徳川家康の謎 3
家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。3
天海僧正は光秀だった! この可能性は高い! 光秀は天皇家に仕える諜報員・志能備であった可能性が高い。
光秀と世良田二郎三郎元信(家康)と春日野局の関係を追って行くと秦一族に繋がる。秦一族は聖徳太子の要請で組織された諜報機関である。
本徳寺がある岸和田市には、こんな伝説が残っています。(本徳寺は妙心寺の末寺)
「本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
岸和田の地では、古くからこのように昔話として本徳寺の由緒が伝えられてきたようです。
「光秀唯一の肖像画 ~光秀と本徳寺とのつながり」
東滋実 2019/12/16のネット記事より
光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。
妙心寺 開基(創立者)は花園天皇。(本徳寺は妙心寺の末寺)
花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。 妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
法嗣の悟渓宗頓に帰依していた利貞尼は、関白一条兼良女で美濃国加納城主斎藤妙純の室である。
妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。
利貞尼は、美濃の斎藤一族・斎藤 妙純( 斎藤 利国)の妻・野間入道の娘(甘露寺親長の養女) 利貞尼の娘は朝倉貞景室。
妙心寺は花園天皇開基であり、朝臣と思える明智光秀との関わり合いが深い。
花園天皇
延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
南北朝時代 においては北朝側に付き、光厳上皇率いる北朝を支えた。
禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月、円観について出家、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。
明智光秀は北朝の朝臣、諜報工作員「志能備」である。生きているのは当然、妙心寺は光秀親子を匿った。
聖徳太子の要請で組織された諜報機関は3団体が確認できる。
「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動(秦氏族)
聖徳太子が情報収集に使ったとされる三人の人物とその配下の事、大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は互いに影響し合っている。
(聖徳太子の要請で作った諜報工作組織)
大伴氏族・大伴細人「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。
秦氏族(有力部族)の秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。
秦氏流服部氏族・伊賀の国人(伊賀流忍術の祖)の伊賀忍術者群団。
忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし)の祖とされる河勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。
(秦氏はユダヤ、ペルシャ人で平家の祖とも言われる)
秦河勝氏の香具師は、矢師・野士・弥四・薬師(神農)・八師とも書き、薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言う。
祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、諸国を周る職業である。情報収集の役目を負っていたと思われる。諜報活動をしていた。
「文献には、秦氏の河勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述がある。」
身分の低いささら者((賤民・忍び等)等の流浪の民に身を隠して諜報工作組織として活動していた可能性が高い。武家社会が公家社会を壊して、天皇制を崩壊させることを防ぐための諜報工作活動である。
武家社会が天皇制を崩壊させられなかった、壊そうとも考えなかった、武家社会は、先祖は天皇家であるとの血筋を尊重したからと考えるが、天皇に取って代わろうとする将軍が生まれても不思議ではない。
武家社会をコントロールするためには、天皇家の諜報工作組織は必要であり、天皇制を支える将軍の存在を維持しなければならない。
天皇制を守る公家社会の存続は、天皇制の下に武家社会が存続することであり、大和朝廷の正規軍としての認識が不可欠だった。天皇を排除する将軍の存在は絶対に許されない事だったのだろう。
天皇家を脅かしたのは織田信長だったのだろう。織田家は忌部の末裔である。天皇家の祭事を行なってきた一族であり、天皇家とは同格と考えていたのかもしれない。天皇を神格化して考えなかったかもしれない。天皇家にとっては危険な存在となっていたのだろう。
先祖は劔神社に代々奉仕の神官忌部氏である。
織田信長を頂点とする織田の一族のルーツは,ここ越前国織田おた庄にある劔神社の神官を務めた 忌部いんべ氏であるという。越前の守護大名・斯波しば氏によって越後の守護代に任じられ,後に斯波氏に代って尾張の守護代も務めた。
「忌部」(いんべ)とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族であった。 「忌部」は穢れを忌む集団という意味。 「忌」は、慎みをもって神事で穢れを取り去り、身を清めることをいう。
忌部氏のち斎部氏(いんべうじ)は、古代朝廷における祭祀を担った氏族。
天岩戸の神話において天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天児屋命(あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は天孫降臨においてもともに付き従っている。
そのうち天太玉命が忌部氏の祖、天児屋命が中臣氏の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。
天太玉命は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子 忌部氏のち斎部氏(いんべうじ)は、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔
織田氏(桓武平氏を称するが、その祖である平親真は忌部氏という説がある)信長は神の子となる。
天皇家の争いは南北朝の殺し合いをしている。南朝の後醍醐天皇を支持した新田源氏が滅んだ争いだが、天皇たりとも神とは捉えずに殺しているのである。信長が天皇家を滅ぼしてはならない神とは捉えていないかもしれない?天皇家にとっては危険な人物が神をも恐れぬ信長である。
「嘉吉の変(かきつのへん)1441年の守護赤松満祐による6代将軍足利義教の殺害事件。赤松家失脚
禁闕の変(きんけつのへん)は、1443年、京都で起こった後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件。吉野朝廷(南朝)復興を唱える勢力(後南朝)が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、鎮圧された。幕府は宝剣の奪還には成功したが、神璽はそのまま奪い去られた。
長禄の変(ちょうろくのへん)は、1457年に、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件。ただし、赤松氏の遺臣らは、この際、一度は神璽の奪取に成功するものの、吉野の郷民に奪い返されてしまい、翌年3月、改めて奪回作戦を決行している。
神璽を奪回した暁には次郎法師丸(後の赤松政則)を家督として赤松家の再興を認めるという後花園天皇の綸旨と足利義政の御内書を得ていた。
その後、神璽は1457年8月30日には京へと戻り、朝廷へ返還された。室町幕府は後南朝によって約15年もの間、京都から持ち去られていた神璽の奪回成功の功績を認め、赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督を相続させた。」
上記のように、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟が殺されている。守護赤松満祐による6代将軍足利義教の殺害事件も起きている。
神をも恐れぬ人物が将軍となれば、天皇家も公家社会も崩壊させられてしまう。信長の存在は天皇家にとって大きな恐怖である。
本能寺の変は「信長の暗殺」であり、天皇家に帰依する、諜報工作組織(志能備)の活動による暗殺であったと考えられる。
明智光秀は天皇家の諜報工作組織(志能備)の一員であると考えられる。秦氏の末裔である。家臣の斎藤利三も秦氏の末裔である。したがって、その娘・斎藤福・春日局は秦氏の末裔である。天皇家に仕える一族であり、諜報工作活動をする志能備の一族である。
(福は三条西公条の玄孫になる)
「福(春日局)は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母
方の親戚に当たる三条西公国に養育された。」とある。
三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、旧字体:三條西 實條 )は、公卿。内大臣・三条西公国の子。官位は従一位・右大臣。天正3年(1575年)、三条西公国の長男として誕生。翌年、叙爵。侍従に任ぜられる。慶長2年(1597年)参議となり公卿に列する。翌年従三位。
「家光の乳母・斎藤福(春日局)は、父・斎藤利三が主君・明智光秀の起こした本能寺の変に従い、山崎の戦いに敗死した後、母方の親戚である公国に引き取られ三条西邸で養育された過去があり、実条とも幼少より親交が深かった。」
実条の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、三条西家の女性の資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されることとなった。
天皇家に仕える秦氏の一族である。織田信長との騒動となった長宗我部元親も同族である。(長宗我部氏第21代当主。幼名は弥三郎。土佐国岡豊城主国親の長男。秦氏を租) 母親は斎藤氏の娘(祥鳳玄陽)・斎藤利三の異父妹で、正確には石谷氏(室町幕府奉公衆)の娘ということになる。
利三の生母は明智光秀の叔母とされていることから、のちにこの関係を通じて光秀、そして信長と関係を持つに至った。
長宗我部元親は、山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(春日局)を岡豊城でかくまったとされる。
同族の秦氏を租に持つ伊予国早川城主の秦備前守との親交が深かったとされている。天正の陣を終えた秦備前守は土佐国に逃れたとあり、秦備前守の家系図には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。
秦氏を租とする一族の結束である。明智光秀は天皇家の諜報工作組織(志能備)の一員であると考えられ、一族を守り、天皇家の意向に従うなら「信長を殺す!」決断となる。
斎藤利三は信長に切腹を求められた可能性がある。明智光秀に仕える前は稲葉一鉄の家臣だった。
稲葉一鉄は家臣の引き抜きと怒り、稲葉は斎藤利三を返すように織田信長に訴えた。
信長は光秀に「斎藤を稲葉の元へ戻すように」と話すが、光秀が此れを拒否、それにより信長も怒ったという。
本能寺の変の5日前に斎藤は切腹を命じられて、切腹を避けるため光秀を口説いたという話もある。
明智光秀は、暴君であり、秦氏一族を攻撃する信長に対して、天皇家、公家社会をも崩壊させる危険性を感じて見切ったという事だろう。神仏を恐れぬ、一向宗皆殺しの残虐さは、いずれ天皇家皆殺しにも繋がると決断して、信長暗殺は天命と捉えたと考える。
本能寺の変は「信長の暗殺」であり、天皇家に帰依する、根強い諜報工作組織(志能備)の連携活動による暗殺であったと考えられる。
そして、「信長の暗殺」は家康も知っていた。そして秀吉も知っていた。だから、光秀は生き延びた。そして天海僧正として家康と共にその後も活動した。家康の子・家光も従ったのである。
春日局は、従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる、大出世をするのである。将軍の正室と同等である。春日局は家光の実母と思える。天皇家は知っていた。
1601年、家老を長年勤めた重臣・稲葉正成(林正成)が小早川家を出奔。調略が原因か?
稲葉正成は浪人へと転落、正成と福は、一時期美濃で半農生活をする。
1602年、関ヶ原の戦いから2年後に小早川秀秋は早世。
秀秋は関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者、秀吉の正室・北政所(高台院)の甥
徳川家康が主導して小早川家は改易。豊臣家の継承権保持者抹殺
徳川家康は、福に面識があったといわれ、乳母選任の過程で徳川家康が関与したとされる。
乳母に選ばれた福は、夫の稲葉正成とは離縁することになった。
関ヶ原の戦いの秀秋の離反については、家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われ、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存。
福は小早川秀秋の寝返りに貢献して家康は勝利した。天海(光秀)の策略もある。「志能備」の諜報活動で福(春日局)と家康は蜜月関係だったと思える。家光の誕生は1604年である。
秦氏一族
霊亀元年(715年)、席田君邇近と新羅人74家の人々を美濃の国に移住させた。席田郡、大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる。(聖徳太子 在位 593年~622年 叔母・推古天皇 遣隋使)
家康(世良田二郎三郎元信)と福(春日局)の接点がある。
本能寺の変後、福(春日局)が後妻となった稲葉正成(小早川秀秋の家臣)は、関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・小早川秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。その後、福は正成と離縁して家光の乳母となる。
福を乳母にしたのは服部忍軍である。伊賀、甲賀忍者は秦氏の末裔であり、聖徳太子の時代から諜報工作活動を続けてきた「志能備」である。
新田源氏の末裔と秦氏の末裔、服部忍軍とが連携して諜報活動を展開し、地方の豪族を束ねて一大組織に作り上げていく、工作活動が組織的に行われていたと考えられる。
諜報員たる「くノ一」を送り込み、側室、正室の座につかせ、子を産むことで血縁を拡大することである。松平家はそのターゲットとなり、秦氏と新田源氏の血を引く徳川幕府となった。
福(春日局)が家光の乳母となる経緯が既に仕組まれたものである。
福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれているが、2代将軍・秀忠の正室・江の侍女である民部卿局の仲介で乳母となったともされる。また、福と家康は密会してたとの話があり、密接な関係だったようだ。(正室・江の侍女である民部卿局の仲介・服部くノ一?)
秀忠の母は、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)、幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられた「くノ一」である。民部卿局は服部忍軍で福(春日局)が家光の乳母となるように仕向けたものと思われる。家康は世良田二郎三郎元信であり、鍛冶屋の娘おあいとは既に関係していた。
「3代将軍・家光は1604年7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は太閤豊臣秀吉の養女・達子(浅井長政の三女)。徳川家の世継であった父・秀忠には1601年に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していた為、家光は世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。」とある。
春日局の子・稲葉正勝は後に老中に就任、相模国小田原藩主となった。
秀忠の正室・小姫(織田信雄の子)継室・浅井江(織田信長の血筋・妹市の子)は織田の血筋が強すぎる。服部忍者の血も強いが、春日局の三条西公国の血筋には勝てない。長丸の死も含めて、忠長では3代将軍になれなかったということだろう。
三条家は七清華の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。分家の三条西家には、内大臣・三条西公国の子・三条西 実条がいる。血縁のある斎藤利三・春日局・光秀と繋がる。公卿の血筋
「秀忠の母・西郷の局・於愛」は、戸塚忠春(清和源氏、源八幡太郎義家の庶子)の子といわれるが、養父の服部正尚(伊賀忍者)の子の可能性も高い。公卿の血筋より劣る事になる。
三条家は、細川晴元正室、武田信玄室(三条の方)、本願寺・顕如の室(如春尼)、源応尼、家康の母・於大、春日局・光秀と血縁が繋がる公卿の名門である。
1589年の出来事 ・ 同年5月、秀忠の母・西郷局死す!の謎
1月29日 春日大社の鹿殺しの犯人を処刑
2月5日 東海地方の大地震で被害続出
3月9日 豊臣秀吉が聚楽第の落書き犯を京の六条河原で処刑。尾藤道休(尾藤次郎右衛門入道道休)という人物が容疑者になった。
その者が本願寺内に逃げ込んだと言う事で、本願寺が犯人を匿っているという嫌疑を掛けることになる。
当時、本願寺に、石田三成と増田長盛らがやってきて、尾藤道休を匿ったとして本願寺に尾藤道休の引き渡しを迫り、本願寺顕如は翌日3月1日に尾藤道休と、匿った願得寺顕悟の2名を自害させ、その首を豊臣秀吉に差し出したと言う。
1589年5月、秀忠の母・西郷局の生涯は幕を閉じた。この時期の一致は本願寺事件との関わりがあったとも想像できる。西郷局は服部忍者である。
松平清康と源応尼(於富の方)の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼)3娘がいる。
妙春尼は於大の方(家康の母)の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
「妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室(三条の方)がおり、姉二人とは15歳以上の年齢差があり、両者ともこの頃すでに嫁いでいた。」の記述あり。
妙春尼(芳春院・妙西尼と同一人物)1544年生。
芳春院は三河一向門徒の代表格、一揆後、家康は芳春院に対し三河門徒を赦免し、宗教活動の許可を通知した。岡崎市の上宮寺には、家康の叔母である妙春尼の墓がある。
教光院如春尼・1544年生~ 1598年没は本願寺第11世・顕如の室。
長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約。
1557年、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、京から石山本願寺に輿入れした。翌年に15歳で長男・教如を産む。1577年に34歳で三男・准如を産む。
顕如の室・如春尼と芳春院(妙西尼・妙春尼)は同一人物で、源応尼の娘、於大の妹の可能性が高い。
於大は家康の母、家康の妻は西郷局(秀忠の母)であり、顕如の妻・教光院如春尼とは義母の妹の関係になる。石山本願寺との関係が深い。
後に家康は顕如を支援して東本願寺(長男・教如)を建立した。家康と本願寺の関係が深いことが分かる。
※ 徳川家康の天下取りには、三条家と一向宗の繋がりが、強く連携して、戦乱の世に大きく影響を与えている。一向宗を支持してきた、石川源氏、新田源氏、服部一族も同様である。源応尼が源氏の一族であることは間違いがないだろう。そして、一向宗と戦った信長は消え、協力し合えた家康が天下人となれた。
尾張藩の編纂した諸資料には、
徳川家康と松平元康は別人で合戦したこともあるという文章や、守山崩れは祖父清康の時代ではなく元康の時代の話で、そのあと別人(この場合は徳川家康)が松平家を乗っ取ったという記述があるそうです。
松平元康(後の徳川家康)は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、松平元康は織田・水野の軍勢と各地で戦った。
「1562年9月の戦い・石ケ瀬合戦」 二人の家康の戦う場面である。
「 松平勢の酒井忠次が八幡砦と佐脇砦の両砦を攻め、八幡砦の板倉弾正重定(今川方)らを討った。
戸田康重は二連木城に、牧野保成は牛久保城に逃げた。
今川勢は石ケ瀬の河原まで引く、岡崎の大将(松平元康)が待ち伏せていて、不意に討ってかかって来たので、板倉が率いて山岡へ向う。
権現様・家康(浄慶・世良田二郎三郎元信)は、成瀬八郎が対岸の山へ案内して逃げ隠れる。」
『大成記』 『三河後風土記』 「贋系図作りの名人沢田源内書」より ネット情報転載
「なんともならぬな」。。。 後の影武者家康?
平岩七之助、石川四郎、大久保甚四郎と、残った数をかぞえながら世良田二郎三郎元信は肩を落して唸った。
なにしろ河原では百五十はいた頭数が、またしてもその半分に減っていた。
広瀬城の三宅光貞の軍勢は此方の棄て身の戦法に泡をくったものの、やがて対岸に岡崎兵がきているのに気づくと、後を委せて引あげていった。すると後を引きうけた。
岡崎城の松平元康の兵は、舟を集めて陸続と此方へおし渡ってきた。
二郎三郎の兵は、せっかく山へ逃げ込んだのに、またしてもすっかり包囲されてしまい、向こうは山狩りのような大きな環をつくって攻め登ってくる気配。
「ここへひとまず匿れ、木の実で餓えをしのぎながら立てこもろうとしたが、向こうが息もつかずに、こう押し寄せてくるのでは、なんともなりませぬな」
馬上から突かれた額のかすり傷を手拭で縛りつけた酒井浄賢が、さすがに閉口たれたような弱気を洩らした。
ただ年若な榊原小平太だけが、大神宮の護符を眉間にくくりつけた顔(榊原の兜)を突きだし、「なあに、これしきのこと‥‥大事をなすに当っては、何かと邪魔が入るは知れたこと。苦労せねば何事もならざるがこれ人の道」などと気ばっていいだした。 ※榊原康政か?1548年生13歳
そこで二郎三郎も大きくおなずき、
「とかく人の世というは、荷を背負って坂道を登って行くようなもの、片時なりと気をゆるせば転げ落ちてゆくというが‥‥ちいと今日は難儀にすぎたのう」溜息とも吐息ともつかぬものを洩らした。
なにしろ明け方までは、一兵も損せず三宅の四つ城を攻め意気軒昂だったのが、うっかり葭っ原の茂みで仮睡していたばかりに、このていたらく。
「人生はあざなえる縄のごとし‥‥と子供の頃に教わったことがあるが、朝までは凱旋将軍で今は敗戦の将。また何をかいわんやじゃのう」
すっかり疲れきった二郎三郎は顎をあげ、襟首を肩の間にねじこむようにして、次第に茜色に染まってゆく夕焼け空を仰いだ。
「なあに暗くなるまでの辛抱‥‥陽さえ落ちてしまえば、なんとか此処は切り抜けられ、中島砦へ戻れましょう。彼処まで戻れば今川義元本陣より持ってきた金銀の櫃もあるし、それに留守番の板倉弾正には二百の兵が預けてありまする」と、鳥居元忠父子がしきりに慰めをいった。
だが、さて暗くなっても、山をとりまいた岡崎兵は引あげるどころか、篝火をたいてぐるりと取り巻いたまま、すこしも包囲の手をゆるめようとはしない。
次の日も、じわじわ山へ攻め登ってきて、夜になっても引続き篝火をたいて見張っている。
だから山ごもりして三日目。あたりの野あけびの実や、若いどんぐりまで食いつぶしてしまった一同は、もはやなんともならなくなって、みなが、「このままで餓死するよりは、いっそ切り死したい」ということになった。
「済まぬ。俺のような年弱な者を、新田義貞公の裔というので名主(みょうしゅ)に立て、その采配に従ってくれたばっかりに、この思いもよらぬ土壇場」と、さすがに二郎三郎も一同に頭を下げ、「おれに縄をかけて向こうへつれてゆき、それで其方らは命乞いして、思い思いに散ったらどうか」とまで口にした。
しかし酒井浄賢は、喘ぐように咳払いをしてからそれに激しく首をふり、「岡崎衆が欲しがっていなさるは、おまえさまの命ではのうて拐された和子の方じゃ。
よって、その首をとったところで、ここから吾らを勘弁して、とき放ちなどは致すまい‥‥」言い切った。
「そうか。というて、せっかく手に入れたあの和子を岡崎へ召しあげられてしまっては、われらにはもはや夢も希望もないことになるな」これには榊原小平太も頭をもちあげて近寄り、「どうあっても、たとえ四つ這いになってでも中島砦へ戻らねば」いたって狼狽気味に、口にした。
「かったるい餓え腹をかかえて、ここで動けぬまま岡崎城の兵に殴り殺されるよりは、這っても転がっても、この囲みをぶち破って脱出せねばなるまいて‥‥」
他の者も、みな同意して、最後の気力をふり搾って、みな二郎三郎の許へいざりよってきた。
「よしッ、また此処におる人数が半減するかも知れぬが、こうと話がきまったからには、日没を合図に敵の手薄な方角をみつけ、何としてでもここから抜けでよう」
そこで砥げそうなざら石を探して、錆つきかけた槍の穂先や打ち刀の刃をてんでにこすってから、「そろそろ篝火をたく頃合いじゃ‥‥火と火の間を目標にして、山を降りてゆこうぞ」
まっ先に二郎三郎が槍を杖に立ちあがれば、「ああ‥‥この山も今宵限りなるか」 無念そうに成瀬八郎がすぐ後に続いた。
※成瀬正一?、1560年頃、松平氏を出奔して放浪、武田氏に仕える。その後、北条探査、徳川に復帰
しかし雑木林の茂みを抜け出た途端。
どうして見破られたのか、早々ともう岡崎兵が囲んできていて、「三河武者の腕前を教えてやろうかい」
「このくたばり損ないのやつらめ、逃げおおせると思いおってか」
わあっとばかりに口々に喚きながら、槍を並べて一斉に突きかかってくる。しかし
これを、「おのれ邪魔だていたすか」
二郎三郎は、銀色にきらめく槍の林の中へ、手にした槍を右に左にまわしながら、これを薙ぎ倒して駆けこんでゆく。
そこで酒井浄賢を初め大久保甚四郎らなども、横から突きこんでくるのを、「えい、どけ」とばかり型っぱしから突きたて、刺しこみ、しまいには撲りつけながら、その後を走り抜け追いすがってゆく。※大窪党
だが、中島砦へ逃げてゆくものと見てとっていたのか、そちらの方角へ進むにつれて、次第に岡崎兵たちの壁は厚くなって、「これでは、とても突き破ってまで、もはや進めはできぬ」ということになった。
中島へ戻れないとなると、後は、掛塚へ行き、鍛冶屋平太の小屋へ戻るしかない。 ※服部忍者小屋
「よし、てんでに切り抜けえい。めぐり逢う所は掛塚ぞ」
もうこうなっては一丸に塊ったままで、敵中突破はできなくなったから、「みな力の限りここを踏んばって、めいめいに脱出せいやい」と、
蘇芳を浴びたような成瀬八郎が血槍をふるって飛び出す後から、二郎三郎も返り血をあびた物凄い形相で、
「人間は一度死んだら二度とは死なぬ‥‥いいか、ここが男の死に場所ぞ」 ※成瀬は凄腕の忍者
がに股の身体をこまめに大頭をふりふり突きかかってゆく。初めは酒井浄賢や林藤介も側についていたが、もうこうなっては、てんでんばらばらになってしまって、群がる敵中へ一人ずつになって吸われるように消えこんでしまった。 ※林藤介一族・林正成・稲葉正成と繋がるのでは?
さて、この時の状況を、『大成記』には、「神君は辛うじて敵中を切り抜けられ給い、三州設樂郡長篠まで辿りつかれ、その地の郷民に頼み舟をもとめ、遠州掛塚の鍛冶の家に落ち着かせられしが、この間の御艱難御辛苦の程は、筆にも詞にもつくしがたい」とでている。
これだけ苦労して、それぞれが、さて、ようやくの思いで掛塚へちりぢりに戻りついたところ、「‥‥申訳ありませぬ」と板倉弾正がすでにきていて、二郎三郎をみると両手をついてあやまった。
「如何せしか」とびっくりして愕き尋ねると、「岡崎より松平大炊助好景(三河深溝城主)が攻めて参り、無念や中島砦は焼かれてしまい、岡の砦まで退がって防ぎましたが何ともならず宝飯郡左脇まで落ちのび、そこから此処まで逃げ戻りました」
当てにして戻ってきた中島砦の兵も、蔵ってあった金銀もすっかり失ったことを、口惜し涙にむせびつつ報告した。
『三河後風土記』という本は、よく史料と間違えられて引用されるものだが、元禄年間に、「贋系図作りの名人沢田源内」が書いたものだとは前述したが、しかし、その中にも、「板倉某の篭りし中島郷山砦に対し、岡崎より松平大炊助好景攻めきたり、よって板倉防ぎ切れずして岡の城へ逃ぐ、ここの支えきれず逃走」とあるから、まだまだ元禄時代までは、板倉内膳正の先祖のことも松平と徳川とが戦ったという事実もうすうす一般には知られていたものらしいことが判る。
さて、負けて中島砦から逃げ戻っていた板倉弾正を初め一同は、みなうなだれてしまい、しおれかえってしまっていた。この有様では、「これから何とするぞ‥‥」
さすがに二郎三郎も、げっそりした面持ちをみせ、大きな才槌頭を共にたれ、考えこんだ。
しかし酒井浄賢は、作り笑いであろうが、「ワッハッハ」と呵々大笑。げんなりした一同に向かい、
「閉口たれてはいかん。女ごは都合のよいことばかり考えて生きてゆくものじゃが、男はあべこべに、いつも困難を覚悟して辛酸を堪える所存で世に処してゆくものじゃろが‥‥」
一同を眺め回してから、元気づけた。そして、
「かくなる上は当ってくだけろ‥‥と申すではないか。追われ縮んでしまっては道はひらけぬ。思い切って突っ込んでゆくしかないわえ。男の世の中は、退いて匿れてしまうより、ぶつかってゆくしか方法もないでのう」と言い放った。
すると、「そうだ、われらには岡崎の若君という取っておきの奇貨がある。あれをもって切札となし、この難局を切りひらかん」榊原小平太が直ちに唸ってすぐさま同意した。※若君は信康
「この際は、それしかあるまい」そこで、二郎三郎も、決断をし、「母屋の鍛冶屋へゆき、あいに和子をつれてくるよう言うてこい」といいつけた。 ※「あい」はお愛・西郷局
ところが、逃げのびてきていた中島砦の兵が、「ここにおられました和子さまなら、当地より向こうが安全じゃろとの、あいさまのお言葉にて、中島へおつれ申しました」末座の方から申し出た。
だから二郎三郎は、(あいも女ごじゃな‥‥あれは俺が子ではなく松平元康の跡目と教え、よくわきまえておるはずなのに、最初に怪しんだのが頭にこびりつき、己が手許へ置くのを嫌がって、さては留守中向こうへやってしまったのか) ※既に、後の家康と西郷の局は夫婦仲
愕然としてしまい、「して、その和子は?」と、畳みかけるよう板倉弾正にせっついて聞いた。
※ あい(徳川秀忠の母・西郷の局・おあい) 幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」であるとも言われている。 成長してから家康の侍女となり、秀忠 を生んで側室となったが、38歳の若さで病死した。養父・服部正尚は、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者。
すると板倉弾正は、またしても両手だけでなく上半身まで放り出すようにして、「なんともお詫びのしようとてありませぬ」平あやまりに頭を下げ放しで答えた。
「えッ、では乱戦にまぎれ、幼いものを殺してしもうたのか」暗然として二郎三郎が息をのむと、「お命は別条ないものと思いまするが、宝飯郡佐脇から此処へ落ちのびてくる途中、敵の目をくらまさんと回り道して塩見坂を抜けてくる道すがら、遭遇した輩共に和子は奪われてござる」と答えた。
「では野伏せりの徒にか‥‥」ときけば、「田原城の戸田弾正の手の者といいおりました‥‥」
※今川の人質・元康の子・信康(広忠の孫)が奪われた事件? ※戸田弾正の娘・真喜姫は広忠の継側
このやりとりを聞いていた榊原小平太は、「なんともならん‥‥」舌うちして、いまいましげに目くじらをたて、「うぬ、その責めをなんとしくさる」まだ頭を下げっ放しの板倉にくいつきそうにいった。
この時の咎めを板倉弾正はひどく気にし自責の念にかられ、のち、まっ先かけて討死した。
そこで信長殺しのあった天正十年六月の後。
家康は「香誉宗哲」を名のって出家していた弾正の末弟をみつけ出し、小田原合戦が済んで関東へ入国する際に家康は彼を伴ってゆき、まず千石を与えた。そして還俗させ、板倉勝重と名のらせ、関東代官、江戸町奉行につかせ、関ヶ原合戦後は一万六千六百石の知行を与えて京所司代にとりたてた。
そして、その長男が京所司代として有名な、三万八千石の板倉重宗。次男は島原の乱の時に征討使となって討死した一万五千石の板倉重昌なのである。
「渥美半島の田原へ、これからおもむき、なにがなんでも和子を取り戻さんことには、われらの行末は、お先真っ暗じゃ」
一晩だけは屋根のある所で手足をのばして横になったものの、翌朝になると二郎三郎は、むっくり、あいの許から起きだして、納屋へ顔をだした。
だが追われて逃げてきた疲れで、一同はまださながら死んだように熟睡しきっていたところゆえ、
「お先真っ暗より、まんだ戸外も黒々してござりまする。そうせかせんと、まあここへ入られ、もうすこしまどろまれたがよろしゅうございましょう」
寝とぼけた声で榊原小平太は答え、二郎三郎を己れの脇に寝かしつけようとした。。。
※ 世良田二郎三郎元信(権現様)家来として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助、林藤介等の名前が確認できる。
後の徳川家康の家臣は、世良田二郎三郎元信(淨慶・権現様)の家来である。
田原城の戸田弾正の手の者が、人質だった信康を奪ったとの記述がある。信康は今川から奪還してた。その後の今川との人質交換は、築山と亀姫の2人だった。
戸田弾正の娘・真喜姫には、広忠との間に徳川家康の異母兄弟である松平忠政・松平家元・恵最(僧侶)・内藤信成らを儲けたとされるが、彼らの生母はそれぞれ別におり、自らの子として養ったか、後見という立場であったと考えられる。(勘六と淨慶は同人、別人か?)
※お久(広忠側室)の子・勘六(松平忠政)と恵新(恵最)がいる。於大の子元康の異母兄弟と異父兄は淨慶
世良田二郎三郎元信(権現様・淨慶)が松平元康に、信康を渡して許しを請い、家来になったとの話に繋がる。
この頃に恵新(恵最)20歳が死んでいる。墓あり、実は同じ年の元康の死では? 元康の影武者説
恵新(後の樵暗恵最)誕生
元康と同じ広忠の子で同じ1542年12月26日に生まれたとも言われる。
「お久の方」は広忠との間に松平忠政と恵最(のちに広忠寺住職)の2子を産んだという。(忠政は徳川家康の異母兄にあたる。
上記は、「お久の方」の父親は松平 乗正。大給松平家の第2代当主とされる人物の娘として記載されている文章である。
この文章が事実なら、松平忠政(恵新の兄・勘六)は、広忠の子となり、元康と恵新・勘六は異母兄弟となる。似ていて当然であり、元康の影武者と慣れる筈。
於大の子・元康と淨慶(異父) お久の子・恵新・勘六は広忠の子となり、4人が存在していてもおかしくはないが、元康と恵新が双子、勘六と淨慶が同一人物の可能性はある。
実母としてのお久は存在しない可能性がある。源応尼が手配した乳母の可能性がある。
源応尼は伊賀(服部忍者)のくノ一、その子於大もくノ一と考えれば、伊賀のくノ一が乳母になったとも。
「お久の方」は、松平 乗正の娘といわれるが、『寛政重修諸家譜』では「大給松平家の記録にはお久の方が存在しない」などの理由で否定的な考証を行っている。
お久の出自は怪しい、源応尼の血筋とも思える。於大の父は水野忠政となっており、勘六は「水野忠政」から名前を取った「松平忠政」ではないか?勘六と淨慶が同一人物の可能性はある。3人なら全員、於大の子ではないか?
それでも、徳川家を継承する血筋は父系で分かれる。広忠の子と江田松本坊の血筋である。新田源氏の継承者は淨慶・権現様である。徳川家初代は淨慶・家康から継承される。
関ヶ原の合戦で恵新・家康が死去した、そして淨慶・家康が成り替わった。この影武者家康が交代したことで新田源氏の末裔たる世良田二郎三郎元信の家康が誕生したことになる。
権現様たる徳川家康初代である。1600年以降は将軍たる徳川家は淨慶の血筋が徳川御三家として将軍家を代々継ぐ事になる。2代将軍の秀忠は中継ぎ。
そして、松平家は徳川家の近臣の家臣の家柄と位置付けられ、将軍家の継承者ではなくなる。
それは、松平家は淨慶からしたら乗っ取った家柄であり、江田松本坊を父とする新田源氏の末裔たる淨慶の家柄ではないからである。
淨慶・世良田二郎三郎元信は、江田松本坊、母於大、祖母源応尼の血筋を徳川の継承者として重要視している。松平、水野の血筋よりも新田源氏の後裔として徳川家の天下取りを実現している。於大の子・久松3兄弟を重用し、松平家を名のらせ近臣とし、於大の子は信頼できる政略結婚の道具にもしている。
後の将軍職を徳川御三家から選出する制度をつくり、将軍職を継ぐ家だけが徳川を名のることができる。徳川という新たな将軍職の家柄を作りだしたのである。
築山の子・信康は切腹、結城秀康は他家に養子、秀忠は一代限りの将軍、3代将軍・家光以降は淨慶(家康)の血筋で将軍職が継承される。徳川家は、新田源氏・江田松本坊と於大、祖母源応尼の血筋である。
信康は、元康と築山の子である。1579年死去 松平家の本流になる血筋は途絶えた。
2代将軍秀忠(1579年誕生)は一代限りの将軍となった。淨慶の子の可能性はある。
松平広忠、水野(於大)、服部の血筋で、淨慶が世話になった鍛冶屋の娘の子(西郷局・服部忍者くノ一)である。
結城秀康(1574年誕生)は、
松平広忠と水野の血筋、源応尼、於大?、江田松本坊の血筋ではない?1584年秀吉の養子、結城養子となる。
秀忠の母・西郷の局
「お愛の方」。天正6年(1578年)3月、浜松城の徳川家康公の側室となりました。
1552年又は1561年誕生説もあり1589年没死。
家康公に仕えて1年後の1579年4月、秀忠を生み、翌年には忠吉を生みました。(信康の死)
家康公が浜松城から駿府城に移って間もなく、1589年5月彼女の生涯は幕を閉じ、駿府の竜泉寺に葬られました。
※1600年以前の血筋は、淨慶(家康)の直系ではないので粛清された。元康、恵新と勘六の血では将軍になれない。
秀忠の子長丸は、(1601年3月誕生~1602年8月没死)謎の死。家光との家督争いで忠長(1606年誕生)も切腹。
将軍職継承の徳川御三家の血筋を見れば明らかである。
尾張家初代 徳川義直 生年月日: 1601年1月2日 死亡日: 1650年6月5日
母:お亀の方
石清水八幡宮の祀官家(紀姓田中氏)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘(吉田神道)
家老・成瀬正虎は初代・成瀬正成の長男 配下・根来衆鉄砲隊・成瀬正一
紀伊家初代 徳川頼宣 生年月日: 1602年4月28日 死亡日: 1671年2月19日
母:於万 三浦義村の娘矢部禅尼を先祖・三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)
水戸家初代 徳川頼房 生年月日: 1603年9月15日 死亡日: 1661年8月23日
母:於万 三浦義村の娘矢部禅尼を先祖・三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)
於万の出自
勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘、河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘、冷川村百姓夫婦の娘など諸説ある。母とされる智光院は北条氏隆の娘、田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。
天海僧正(吉田神道、明智光秀?)の出自 三浦氏の一族である蘆名氏の出自といわれる。
2代将軍・秀忠の子
徳川 長丸(1601年3月生~1602年8月没)/(1602年1月25日~1602年11月8日)は、秀忠の長男で庶子、死去。母は家女とのこと。徳川家光・徳川忠長・保科正之らの異母兄。秀忠の子は将軍職を継げていない。家光は淨慶の子の可能性が高い
長丸の死、忠長の死は将軍職を継げない宿命とも思われる。秀忠は淨慶の子では無く、恵新の子と推測
3代将軍・徳川家光 1604年8月12日生~ 1651年6月8日 死亡 淨慶・家康と春日局の子と推測
上記の流れを見れば、徳川御三家の成り立ちが明確になる。尾張家、紀伊家、水戸家の初代は1600年後に生まれた子であり、淨慶・家康の子である。(家光も)
秀忠の子は将軍職を継げていない。又、松平家からも徳川家の継承者は出ない名籍となっている。明らかに徳川と松平は主従関係になっている。
天海僧正との共通点も出ており、家康の東照大権現は吉田神道から選んだ名称であり、尾張家初代の母・お亀の方と繋がる。
紀伊家初代、水戸家初代は母の於万の出自・三浦義村の娘矢部禅尼を先祖・三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)であり、天海僧正は三浦氏の一族である蘆名氏の出自といわれる。
これらの共通点を考えれば、新田源氏の末裔・淨慶と天海・明智光秀の築き上げた徳川幕府ではないかと想像できる。
南北朝の争いの中で翻弄された源氏・武家社会が、凶行織田信長を排除し、王政復古を抑えて、象徴としての天皇制を維持し、争いのない徳川幕府を構築したものと思える。
知略に長けた「志能備」の能力を生かした権現様の統治体制の実現である。
稲葉(林)正成 と お福(春日局)と 家康 ※林藤介一族・林正成・稲葉正成と繋がるのでは?
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に任じられる頃、家康の寵愛を得ていたお福に転機が訪れ、家康の勧めで林 正成に嫁ぐ事に成った。
家康の意向でお福は美濃国の稲葉重通の養女となる。
福が正成を稲葉家の婿に迎える。
林 正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により、旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名になった。
稲葉家は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えて、息子・稲葉貞通の代に徳川家康の依頼で斉藤利三の娘・福(春日局)の養父となり、林正成)を養子に迎えて、福(春日局)を大名婦人として三代将軍・徳川家光の乳母に送り出している。
夫の稲葉正成と離婚までして、家光の乳母「春日局」になった。
すべて、徳川家康の意向である。家康と福は親密な関係であった。
二代将軍・秀忠、天海僧正、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士の可能性がある。
春日局の実の息子・稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。
春日局の息子は「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられる。
三代将軍・徳川家光の古文書には、二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、徳川家光が「家康と春日局の子である」という謎となる。
「春日局屋敷跡」観光用案内板より
「春日局は、1603年の春、夫・稲葉正成と離別の後、二王座のこの地に帰ってきたとされている。その後、子らと共に江戸城に上り、将軍秀忠の侍女となった。容色美麗であったことから春日局は将軍の目にとまり1604年7月、竹千代(家光)を生んだ。しかしながら、父・斉藤利三が明智光秀と共に織田信長を討った理由で竹千代は秀忠夫人の子と披露された。」
家光は将軍(家康?)と春日局(お福)の子と表記されている。正に、二世権現と言うことになる。
続く。。。
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簡単ですが、先ずはお礼まで・・・
考え方は人それぞれだろうからね
正否の議論はしないので気楽にお付き合いください。