2020年5月10日大阪東教会主日礼拝説教「愛の始まり、旅の始まり」吉浦玲子
【聖書】
ヨハネによる福音書 第21章15〜25節
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
【説教】
<愛に始まる>
主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問われました。それも三度、問われました。三度目に問われたとき、ペトロは悲しくなったと書いてあります。それはそうでしょう。愛している人から、何度も何度もわたしを愛しているかと問われるということは、自分の愛を信じてもらえていないと普通は感じます。
この聖書箇所は、ペトロが、主イエスが逮捕された時、主イエスのことを三度も知らないといったことと対応していると解釈されます。つまり、自分を裏切ったペトロに対して、ここで主イエスが三度愛を確認して、赦してくださっている場面であるとも言えるでしょう。しかし、考えてみますと、「お前なんて知らない」「あいつとは何の関係もない」と、かつて自分を否定し、切り捨てられた相手に対して、「自分を愛しているか」と問うただけで赦すということは普通は考えられないことです。表面上、関係を回復させることはあったとしても、以前とまったく同じような関係にはなりにくいのが普通です。しかし、主イエスは「わたしを愛しているか」と問われ、そこから新しく愛の関係を作ろうとされます。
つまり、神は過去を問われないのです。今と未来だけを問われるのです。今、愛しているのかを問われるのです。ペトロの裏切った過去、弱かった過去は、キリストご自身が十字架につけてしまわれました。罪の過去は十字架のゆえに神の前でリセットされたのです。
過去を問われない代わりに、私たちは別のことをはっきりと問われます。私たちが今日の聖書箇所を読んで、最初に引っかかるのは「ヨハネに子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」という言葉の中にある「この人たち以上に」という言葉ではないかと思います。口語訳では「この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と訳されています。つまり、他の人が自分を愛している以上に、自分を愛するか、言ってみれば他の人の主イエスへの愛よりあなたの主イエスへの愛が大きいのかという問いととることができます。しかし、別の取り方もできます。あなたは他の誰よりも私を愛するか、つまりヨハネでもトマスでも他の人でもなく、私を一番に愛するかという問いとも取れます。まるで子供が「弟や妹よりもぼくのことが一番好き?」と親に問うように「誰を愛するにも増してわたしを愛するか?」と問うておられるとも取れます。
いずれにとるにしても、ここで問われているのは、神への愛の絶対性、純粋性、特別性なのです。私たちにとって、神への愛が何よりもまさるものかを神は問うておられます。これは厳しい問いです。家族よりも親友よりも神を愛するかということです。良く神への愛と隣人愛と言います。しかし、先立つのは神への愛なのだと聖書は語るのです。これは厳しすぎると感じる人も多いでしょう。しかし、神を愛せない者は、ほんとうのところは、家族も友人も愛することはできないのです。
<信頼と使命>
しかしまたその愛の有様は、私たち自身では測りようもないことです。かつてのペトロなら、「はい、私は誰よりもあなたを愛しています」「あなたのためなら死ねます」と答えたでしょう。しかし、ペトロは自分の弱さを痛いほど知りました。ですから、もうそのようには答えられないのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのが精いっぱいでした。ペトロの振り絞るような思いがここにあります。しかしこれは精いっぱいの答えであると同時に、神にゆだねた言い方でもあります。弱い私の心をすべてご存知なのはあなたです。私の愛が満ち満ちていても、乏しかろうとも、その心をあなたにゆだねますというのです。ある方は、愛は説明ができないのだとおっしゃいます。そもそも高価なプレゼントや優しい言葉で自分の愛を説明することはできない、ましてや自分のために命まで捧げてくださった主イエスに対して、何をもっても愛は説明できないのです。ただ「あなたがご存知です」としか答えようがないのです。そして、仮に私たちの愛が乏しくとも、主イエスはその愛を受け取ってくださるのです。ここにペトロの主イエスへの新しい信頼があります。その信頼関係に基づいて、「わたしの羊を飼いなさい」という言葉が主イエスから与えられます。つまり、新しい使命を与えられて歩み出すのです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、ペトロへ伝道者として、また教会を導く者としての使命が与えられてたことを示します。しかしまた、専任の伝道者のみならず、キリストを愛し、キリストに従う者は、それぞれにキリストの羊を飼うのです。私たち一人一人にキリストは飼うべき羊をお与えになるのです。愛に始まり、ペトロの、そして私たちの旅は始まります。
ところで、以前にもお話したことがありますが、私の信仰の先輩で、現在70代の女性で、生まれてから一度も引っ越しをしたことのない人がいます。結婚をして、子供が生まれ、いまは近所に娘さんやお孫たちが住んで行き来をしているけれど、自分自身は一度も実家から出たことがないのです。でもやはり彼女にも人生の旅はありました。親を見送り、長く病と闘っていたご主人の介護をして見送り、信仰の先輩であり親友であった友人も見送りました。生まれたお孫さんに先天的な疾患があり、娘さんと共に悩まれ、娘さんを支えられました。喜びも悲しみも当然ながらさまざまにありました。しかし、キリストと共に歩む時、その歩みの途上においては喜びも悲しみもありながら、その旅は、愛に始まり、愛に終わります。
愛に始まった旅は、けっしてひとところにとどまりません。物理的にはこの先輩のようにひとところに住んでいたとしても、私たちは信仰の父であるアブラハムのように、そしてまたペトロのように、パウロのように信仰の旅をしていきます。信仰の日々は十年一日(じゅうねんいちじつ)のようなものではありません。
<楽な旅ではない>
さて、キリストから飼うべき羊を与えられ、私たちは一人一人の旅へと旅立ちます。主イエスの愛によって押し出される旅です。しかし、その旅はけっして楽な旅ではないのです。この世界にある限り、人間には苦難がありますが、ことに信仰者には神の訓練ともいえる試練があります。そしてその歩みは、この世的に見る時、必ずしもハッピーエンドとは思えない場合もあるのです。ここで、ペトロに主イエスは、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。」とおっしゃいます。ダビデがそうであったように、そしてまた主イエスの母マリアがそうであったように、その人生はけっして彼、彼女たちの望みがかなったものではありませんでした。ここで、特にペトロに主イエスがおっしゃっていることは、ペトロが最後には殉教をすることになるということでした。「両手を伸ばして」という言葉は十字架にはりつけになる、ということを暗示します。そのことを主イエスはご存知でありながら、なお「わたしに従いなさい」とおっしゃいます。
たいへんな困難な道をペトロが歩むことをご存知で、しかもその最後は殉教することになるというのに、わたしに従いなさいとおっしゃる主イエスは冷たい厳しいお方でしょうか。たしかに、主イエスに従わなければ、ガリラヤで漁師として、貧しくはあっても平穏な一生をペトロは送ったかもしれないのです。
しかし、のちにペトロが残したと言われる「ペトロの手紙」を読みますと、ペトロ自身が、後年、自らが主イエスに従って歩んだ道のりを後悔していないばかりか、むしろ大いなる喜びをもって語っているのがわかります。かつて主イエスと共に歩んだ弟子たちではなく、生前の主イエスも復活なさった主イエスも直接は知らない弟子たちの前で、ペトロは語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
主イエスと寝食を共にしたわけではない、復活のイエス・キリストと出会うという決定的な体験もしていない、そんな人々が、自分と同様に、主イエスを愛し、喜びに満たされている、その事実を見て、年老いたペトロは万感の思いにあふれるのです。投獄されたり、さまざまな困難があった、失敗も幾たびかした、しかし、ペトロは与えられた羊を養い魂の救いへと導きました。
楽な人生であったとしても、経済的に裕福であっても、社会的な名誉を得ても、魂が滅ぶ人生にはまことの喜びはありません。主イエスはご自分を愛する者の日々が困難に満ちながらも、実を結ぶ人生であることをご存知だったのです。主イエスの羊を飼う、つまり、神から与えられた使命に生きることは自己実現を目指す生き方とは違います。自分の目指すところに行くとは限らない生き方です。しかし、自分の魂が救われ、また周囲の人々の魂も救われる、その信仰の実りを見ることのできる人生を、主イエスを愛する者は生きていくのです。ですから、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」とそれぞれの旅へと押し出していかれたのです。
<振り返らない>
ペトロは主イエスとの会話のあと、「振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」とあります。ペトロは振り向いて、後ろから来る弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。主イエスは。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。つまり、あなたには、この人のことは関係がない、ただ私に従いなさいとおっしゃったのです。
前を向いて、今を生きている時、そして未来へと歩むとき、私たちは私たちの使命に生きることができます。しかしまた私たちは振り向いてしまう者でもあります。振り向くとき、私たちは、余計なことを考えるのです。人と比べてしまうのです。あの人、この人と比べてしまいます。それぞれに違う使命を受けて、それぞれに人生の旅をしているのに、比べてしまうのです。
新型コロナ肺炎の予防のため、自粛生活をしているなかで、以前の会社の友人たちと、ビデオ会議システムを使って、オンライン懇親会をすることがあります。パソコン上で皆の顔を見るとそれぞれに元気です。話ははずむのですが、時々、他の人と、私は少し生活が異なっているので、会社や仕事の話とかでは、会話について行けない時もあります。何となく置いてきぼり感を味わうこともあります。でもそれで良いのです。それぞれ違って良いのだと思います。それぞれに違う旅をしているのですから。
ペトロが振り向いた先にいた主イエスが愛された弟子は、やがてヨハネによる福音書を記したと書かれています。伝承ではこの弟子は長生きをしてペトロのような殉教はしなかったとも言われます。この弟子はペトロとはまた違う旅を旅したのです。それぞれに生き方も死に方も違っていました。しかしそれぞれに実を結ぶ人生を送ったのです。
<旅の続きは私たち>
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を納め切れないであろう」と記してヨハネによる福音書は終わります。主イエスはガリラヤで、エルサレムで、イスラエル全土で、またサマリアで、多くのことをなさいました。それらの一つ一つを書いたら、世界もその書物を収めきれない、これは主イエスへの平凡な賛辞ではありません。むしろ私たちへ向けた言葉です。この書物に収めきれない主イエスのなさったことは、私たちになさってくださったことでもあるからです。ヨハネによる福音書はここでいったん終わりますが、主イエスの業はここで終わってはいません。私たちに続いているのです。私たちの日々に主イエスの愛の業は為され続けています。ペトロになさった業が、主イエスを直接は知らないペトロの弟子たちへと続いて言ったように、2000年後に生きる私たちにも続いています。私たち一人一人の旅の物語が続いていくのです。時間と場所を越えて、膨大な物語が続いています。世界も収めきれない旅の物語です。「わたしを愛しているか」その問いに繰り返し答えながら、日々主イエスに従いながら、私たちの愛の旅は続いていきます。
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