大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書11章38~57節

2019-07-08 10:21:48 | マルコによる福音書

2019年1月13日 大阪東教会主日礼拝説教 「身代わりの死」吉浦玲子

<憤られる主イエス>

 今日の聖書箇所の冒頭、主イエスは再び心に憤りを覚えられたとあります。その前の箇所を読みますと、「「盲人の目を開けたこの人も、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた」とあります。主イエスといえども、その力は限定的なのだという人々の言葉があったのです。主イエスにさえどうにもならないことがある、ラザロの死に落胆していた人々の絶望はいっそう深まったのです。その言葉に対して主イエスは憤っておられます。しかしこれは、ご自分の力を低く評価されたことに対して憤っておられるわけではありません。これほどに人々を絶望させる死の力に対して憤っておられるのです。そもそも死をこの世界に入れることとなった罪に対して憤っておられるのです。死の前になすすべもないこの世界の非力さに憤っておられました。まことの神を知らない罪の世界の非力さに憤っておられました。

 憤った主イエスは墓に来られました。四日前に葬られたラザロの墓は石でふさがれていました。洞窟のようなところに遺体を安置し入口を石で塞ぐ、それが当時のユダヤでの埋葬のやり方でした。石はとても大きく簡単には動かせないものでした。映画や絵など見ても、岩と言ってもいいものが描かれています。おそらく大人の男性数名によらなければ動かせないようなものだったでしょう。その石は動かしようのない絶望の象徴でした。命と死を絶対的に隔てるものでありました。そして生きている人間が目にしたくない死の現実を、厳重に日常から遠ざけておくためのものともいえます。

 その墓の前で主イエスはおっしゃいます。

「その石を取りのけなさい」。

<墓という現実>

この話は聖書の中でも有名な奇跡物語ですから、教会学校の子供たちも何年か教会にきていれば一度は聞いたことがあり、ラザロが生き返るという結末を知っています。その結末を当たり前のこととして考えるとき、「石を取りのけよ」という主イエスの言葉の重さ、あるいは異常さというものがはっきりとはわかりません。現代的な感覚で言えば、墓を掘り起こせと言っておられるのです。土を取り除き、埋められた棺の蓋を開けよとおっしゃっているのです。

 2017年に、シュールリアリズムの巨匠で1989年に亡くなったサルバドール・ダリの墓を掘り起こして遺体からDNA鑑定がなされたというニュースが流れました。遺産相続にかかわる親族の確定のためでした。考古学的な発掘で遺跡から数千年前の人骨が出てくるのも、あまり良い気持ちがしませんが、まして、多くの人が知る最近まで生きていた著名な人の墓を掘り起こすというのは、なにかまがまがしい感じがします。できる限り普段は目をそらしておきたい肉体の死をいうものの現実を生々しく突きつけられるような感覚を持ちます。

 しかも、今日の聖書箇所では、まだ葬られて数日の墓です。ようやく墓になきがらを納めて、人々は心の整理をしようとしている、そのようなときになぜ死の残酷さを改めて突き付けるようなことをするのか、聞いた人は驚いたと思います。現実的ではっきりとものをいうマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と実に生々しい言葉を発します。「におう」という言葉は、死というものの現実を、肉体の滅びということを、ショッキングなほどにはっきりと表す言葉です。

 しかしそもそも、ラザロの姉妹であったマルタは、この前の箇所で、主イエスが復活であり命であること、つまり救い主であると信仰告白をしていたのです。永遠の命をつかさどるお方、死を滅ぼすお方だと告白していたのです。ユダヤ人は、復活の命を信じていました。人間は死んだのち、やがて肉体を持って復活をすると信じていたのです。それは死んだのち霊魂となって生きるということでも、魂が天国に行くということでもなく、肉体が復活をすると信じていたということです。しかしまたそれは終わりの日のことであって、今現実に目の前にある、石でふさがれているむこうにある特定の人物の死が命に変わることではなかったのです。しかしマルタは信仰告白をしたのです。終わりの日ではなくイエスご自身が死を命に変えるお方であると。

 にもかかわらず、現実の墓を前にしてマルタは「もうにおいます」と言うのです。さっき主イエスは死に打ち勝つお方であると信仰告白したにもかかわらず、現実の死の前で、つまり墓を前にしたとき、現実的な判断をしてしまうのです。これは私たちの姿でもあります。私たちは信仰を持ちながら、なお現実の前で現実的にしか考えられないときがあるのです。死を超えたお方を前にして、「ラザロが死なないようにはできなかった」と語る人々のようになるのです。死に勝利される方を前にして「もうにおいます」というのです。現実の前で、神の栄光をはなから期待しない者となるのです。

<神のしるし>

 それに対して主イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」そして石が取りのけられると父なる神に感謝をしておっしゃいます。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」ヨハネによる福音書では、奇跡のことを「しるし」と書かれています。それはこの主イエスの言葉にあるように、その奇跡を見た人々が主イエスが神から遣わされた者であることを信じるようになるための「しるし」だったからです。奇跡は神の業であることのしるしでした。単に神の力や主イエスの力を思い知らせるためのものではなく、神の働きを信じることができるようになるための「しるし」だったのです。ラザロの復活もそうでした。信仰告白をしながらなお「においます」というマルタがほんとうに主イエスが救い主であること、死にも打ち勝たれる方であることを知るための「しるし」を主イエスは見せてくださったのです。信じない者ではなく、信じる者となるために主イエスはわたしたちに「しるし」を見せてくださるのです。

 その「しるし」としてラザロは復活をしました。取り返しのつかない死を覆い隠すための石の向こうから、命を持ったラザロが出てきたのです。主イエスの「ラザロ、出てきなさい」という声によってラザロは出てきました。

 この素晴らしい「しるし」によって、多くの人々が主イエスを来るべきメシアであると信じました。しかし、この「しるし」をもってしても主イエスを信じない人々がいました。いえ、この「しるし」のゆえに主イエスを殺さねばならないと考える人々がいたことが今日の聖書箇所の後半に記されています。

 「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」祭司長やファリサイ派はそう考えました。彼らはしるしという言葉を使っていますが、そのしるしを主イエスが神から遣わされた者であるということを示すしるしとは考えなかったようです。彼らはあくまでも現実的でした。たしかにイエスと言う男は超人的な奇跡を行っている、この男がこれ以上権力を持ったらこの男を中心にしてローマ帝国への反乱が起き、ユダヤはローマに滅ぼされてしまうと考えました。たしかに人々の間には潜在的な反ローマ、嫌ローマ的な思いがありました。そこに力ある人物が登場したらあっという間に、その人物をリーダーに持ち上げて、ローマへの反乱が起きかねないというのはあながち間違いではない現実的な考えです。ローマへの反乱が起きたとき、到底、ユダヤには勝ち目がありません。神殿も国民もローマは滅ぼすだろうと彼らは考えました。それもまた現実的な考えでした。実際にこの30年ほどのち、ユダヤはローマに反旗を翻し敗北しました。完膚なきまでに叩きのめされました。神殿も廃墟となったのです。以来20世紀に現在のイスラエルが建国されるまでユダヤ人は国を持たないディアスポラ、世界中に離散した民となりました。ですから、このとき権力者たちが危惧したことはけっしてありえないことではなかったのです。その現実的な考えの中で、神殿と国民を守るためという大義名分のもとに主イエスを殺すということが決定されました。しかし、神殿と国民を守るというもっともそうな大義名分は、人間が考え出したものでした。神のしるしを神のしるしとわきまえない、ただ人間の知恵にだけ頼った考えでした。

<民の代わりの死>

 しかしまたここに不思議なことも書かれています。その年の大祭司であったカイアファが預言してこう言ったと書いてあります。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ。」

 カイアファは主イエスのなさったことを神からのしるしだと信じていたわけではありません。カイアファも他の権力者と同様、現実的なことを考えていたのです。現実的、かつ人間的な思いで主イエスを殺そうとしていたのです。しかし、そのカイアファに神が働かれたのです。ローマからユダヤを守るという大義名分を越えた知恵が与えられたのです。民の代わりにイエスと言う男が死ぬ、そのことが民のためになる、今ユダヤにいる民のためだけではない離散している人々をもイエスと言う男が死ぬことによって集められる。

 この預言はまさに成就しました。イエス・キリストの十字架によって成就したのです。民の代わりにキリストは死なれました。そして国民全体が滅びないで済みました。罪ある人間が罪の報酬である死から救われました。そしてまた、離散していた人々がキリストへの信仰において一つとなりました。ユダヤを越えて、人々は信仰において一つとなったのです。

 神は旧約聖書の時代から、ご自身を信じない者をも用いてその業を成し遂げてこられました。バビロンを用いてイスラエルを裁きとして滅ぼされ、ペルシャのキュロスを用いて民をバビロン捕囚から解放されました。そしてまた、主イエスの数々のしるしを見ても聞いても神のご栄光の表れと信じず悪意を持って主イエスを殺そうとする人々を用いて、十字架の救いの業を成し遂げられました。

 ラザロの生き返りはたしかに素晴らしい神のしるしでした。やがて十字架ののちにイエスご自身が復活なさることのさきぶれでした。しかしまた、主イエスを憎み、殺そうと考えている人々にも神は働かれました。カイアファの言葉もまた、主イエスが成し遂げられることをさきだって知らせる言葉でした。

 ラザロの復活は、現実においては、権力者による主イエスの殺害が決定される契機となった出来事でした。しかし一方で主イエスご自身の十字架と復活をくきやかに指し示すものでした。ラザロの復活を目撃した人々にとっても、のちの時代の私たちにとっても、十字架と復活がまさに神のご意思であったことを示すためのしるしとしてラザロの復活はありました。

 私たちは心鈍く神の業がなかなか理解できない者です。私たちの現実に働きかけてくださっている神の業に気が付けません。しかし私たちの日々にも神のしるしは満ちています。神が現実の大きな石を取り除かれる、そのしるしは私たちの日々にも起こるのです。


ヨハネによる福音書11章17~37節

2019-07-08 10:11:22 | ヨハネによる福音書

2019年1月6日 大阪東教会主日礼拝説教 「涙を流されたイエス」 吉浦玲子

<どうしようもない現実?>

 主イエスが愛しておられたラザロは主イエスが到着なさったときすでに墓に葬られていました。それも葬られて四日もたっていました。息を引き取ってから四日というのは、人間的に考えて、もうどうしようもない時間が経ってしまったということです。もう取り返しがつかない事態となっているということです。ここにはどうしようもない事態の中で深い悲しみに沈んだ人々がいました。困難のさなかであればまだその困難と戦うこともできたでしょう。しかしもうすでに戦いは終わっているのです。試合終了の笛はとっくになり、もう戦うべき相手すらいないのです。そして四日というのには当時として特別な意味があったようです。人間が死んで三日間はその魂が漂っていると考えられていたのです。それは聖書や教理に基づくものではなく、民間で信じられていた俗信です。その三日すらも過ぎた四日目ということになります。

  さて、ここに新約聖書の中で有名な姉妹が出てまいります。マルタとマリアです。ルカによる福音書の10章には、ことに女性には身につまされる有名な記事が載っています。マルタは働き者ではっきりとものをいう女性でした。それに対してマリアは静かに主イエスの話を聞いているような女性でした。マルタが人々の世話をするために忙しく立ち働いているときもマリアはずっと主イエスのそばにいて主イエスの話を聞いていました、それに対して、マルタは、マリアにも手伝うように言ってくださいと主イエスに言います。それに対して主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」とお答えになります。ここでは一見、マルタのように手伝いをすることよりも、主イエスの話を聞いているマリアの方が正しいと語られているように感じます。そしてまたたいていの女性は、自分は主イエスの話を主イエスの足元で熱心に聞いているマリアではなく、マルタのように大事なことを忘れてバタバタしていると思われるようです。しかし、逆に考えますと、率直なマルタはその率直さゆえにむしろ主イエスからもっとも大事な言葉をいただいた存在であったと言えるのです。「マルタ、マルタ」としっかりと呼びかけられ語られているのです。もっとも大事なことをいただいたのはむしろマリアではなくマルタだったとも考えられます。そもそも手伝いをしないマリアが良くないと思うのなら、マルタはマリアに直接言えばよかったのです。でもマルタはマリアではなく主イエスにマリアのことをどうにかしてくださいと願いました。現代でも女性同士のもめごとの仲介に男性が巻き込まれてあたふたするということがありますが、この場合は少し異なります。マルタにとって実は大事なことはマリアの問題ではなく、イエス様はどうかんがえているのか、どうしてくださるのかということでした。それをマルタは主イエスに直球で問いただしたのです。そしてもっとも大事なものをいただいたのです。

  今日の聖書箇所でもマルタは率直です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったことでしょうに。」とマルタは主イエスに語り掛けます。これは率直に主イエスが遅れてこられたことを残念だと言っているのです。。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」続く言葉は、批判めいた前の言葉を少しフォローするようなイメージもあります。あなたの力を今でも私は信じていますと言っています。そしてまたここでマルタが「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると承知しています」というマルタの言葉には決定的に欠けていることがあります。ラザロの死ということを前にして、もはや主イエスの力も及ばないという認識がマルタにはあります。主イエスの神に願う力が及ぶのはラザロが墓に入る前のことであるとマルタは考えていたのです。墓に葬られて四日もたったというどうしようもない現状を主イエスなら変えることができるという認識がマルタには決定的に欠けていたのです。もちろんこれは当然のことです。マルタでなくても、四日前に墓に葬られた人が生き返るなんてことは考えません。死というものは決定的で不可逆的なものです。

<あなたの兄弟は復活する>

  それに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」とマルタに対して答えられます。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答えます。このマルタの答えは当時の正統的な宗教の教理に基づくものです。もっとも当時、サドカイ派は復活を信じていませんでした。が、一般的にはユダヤ人は終わりの日に死者が復活するということを信じていました。  大事な人を失って悲しむ人に対して今日でも「また天国で会える」というのはせめてもの慰めといった側面があります。悲しみに寄り添うせめてもの励ましの言葉でもあります。しかし、逆に言いますと、決定的に、もうこの地上では愛する者と会うことができないということもはっきりと語っている言葉です。ラザロを墓に葬って四日たったマルタにとって終わりの日というのは頭では理解できても、あまりにも遠く今現実にある悲しみを覆うものではありませんでした。

 それに対して主イエスはおっしゃいます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。」これは驚くべき言葉です。復活はどこか遠いところにあるのではない、頭で理解した教理とか教えではない、ここにいるわたしこそが復活なのだ、私こそが死に打ち勝つ命なのだとご自身を指し示されたのです。いつか天国で会える、その希望はいまの現実において無力なものではなく、たしかなものなのだ、なぜなら私こそが命なのだから、とおっしゃっているのです。「生きていてわたしを信じる者は」と主イエスはおっしゃいます。復活は生きている者たちにとってリアリティのある真実なのだとおっしゃっています。そしてそのことを成し遂げる者は自分なのだと自分を示されました。人間を死から救い出す救い主としてのご自分を示されました。率直に主イエスに語り掛けたマルタに対して、主イエスは救い主としてのご自身を示されました。

  さらに畳みかけるように「このことを信じるか」と主イエスはマルタに問われます。救い主である主イエスに率直に語り掛けたマルタは、救い主から問われる存在でもありました。救い主と出会った者は逆に問われるのです。「このことを信じるか」、このことを理解したか?ではないのです。私が救い主であることをわかったか?ではないのです。「信じるか」なのです。主イエスと出会った者は、主イエスからご自身を信じるか否かを問われるのです。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えます。主イエスがメシア、救い主であると信仰告白をしたのです。

 <キリストと出会うとは信仰告白をすること>

  キリストと出会うということは、キリストへ信仰告白をするということでもあります。「わたしは主イエスを救い主だと信じます」という信仰告白を伴わないキリストとの出会いはないのです。キリストを知りました、キリストを理解しました、ということではないのです。もちろん私たちは生涯をかけてキリストを知ろうと努力します。キリストを理解しようとします。しかし、そのもっとも最初にあるべきことはキリストとの出会いであり、それは必然的にキリストを信じること、そして信仰告白をすることにつながります。そこから、死で終わりではない命を生きる者とされるのです。

<涙を流される主イエス>

  さて信仰告白ののち、マルタは姉妹のマリアを呼びに家に戻ります。マリアは主イエスを出迎えることなく家の中にいました。それは主イエスがラザロが亡くなる前に来られなかったことを腹を立てていたからではなく、あまりにもラザロを失った悲しみが深く立ち上がる気力もなかったからです。決定的な死の力にマリアは打ちひしがれていたのです。主イエスは、かつて自分の足元で熱心に自分の話を聞いていたマリアの打ちひしがれた姿をご覧になり、そしてまた多くの嘆く人々の姿をご覧になります。「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」とあります。主イエスが感情をあらわにされるのは珍しいことです。そして「どこに葬ったのか」と墓の場所をお聞きになられ「涙を流された」とあります。憤り、興奮し、そして涙を流される姿には、世間一般に考えられる宗教者の姿はありません。どのようなときにも泰然自若とした態度を取るということとは真逆の姿がここにあります。ついさきほど「わたしは、復活であり命である」と語られた救い主が涙を流されています。これからラザロを生き返らせるお方がなぜここでそのように取り乱される必要があったのでしょうか。

  主イエスは、そして父なる神は、人間の悲しみ、苦しみを共に悲しみ、苦しまれるお方だからです。墓は死の象徴です。揺るぎない死の力を示すものです。「どこに葬ったのか」と聞かれた主イエスはそこに厳然とある死を悲しまれました。しかし、そもそも死は人間の罪によってこの世界に入り込んできました。神に背く罪によって人間は死ぬべき者となりました。しかしそのような人間に対して、そして人間の死、死の力に対して、神は涙を流されるお方なのです。命と死をご支配されている方でありながら、なお一人一人の人間の痛み、悲しみ、苦しみを共に痛まれるお方だからです。自分はこれからラザロを復活させる、私の力をもってすれば死などどうにでもなる、だから今涙を流していることは無意味だなととは思われないのです。泰然自若とラザロを復活させるというのではないのです。今ここに、涙を流している人々がいる、死の力が厳然とある、そのいま現実に生きている者たちの苦しみをご覧になって涙を流されるのが救い主なるお方です。

 これから主イエスはラザロを復活させられます。それはご自身の復活のさきがけとなるしるしでした。しかし、復活したラザロは不老不死となったわけではありません。やがて死んだのです。マルタもアリアも、そしてこのとき共に泣いていた人々も今はこの地上にいません。依然として、この地上には死が存在するのです。人々が涙を流し、痛み、苦しむ世界があるのです。主イエスはその世界と人間に対して、涙を流されるお方なのです。私たちの流す涙の何倍もの涙を流され、私たちの痛む何倍もの痛みを覚えられるお方です。復活であり命であるお方は、現実の世界を生きる私たちの負う苦しみを、それも漠然とした苦しみ一般としてではなく、個別の私たち一人一人の苦しみをご存じで涙を流されるお方です。その苦しみがある意味、自分のせいで起こったことであっても、言ってみれば自業自得のような苦しみであったとしても、なお、救い主はその苦しみを共に苦しんでくださるお方です。ご自身が十字架で苦しまれたのは、人間の罪による神の怒りをお受けになるためでした。いってみれば本来は人間の自業自得といえる苦しみを十字架でくるしんでくださったのです。そのようなお方であるからこそ私たちは何もかも委ねることができるのです。自分のダメなところもどうしようもないところも包み隠すことなく、救い主の前に差し出し、ともに歩むことができるのです。

  キリストと出会った私たちは、涙を流してくださるキリストと共に歩んでいくのです。キリストとの出会いは一回きりではありません。人格的交わりという言葉をよく使いますが、私たちはどこか遠くにおられる立派な神様を拝んで歩むのではありません。復活であり命である救い主と人格的な交わりをしながら歩んでいくのです。信じた者はその豊かな交わりのうちにさらに信仰を深められながら、そして日々キリストによって慰められながら歩んでいきます。