2022年6月12日大阪東教会主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚」吉浦玲子
今日の聖書箇所は、直前にあります洗礼者ヨハネの殺害の場面の前から続いています。6章7節からの、使徒と呼ばれる12人の弟子たちがそれぞれに宣教の旅に出かけた箇所から続いているのです。今日の場面では、使徒たちが宣教から帰ってきた場面となります。6章7節に、彼らは主イエスから「汚れた霊に対する権能を授け」られたとあります。彼らは主イエスから特別な力をいただいて出かけたのでした。その結果、多くのすばらしいことが起こったのでした。帰ってきた使徒たちはそのことを報告しました。「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。弟子たちは喜びにあふれて、自分たちが行い、語ったことを主イエスに報告したのです。
主イエスもまた使徒たちの報告を喜んでお聞きになったことと思われます。そして「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。使徒たちは特別な権能を授けられ宣教に向かいましたが、彼らは弱い肉体を持った普通の人間でした。授けられた権能で素晴らしいことをなしてきたかもしれませんが、彼らの心身は遣わされる前と同じ人間なのです。旅の疲れもあるでしょう。だから主イエスは「休むがよい」とおっしゃったのです。主イエスご自身が神の身分であられながら肉体をもってこの世界に来られました。疲れ、病を得る、弱い肉体を持った人間というものをよくご存じでした。だから「休みなさい」と使徒たちにおっしゃったのです。逆に使徒たちの方は素晴らしい権能をいただいて、これまでできなかったことができて、少し興奮していたかもしれません。自分は少し違う人間になったかのように思ったかもしれません。しかしそうではない、あなたがたは弱い人間に過ぎない、だから休みなさいと主イエスはおっしゃったのでした。
そのような主イエスの思いやりある言葉でしたが、結局、彼らが出かけるのを感づいた群衆に一行は先回りされて休むどころの話ではなくなりました。せっかく使徒たちを休ませたかったのに、それができなくなってしまったのですが、主イエスはその群衆を見て深く憐れまれました。群衆は病をいやしてくださる方、悪霊を追い出してくださる方、自分たちの痛みを取り去り、苦しみから解き放ってくださる方を待ち望んでいました。その群衆の姿は神と離れた人間の悲しい姿でした。「飼い主のいない羊のような有様」だと主イエスは感じられたのです。本来は、神に造られ、神と共に喜び身に満ちた楽園にいるべき人間が、神と切り離され、みじめな有様になっている、そのことを主イエスは憐れに思われました。羊が羊飼いから離れたら生きていけないのと同じように人間がみじめな姿となっている、それはとりもなおさず人間の罪のゆえでした。人間は罪のゆえに神と共に生きることができなくなってしまった。飼い主である神から離れ、荒れ野をさまよい、茨に絡みつかれ、飢え乾いているのです。それは主イエスを知る前の私たちの姿でもありました。そんな人間に対して主イエスは、私たちは疲れているのだから今日は相手をできません、とはおっしゃいませんでした。深い憐れみのゆえ舟に立ち上がりいろいろと教え始められました。神から離れ、飼い主のいない羊のようである人間に対して「時は満ち、神の国は近づいた」ことを語られました。ご自分がこの地上に来られた、今や神の国は近づいた、あなたたちと共に神がおられる、あなたたちは神という飼い主によって豊かに導かれ、生き生きとした命に生きる者なのだと語られたのです。
そうこうしているうちに時間はたちました。主イエスは長くお話になったのです。人々を憐れみ、語らずにはいられなかったのです。その主イエスのところへ弟子たちがもう時間もだいぶたったから「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう」と言いに来ました。弟子たちの言うことはもっともでした。そもそも主イエスや弟子たちが人々を集めたわけではありません。群衆の方が勝手にさきまわりしてやってきたのです。主イエスはその群衆に対して十分お語りになりました。主イエスご自身も自分たちも本当に休まないといけないし、そもそも自分たちの食べるものの調達もできていない、そんな状況であったろうと思われます。これに対する主イエスの言葉は驚くべきものでした。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」
繰り返しますが、群衆は勝手にやってきたのです。弟子たちが食べ物を調達しなければならない義理はありません。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と弟子は驚きます。二百デナリオンは、一デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、きわめておおざっぱに計算したら二百万円ほどといえるかもしれません。聖書の後の方を読みますと、男が五千人いたとあります。当時は女性や子供は数としてカウントしませんでしたから、実際は一万人くらいの群衆がいたと思われます。一万人にパンを買っていればたしかに二百万円くらいはいるでしょう。そういう状況で「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」などという言葉はとんでもないことです。
しかし、これを使徒たちの派遣の話から続けて読みます時、少し違う観点も見えてきます。使徒たちは特別な権能を授けられて宣教の旅にでかけ、成果を上げて帰ってきたのです。彼らに与えられた権能は、主イエスの権能、神の権能でした。使徒たちはそのことがまだあまり分かっていなかったと思われます。男だけで五千人もの人々に食べ物を与えなければいけないという現実を目の当たりにしたとき、神の権能、主イエスの権能というものが彼らの頭の中から消え去ったのです。いえ、宣教の旅から帰ってきた時点ですでに消えていたのです。使徒たちはまるで自分の力で宣教を為したかのように「自分たちが行ったこと教えたこと」を報告したのです。主イエスは敢えてその場では使徒たちをお叱りになりませんでした。しかし、今や使徒たちは現実の前で、無力な自分の姿をつきつけられたのです。神の権能、主イエスの力をもってすれば、不可能はないはずなのに、そして目の前に主イエスはおられるのに、使徒たちにはそれがわからなかったのです。つい最近まで、自分自身が主イエスからいただいた権能を用いて宣教をしていたにもかかわらず、今、目の前にある現実しか見えなくなってしまったのです。
あなたたちはさっき、喜びにあふれて自分たちがやったこと語ったことを報告したではないか、あれは、自分たちの力で行ったと思っていたのか?自分たちの力でできるのなら、今ここで、この群衆にも食べ物を与えることができるだろう、そう主イエスはおっしゃっているのです。もちろん意地悪でおっしゃっているのではありません。これから聖霊降臨の後、使徒たちは彼らだけで宣教を始めていくのです。主イエスのお姿を肉眼では見ることのできない中で、宣教を行うのです。そのとき、大事なことは何か?それは、姿は見えなくとも声は聞こえなくとも、神が共におられる、キリストである主イエスが働いてくださるということなのです。自分たちの力、知恵、そんなものはちっぽけなことです。五千人の男たちを前にして、ガリラヤの田舎者に過ぎない使徒たちが何をできるというのか、その現実の中、なお、「あなたたちにはできるのだ」ということを主イエスは弟子たちに伝えておられるのです。あなたちにはできる、なぜなら私がここにいるから。
主イエスはおっしゃいました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」そのお言葉に従って弟子たちは見て来ました。そしてパンが五つと魚が二匹あることが分かりました。五つのパンと二匹の魚では、主イエスと弟子たちだけが食べるにしてもまったく足りません。これは2000年にわたって、教会が直面してきた問題でもあります。教会が特別にこの世的な権力と結びついて財を成していたら別ですが―歴史的にそういうこともありましたが―教会はいろんな意味で貧しいのです。企業では人、モノ、金ということを言います。この世界で活動するためには、人材や物的資産やお金が必要なのです。教会もこの世界にある以上、人もモノもお金も必要なのです。そしてそれらはまっとうな教会であるなら、現実的にはいつも不足していたのです。圧倒的に不足していたのです。まさに五つのパンと二匹の魚しか、二千年にわたり、教会にはなかったのです。
主イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」とあります。そしてすべての人が食べて満足したのです。そんなバカなことがあるかと思われるような箇所です。<いや実は、有力なパトロンがいて差し入れをしたのだ>とか、<そこにいた人はお腹は減っていたが精神的に満足したのだ>といった合理的説明をする人もいるかもしれません。実際のところ、どのようなことが起こったのかは分かりません。しかし、キリストが共におられるということは五つのパンと二匹の魚という現実の中で、神の奇跡が起こるということです。
神の奇跡が起こるなら、私たちは何もしないで祈ってさえいたら教会は立っていくのでしょうか。そうではないのです。主イエスは群衆を組に分けて、青草の上に座らせるように命じられました。そしてまた弟子たちにパンと魚を渡して配らせられました。教会は秩序をもってこの世と向き合っていくのです。そしてまたキリストの弟子たちはキリストから渡されたものを配っていくのです。実際、十二人の使徒たちはキリストからいただいた権能をもって宣教をして、素晴らしい成果を上げたのです。しかし、あまりにも成果が素晴らしく、それが自分の手柄であるかのように思ってしまいました。しかしそうではない、人間は、キリストから手渡されたものを配っていく存在にすぎないのです。
キリストから手渡されたものを配っていく存在に過ぎない、というとつまらないことのように感じられるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所では五千人の男たち、つまり女子供を入れたら一万人以上の群衆が「食べて満腹した」のです。大いなる恵みを得たのです。それも皆で得たのです。誰か特別な人が、豪勢なごちそうにあずかったのではありません。いただいたのはパンと魚ですが、皆が満足できたのです。「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠がいっぱいになった」とあります。十二というのは、イスラエルの十二部族を指します。そしてまた神の祝福の完全数です。ここにまさに新しい神の国、神がお立てになった祝福の天の国が起こった、まさに「神の国は近づいた」と主イエスがおっしゃった「神の国」が青草の原の上に実現したということです。
教会でもまた、青草の原の上に神の国が立てられるのです。キリストが共におられ、キリストの弟子たちである私たちがキリストから手渡されたものを配る時、そこに祝福に神の国が起こるのです。バッハがその楽譜に「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」と書いていたことは有名です。大音楽家であるバッハであれば、その音楽はたしかに神の栄光をあらわすといってもさもありなんと思われるかもしれません。でもバッハだけではありません。キリスト者一人一人がキリストと共にあって為すことすべてが「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」なるのです。そしてまた神の栄光があらわされる時、私たちの小さな小さな業が輝かされるのです。ひょっとしたらその輝きは誰も見ていないかもしれません。教会の中の働きもそうです。人の目につく働きもあれば知られていない働きもあります。私たちの人生における働きもそうです。誰からも知られない、感謝もされない、感謝どころか誤解されたり迷惑がられたりすることすらあるかもしれません。しかしそのすべてがキリストと共にある時「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」用いられます。五千人の男たちが満腹することも奇跡ですが、そして実際にそのようなとても理屈で説明できないような奇跡も起こるのですが、もっとも大きな奇跡があります。それは私たちの小さな小さな業がキリストによって用いられ、神の国の喜びとされることです。誰も見ていないような私たちの小さな業が天にどよめきをもたらすのです。
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