます。この世のことや人の目がどうでもいい、祈ったらパンが与えられる、そういうことではありません。しかし、ひととき、私たちは心を神に向けるのです。その時、目が開かれ、耳が聞こえるようになります。ほんのひととき神のパン種を入れていただくのです。その時、美しい神の現実に気がつきます。今日がその日です。いま、私たちは共に神の言葉を聞いています。御言葉に聞いています。ここにキリストがおられ、神の美しい現実へと私たちを招いてくださっています。

 



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