大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第6章45~56節

2022-06-19 17:47:32 | マルコによる福音書

2022年6月19日大阪東教会主日礼拝説教「恐れることはない」吉浦玲子

 今日の聖書箇所は新共同訳聖書の表題で「湖の上を歩く」となっています。実際、主イエスが湖の上を歩いてやってこられたことが記されています。その前のところには男性だけで五千人もの人々に五個のパンと二匹の魚だけしかないのに皆が満腹するように食事を与えられたこと、しかも余ったものを集めると十二の籠にいっぱいになったことが記されていました。普通に考えてあり得ない奇跡の話が続くと、特に信仰をお持ちでない方は作り話とか、話を盛っていると考えられるかもしれません。少し前、教会を訪ねてこられたキリスト者ではない知り合いと話をしていた時、「聖書の中の、こういう奇跡の場面がどうにも納得がいかない」とおっしゃっていました。しかし逆に、私は思うのです。この世界を創造された神、その神のもとから来られた主イエスが、五千人に不思議なありかたで食事を与えられたり、湖を歩かれるなどということは、ある意味、まったくたいしたことがない話ではないかと。旧約聖書には神が海を割られた話などもありますが、世界を、つまり全宇宙を作られたお方が海くらい割ることがおできになるのは、別に驚くべきことではありません。ましてや湖の上を歩かれた、なんてことも大きな話ではありません。主イエスが不思議な曲芸のようなことがおできになったこと自体には大きな意味はないのです。

 私たちは神を神として受け入れ、神の業を見る時、人間から見たら奇跡と見えることの奥にある神の御心を知ることができます。逆に言えば、その御心を示すために、神は時に奇跡のようなことを人間にお見せになるのです。主イエスは湖の上を歩くこともおできになる、スーパーマンだということではないのです。

 その今日の場面では、群衆との食事ののち、主イエスは、すぐに、弟子たちだけを舟に乗せて向こう岸へ向かわせられました。「強いて」舟に乗せ、とあるのが不思議なことですが、そもそも主イエスは弟子たちに休養を取らせたかったのです。群衆との食事の前、もともと主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃっていました。主イエスは、何より、弟子たちだけにすることを主イエスはかんがえておられたのです。

 そして主イエスおひとりで群衆を解散させて、ご自身は祈るために山へ行かれました。弟子たちだけにされたという理由の一つは、ご自身が一人で祈る時間を持つためもありました。祈りは父なる神との交わりの時です。どのようにあわただしい日々であっても、主イエスであろうとも、父なる神との交わりを大事にされました。ここで少し補足をします。主イエスは三位一体の父、子、聖霊なる神の内の「子なる神」です。父、子、聖霊といっても三人の神がおられるわけではありません。神は、父、子、聖霊が本質において同じという意味で、おひとりなのです。キリスト教は一神教であるということはそういうことです。三位一体というのは、おひとりの神が、人間から見て、三つのお姿に見えるということです。しかしまた、今日の聖書個所を読むと、主イエスが父なる神に祈っておられるわけで、そうなりますと、何か父なる神と子なる神が別のもののように思います。異端であるキリスト教系新興宗教は基本的に三位一体を否定していますが、実際、こういう箇所は、キリスト教系新興宗教から三位一体を否定する根拠としてあげられるのです。イエス様が父なる神に祈られているということは、父と子は別もので、三位一体ではないのだと。ここで三位一体の深い議論はいたしませんが、おひとりの神が人間の救いのために三様のお姿を取られる、違うもののように見えるというのは、三位一体の神が、人間への愛のため、人間から見て三様のお姿にあって、しかしなお交わりを持たれるということです。別のもののように見えて、父と子と聖霊はわかちがたく結びついているということです。

 そうです、主イエスと父なる神は祈りを通して分かちがたい結びつきにあられました。そして夕方になった時、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、逆風のために弟子たちは漕ぎ悩んでいました。そこですぐに主イエスが助けに行かれた、というなら分かりやすいのですが、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたのです。しかも、通り過ぎようとされたのです。ここのところはたいへん分かりにくいことです。弟子たちは主イエスが湖の上を歩いておられるのを見て「幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。」とあります。たしかに明け方のまだ暗い湖の上を、それもプロの漁師である弟子たちが舟を漕げないくらいの風が吹いている荒れた湖の上を人影が近づいてきたら幽霊だと思います。弟子たちがおびえたのもよくわかります。

 しかしまた、神である存在は人間にとってそもそも理解できない、人間の理解を超えたものです。旧約聖書でも人々は神を恐れました。その顔を見たら死ぬと思っていました。神ご自身、あるいは神からの使いである天使であっても人間には恐るべき存在でした。ですから、神であられる主イエスを弟子たちが恐れたのはふしぎではありません。しかしまた人間は神を神と認識できず、とんでもないものと認識する存在でもあります。弟子たちは神を幽霊だと恐れました。科学技術の進んだ現代では幽霊などとは言わないかもしれません。しかし、その代わり、神の業を何か合理的に説明しようとしたりします。

 おびえて叫んでいる弟子たちに主イエスは話し始められました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」まるで幼子に語りかけるように弟子たちを落ち着かせ、「わたしだ」とおっしゃるのです。この「わたしだ」という言葉はギリシャ語でエゴーエイミーという言葉で「I am」という意味です。これは旧約聖書(出エジプト記)で、モーセに名前を聞かれた神が「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。この「わたしはある」という言葉はまさに「I am」なのです。つまりここで日本語でさらっと「わたしだ」と訳されている言葉は「わたしはある」と神ご自身がおっしゃった言葉なのです。ここで主イエスは、ご自身が「わたしはあるという者」つまり神だとおっしゃっているのです。ご自身が、本来、人間が恐れるべき神であることを示されました。しかしまた同時に、恐れなくてよい、ともおっしゃって舟に乗り込んでこられました。そして主イエスが舟に乗り込まれると風は静まりました。

 嵐が静まる話は4章にもありました。4章では主イエスは弟子たちと一緒に舟におられ、主イエスが風をお叱りになると風がやんだと記されていました。その時も弟子たちは風を叱られ風を静められるこの方はどなただろうとたいへん驚きました。今日の箇所でも弟子たちは心の中で非常に驚いたと書かれています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」心が鈍くとは心が固くなっているということです。彼らの心はがちがちに固かったのです。男性だけで五千人の群衆に奇跡的にパンと魚を与えられたことを見ても、湖の上を主イエスが歩いてこられたことも、それはすべて弟子たちが主イエスを神として信じるようになるための、主イエスの業でした。しかし、弟子たちの心は固かったのです。神の業を神の業として受け取ることができなかったのです。

そもそも主イエスは彼らだけ舟に乗せて先に行かせました。そして風によって舟が進みづらくなった時、ご自身を呼び求めることを待っておられました。しかし弟子たちは暗い激しい風の吹く湖を自分たちだけで進んでいきました。主イエスはとうとう助けに向かわれました。通り過ぎようとされたのは主イエスの姿を見た弟子たちから、やはり、助けを求められなかったからです。意地悪で弟子たちを試されたわけではないのですが、しかし、神を呼ぶ心を弟子たちに主イエスは期待されたのです。しかし、弟子たちが呼ばなくても、やはり主イエスは弟子たちを救ってくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をおかけになり、舟に乗り込み、風を静めてくださいました。

 私たちも、やみくもに自分の力で暗い暴風の中を突き進もうとするのです。主イエスの方から近づいて来られても助けを求めようとしないのです。いよいよ神がそばに来られると、慌てふためき恐れるのです。私たちの心が鈍いからです。心ががちがちに固まっているからです。

 その心を溶かしてくださるのが聖霊なる神です。私たちの鈍くてかたい心を主イエスへと開いてくださるのが聖霊なる神です。聖霊を注がれた弟子たちは、はっきりと主イエスがどなたでどういうお方かを知りました。まだ聖霊をいただいていないとき、弟子たちは怯え慌てふためき恐れました。パンの出来事も湖の出来事も理解はできなかったのです。

 いま、私たちは主イエスのことを知っています。どのようなお方か知っています。しかしながら、時々、心が鈍くなります。かたくなになるのです。そして自分の知識、自分の力、自分のやり方に固執するのです。

 イザヤ書30章15節に「安らかに信頼していることにこそ力がある」という言葉があります。かたくなな心ではなく安らかに神を信頼しているとき神の力が与えられるのです。そしてまた「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロに語られた有名な神の言葉があります。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるという言葉は、自分の弱いところ欠けた所を神が補ってくださるということではなく、まさに人間が無力なとき、神の力が発揮されるということです。ですからパウロは、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と語ります。パウロは優秀な学者であり、卓越した伝道者でした。彼には客観的に見ても、誇るべきところは多くあったと思います。しかし、弱さ以外は誇らないというのです。

 私たちは何を誇りますか?地位ですか?財産ですか?容姿ですか?性格のよいところでしょうか?あるいは私などダメな人間で何も誇れないと感じておられますか?私たちは誰であっても神の前でも人の前でも自分自身を誇ることはできませんし、また逆に自分を卑下する必要もありません。私たちは神に愛され、神に用いられ、私たちに神の力が働かれる存在だからです。「通り良き管」という言い方を時々します。説教者が通り良き管として御言葉を語らせてくださいというように祈ったりします。キリスト者は、ある意味、神の力が通り、働いてくださる管なのです。その管を、自分の誇りなどというもので詰まらせてはならないのです。ただただ神が力をふるわれる、神の力がすーっと通っていく。そのことに安らかに信頼していればよいのです。安らかに信頼するということは、何もしないということではありません。弟子たちが舟を漕いだように、私たちもそれぞれの舟を漕ぎます。しかし、柔らかな心で漕ぐのです。キリストの足の下にあった湖は、人間にとっての現実です。私たちにとっては動かしようのない現実です。時に牙を向き私たちに襲い掛かってくる現汁です。しかし、その現実は主イエスの足の下にあるのです。主イエスは現実より上におられる方です。ですから、主イエスこそが、この現実の中で私たちを助けてくださるのです。そしてまた、私たちがキリストのことを忘れていても、キリストの方から「安心しなさい」そう語りかけてくださり、恐れを取り除いてくださるのです。ですから私たちは信頼します。私たちのために十字架で命まで捨ててくださった、そのお方に心を開き、柔らかな思いで信頼するのです。そのとき、向かうべき岸辺が夜明けのひかりの中に見えてきます。



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