家康の謎 1 家康影武者説の推移
松平元康の経歴
1542年 12月26日生 広忠と於大の子元康誕生 於大は源応尼と水野忠政の娘
側室だったお久は於大の婚入れと同時に帰村している。
元康は双子だったとの推測も 一人は側室(お久)に預けた?
松平家は今川と同盟関係だったが、3年後、義兄・水野元信の織田への寝返りで元康の母於大・離縁・追放される。
※ 於大は、広忠と離縁した後に、織田の紹介で久松俊勝再婚した。久松は1562年に今川家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めの責任者である。
1543年 1月31日生? 天文11年12月26日
元康の異母弟・恵新(後の樵暗恵最)誕生
元康と同じ広忠の子で同じ1542年12月26日に生まれたとも言われる。
恵新はお久と広忠の子と言われる。 広忠寺住職となる。
母は松平乗正の娘・お久の方 元康の異父兄は勘六(後の松平忠政)は於大の子の浄慶では?
於大の父は水野忠政(養父?)となっており、勘六は水野忠政から名前を取った?
1547年 今川へ人質移動、途中で戸田に奪われ、織田に2年間程人質になる。
1549年 織田と人質交換で今川の人質となる。今川で元康は祖母源応尼(養育係)と暮らす。
源応尼は於大の子の国松(浄慶)と暮らしていた筈、浄慶と元康は異父兄弟
国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとの記載あり
1555年 今川にて元服する。 松平次郎三郎元信と名乗る。
1557年 瀬名(築山)と結婚 子は信康と亀姫の2人
1558年 三河念劇の騒乱で初陣して手柄をたてる。
今川より岡崎の領地300貫文分を得る。
1559年 3月6日 松平元康の長男・信康誕生(築山の子)
1560年 今川から独立する。(大窪党の活躍か?)
大窪党の2代目頭・大窪忠俊は大久保と改名 出自は下野の宇都宮の旧姓宇津、祖は新田義貞の家来 後の大久保一門の当主
※ 松平元康(本流)は1560(永禄3)12月5日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻をしていた尾張守山において、阿部正豊(弥七郎)に暗殺された?
1561年 元康の異母弟・恵新死亡の墓有り。実は松平元康(本流)が死亡したのではないか?
ここから恵新の成り代わり、元康影武者説が浮上する。家康は生涯4度死ぬ!
元康は織田との戦(石ケ瀬合戦)で暗殺された? 今川に帰れなくなった理由とも思われる。
元康(死?)に影武者元康(異母弟・恵新)が成り代わる? 実は双子の兄弟か?
世良田二郎三郎元信は、異父兄の浄慶(勘六?)が名のる
1562年 清州同盟 石川数正の交渉力で信長を味方にする。
信長との接見は、元康の異父兄の浄慶・勘六(後の松平忠政)又は恵新が成り代わるか?
お久の子とする勘六は、水野忠政、松平忠政の名前から察すると、母は於大の可能性が高い 浄慶と同一人物と思われる。
信長は家康の成り代わりを知っていた可能性も高い、信康と娘五徳の結婚を条件に領地拡大で戦略的に合意したとも思われる。
1564~1566年 三河の一向一揆が起きる。松平元康の求心力低下、影武者不安、内部分裂
松平家康と改名する。
1566年 徳川家康と改名する。天皇に源氏の末裔では官位が得られなかったため、藤原氏の末裔として官位を得る。
1579年 9月15日 松平信康 切腹(20歳) 松平の本流の血筋が終わる。
1588年 徳川家康は源氏(新田源氏・得川)の末裔と主張して官位を得る。
家康・影武者の推測
1560年12月5日~1561年にかけて、戦場で松平元康は阿部正豊(弥七郎)に暗殺された。
以後、異母弟の恵新(松平広忠の子)が松平元康に成り代わる。影武者浄慶・勘六 二人が別人であっても矛盾は生じない。
世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶であり、勘六と推測できる。
恵新は元康に成り代わっており、淨慶・勘六も容貌が元康(恵新)と似ており、影武者になったと思われる。この頃に家康と改名し、1566年には徳川家康と改名する。
桶狭間合戦時の年齢 永禄三年(1560年)
尾張の織田信長は 二十七歳。
松平蔵人元康は 十九歳。 広忠の子 松平二郎三郎元信 21歳で暗殺?
松平竹千代 二歳。 元康・瀬名(築山)の子「岡崎三郎信康」
石川数正は 二十九歳。
浄慶(於大の子) 二十一歳?不明 父は江田松本坊、母は於大(源応尼の娘)の子。
勘六(お久の子) 二十一歳 1541年生まれ、後の松平忠政、浄慶と同一人物の可能性もあり
恵新(広忠寺僧侶) 十九歳。 1542年生まれ広忠とお久の子 21歳で元康の影武者となる。
恵新は、松平次郎三郎元信を引き継ぎ、松平元康となり、徳川家康となる。
勘六は、お久の子と言われるが、於大の子・淨慶とも考えられる。
側室だったお久は、於大が広忠に嫁入りと入れ替わりに「勘六を連れて三河国桑谷村へ移り住んだ」とある。
源応尼の娘於大とお久は血筋が同じか?忍びの一族と考えられる。松平家乗っ取りの為に広忠に近づいたと考えられ、義兄の水野の裏切りもあり、於大は離縁、追放されたのだろう。
清州同盟を成立
石川数正は淨慶・勘六(元康の影武者)と共に清州同盟を成立させる。恵新は温存した?
その後、元康は松平家康に改名。1566年 徳川家康と改名する。
信長の若いころ、織田の軍師で伊束法師(意足法師とも)という呪術的軍配者がいた。織田信長、徳川家康のブレーンをつとめたといわれる僧侶である。1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いのころは、信長の側にいたことは確実で、伊束法師が占い、当日の大雨を予想していた可能性がある。伊束法師は家康の監視役だったと言われる。新田源氏得川の血筋、江田松本坊と源応尼との関わりはないのか?勘六を家臣とした酒井忠次も新田源氏の末裔と称している。
推測
恵新(家康)は関ヶ原の合戦で死亡する、以後、異父兄の淨慶・勘六(影武者)が家康に成り代わる。
2代将軍徳川秀忠は恵新(影武者家康)の子ではないか?
秀忠の母は鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)、伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたくノ一ともいわれる。
3代将軍徳川家光は、淨慶・勘六(得川家康)の子ではないか? 父は新田源氏・得川の血筋 母は春日野局ともいわれる。
浄慶は、父が下野国・栃木県出身の江田松本坊の子で母は於大(祖母は源応尼)であり、勘六は於大の子と推測?・浄慶と同一人物
元康と恵新は父が広忠で同じ、元康と浄慶は母が於大で同じ、勘六の父は別人で母はお久なら浄慶との2人の血縁関係が無いが、於大とお久に血の繋がりがあれば、元康、浄慶、恵新、勘六は血縁関係になる。元康と恵新が双子で浄慶と勘六が同一人物なら於大の子となる。
お久は恵新(元康と双子?)と勘六の実母ではないかもしれない。於大の子、恵新と勘六(浄慶)を預かったのかもしれない。
於大の子、浄慶(勘六)を祖母源応尼が預かり、恵新の母お久に預けて、祖母源応尼が今川の人質となった松平元康を養育したと推測できる。
父江田松本坊と母於大(源応尼の娘)に男子が生まれ、幼名国松と名づけ浄慶となったとある。浄慶は勘六と同一人物とも推測できる。
勘六はお久の子ではない? お久の子で浄慶とは別人であったとしても、家康の影武者として存在した可能性は高い。
酒井忠次に弟の存在を知らされて、元康が弟の恵新とお久を訪ねたシーンがある。その場から、勘六は元康の家臣になって同行したとなっている。松平元康に、世良田二郎三郎元信(権現様)が降参して家来になった場面と一致する。誘拐した元康の子信康を返還して、保護していたことを、祖母の源応尼が弁明すればお咎め無しになる筈。表向きには「信康誘拐の罪で処刑」された源応尼は、替え玉の別人だったと推測できる。
この時は1562年の今川との人質交換の時だと推測できる。元康は既に影武者・恵新であり、母のお久と勘六(淨慶・世良田二郎三郎元信)を訪ねて、竹千代(信康)を受け取ったシーンと推測できる。
淨慶・世良田二郎三郎元信(権現様)が降参して家来になった場面ではないか? 淨慶・勘六・松平忠政と一致する。
元康(影武者・恵新)は石川数正に、今川から取り戻した築山、亀姫と竹千代を連れて、3人連れで入城させたと推測できる。
信康は、既に世良田二郎三郎元信に奪われていて、今川の管理下にはいなかったので人質交渉が成立したと推測できる。今川が竹千代(信康)を返還することは戦略的に考えられない!
元康の母於大は源応尼と水野忠政の子となっている。勘六は松平忠政と名のっており、勘六は於大の子で浄慶(世良田二郎三郎元信・権現様)と同一人物と思われる。
勘六は(酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となった。。。)始祖松平親氏の伝説と類似している。
徳川家康の謎
『駿府政治録』に、
「慶長17年(1612年)8月19日に、家康公が雑談しているなかで『幼少の頃、又右衛門某に、銭五貫で売られ、9歳~18・19歳まで駿府に住んでいた』と話されたが、家来は一体何の事か理解に苦しむ」 という内容の文書が実在する。
本物の松平元康の体験談ではない! 家康の影武者・恵新死後の影武者・浄慶(勘六)の体験談と思われる。
『石ケ瀬合戦(1561年~』始末記』には、
「松平好景に追い落されて、石ケ瀬の河原までようやく引かれて来たが、葦草の茂みの中より突然、岡崎の大将(松平元康)が兵を待ち伏せていて、不意に討ってかかって来た。このため防ぎきれずに味方の半分は板倉が率いて山岡へ向かって手薄になった。よってやむなく権現様(浄慶・勘六?)自らが槍を振るって突進なされ、岡崎の大将(松平元康)を突こうとされたが、成瀬八郎がこれを止めて、対岸の山へ案内して、しばらく山中に篭もられた」
という文書が存在し、正史で言う同一人物が戦った事になる。 世良田二郎三郎元信(権現様)と松平次郎三郎元信(元康)の戦い場面である。
浄慶(勘六)は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。
世良田二郎三郎元信(権現様)家臣として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助等の名前が確認できる。
「大仙寺寄進状、前にまいらせ候を、人に御盗まれ候よし、かねて三郎(元信)寄進状を参らせ候。判の事は、未だ何方へも、かようの事にせられ候まま、我々が御判を押して参らせ候。何時もかようの事に判をいたし候はん時、この寄進状にも似せて参らせ候へく候。前の御盗まれ候にも、三文字の判は候ましく候。前の寄進状いたし候物は、盗人にて候へく候。その為にわが身一筆示しいらせ候。返す返す大仙寺の事、道幹(広忠)にも、今の三郎(元信)にも、我々使い申して参らせ候。この寺は、我々が寺の事にて候まま、いつかたのいろこいもあるまじく候。 弘治二年丙辰六月甘四日 大仙寺 俊恵蔵主へ 参る しんさう」
弘治二年は1556年の手紙である。
この文書は、元信の母親が書いたとされる文書なのであるが、現在では、しんさうは、家康の父とされる広忠の側室である久子という人物である事が確定している。しんさう(久子)の息子の元信とは、竹千代の改名した元信ではない事になってしまう。。。 二人の元信の存在
※ 広忠の側室、久子の息子は恵新であり、家康の影武者となった次郎三郎元信でもある。家康の影武者は、恵新、勘六(浄慶)の二人だったと思われる。
広忠の側室、久子の息子も元信で、於大の息子も元信で2人存在する。元康と恵新は双子で於大の子だった可能性もあり、於大は恵新一人を連れて離縁となり、側室だった久子と母の源応尼に恵新を預けた可能性もある。家康は双子だった?
於大の子で本流は1555年に松平次郎三郎元信と名乗り、今川にて元服する。
1557年 瀬名(築山)と結婚。子は信康と亀姫の2人
1579年 家康(影武者恵新?)は、信長が信康・築山殿の処罰を命じたとし、築山殿を遠江富塚に殺害し、信康を二俣城で切腹させる。浜松城派の酒井忠次を筆頭とする集団指導体制である。
2代将軍秀忠は恵新の子と推測?
秀忠の母、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)は幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」といわれる。
於大の母・源応尼も伊賀忍軍の「くノ一」といわれる。於大が「くノ一」であっても不思議ではない。
於大の母源応尼は伊賀忍者のくノ一、ささら者(賤民・忍び)であったとも言われ、於大も服部忍者との繋がりが深いと思われる。
松平乗正の娘お久の方、於大、源応尼、江田松本坊との関係は、伊賀忍軍、南朝を支援した新田源氏等の繋がりが推測できる。
家康(恵新、勘六・浄慶)は駿府に居を定めて、岡崎城には住まずに浜松城に住んだのは、家康が影武者であることを隠すためと思われる。
推測
松平乗正は「江田松本坊」と関係があり、於大とお久が源応尼(於富)の子で姉妹だった可能性もある。
いずれも服部忍者のくノ一で、於大は水野忠政の娘(養女?)として松平広忠に忍び寄った可能性がある。お久も同様に側室として広忠に近づいたのではないか?
源応尼(実名は「於富の方」)は明応元1492年に誕生、永禄3年5月6日 1560年 5月30日没。
しかし、その出自は謎に満ちている。
『尾張志』によれば、宮野善四郎の娘だとあり、『川口家々譜』では大河内但馬守満成の娘だという。『美濃国諸家系譜』の「大河内家譜」では但馬守満成が大河内左衛門佐元綱の父であり、元網は於富の養父であるとの記載がある。その他にも諸説あり、未だその出自がはっきりしない。
さらには、そもそもは身分の低い家の出身ではないかという説まであり、謎だらけの出自。
水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方。その後、源応尼は広忠の父・松平清康にも嫁いでいる。源応尼は広忠の義母?清康の側室 謎だらけで何処まで真実か分からない。
。。。ネット情報より
※源応尼は大河内左衛門佐元綱が於富の養父であるとの記載から、出自は不明瞭、於大は源応尼と水野忠政の娘となっているが養女の可能性が高い、松平広忠との婚姻の為、於大の出自を整えた。
源応尼は元綱の養女とあり出自は不明、伊賀忍軍の「くノ一」である。元信(浄慶)は、大河内源三郎の妻である乳母の協力で信康(竹千代)を今川から誘拐したとあり、大河内の繋がりがある。
「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は、徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。
親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。松平忠政となった勘六・淨慶の話にそっくりである。
松平元康と入れ替わったとされる世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者の頭といわれる。
この時点で家康が影武者恵新なら、浄慶(勘六)と対峙し戦ったことになる。争乱は寺社権力の弱体が目的であり、松平家を潰す考えは双方共になかった。
この戦いは一向宗をまき込んだ松平家臣の仲間割れであり、元康が影武者恵新なら統治力が働かなった。影武者体制のひ弱さが出た。
石川数正は、元康の実子である信康に家督を継がせる強い忠誠心があり、改宗して一向宗と袂を分けたが、石川一族や本多正信らの多くの家臣は、一向宗の味方となり松平家と対峙した。
もともと仲間割れの争いなので、松平家を潰す考えは無く、その後、遺恨を残さずに和解できたともいえる。
潰れそうな松平家を支えてきたのは、ささら者((賤民・忍び等)の集団や地域豪族の協力に因るところが大きい。服部忍者集団や大窪党(後の大久保)等の協力である。
大窪党は越前から来た大窪藤五郎なる人物が率いており、加賀の一向一揆発祥の地から流れて来た武装集団である。2代目が宇津忠俊(大久保)
後の主導権争いで、信康を跡目とする石川数正の岡崎城派と酒井忠次が支持する影武者のいる浜松城派の対立構造に発展した可能性が高い。
信康は武者ぶり優れ、衆望を担ってきており、それで迷惑するのは、三河を横領出来なくなる影武者家康を支持する酒井忠次の浜松城派である。信康、築山を処分する必要があった。
浜松城派の悪略に乗せられて、岡崎城派は信康の切腹で勢力争いに負け、石川数正の命も危なくなり、出奔にも繋がったと推測できる。
信康の妻五徳の12ヶ条の信長への苦情において、石川数正が関与することも無く、信長に陳情することも無く、酒井忠次が信長に説明しているのは不自然である。
信康、築山を処分するために五徳を煽り、信長を怒らせて信康処分を了承させたと思われる。影武者家康の松平家乗っ取りの完結である。
数正は忠義を尽くすべき、松平家本流の元康、信康を喪い、浜松城派の邪魔者となり、数正の命も狙われたからの出奔だと推測できる。
家康影武者説
家康影武者説を唱える村岡素一郎は、元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。
元信の母親は、ささら者(賤民)の娘(源応尼・於富の方)の子於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。
天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。
生まれ年月日から国松は元康、恵新と同じ誕生日になるが、宮の前町で生まれた子「国松」は、浄慶(勘六)だと思われる。於大が広忠に嫁ぐ数年前のことである。
国松は於大の子で東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名した。その後、破門されて寺を去っている。
浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。酒井一族との繋がり
こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。
実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(後の松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。この時、竹千代を預かり、面倒をみたのが鍛冶屋の娘おあいであり、協力者は源応尼である。
これが原因で、源応尼は1560年5月6日に処刑されたとされるが、処刑されたのは身代わりの別人と思われる。
世良田二郎三郎元信は、今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。(服部忍軍と大窪党)
さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。。。とある
これが事実なら、1562年の人質交換は瀬名と亀姫の2名であり、信康抜きの2対2で交渉成立のハードルは低くなっている。
「源応尼の甥、大河内政房の妻が駿河にいた竹千代(信康)の乳母をしていた。信康は大河内政房の妻の手引きで駿府を脱出したという記述がある。一説に、この妻が竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死させられたとも言われる。」
源応尼は1560年に死亡しており、竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死した。
後に大河内家が松平姓を賜った事は、ご褒美ととれる。恵新の異父兄の勘六も、松平姓で松平忠政と名のっている。源応尼は水野、松平家との関係が深い、謎だらけの出自でもある。
松平元康の暗殺計画があったと思える。元康の子、竹千代(信康)を誘惑して松平家を乗っ取る計画である。酒井忠次、大窪党、世良田二郎三郎元信(権現様)らの策略である。
鍛冶屋の娘おあい・於愛(後の西郷の局、秀忠の母)
西郷の局は、幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」であるとも言われている。 成長してから家康(恵新?)の侍女となり、秀忠 を生んで側室となったが、38歳の若さで病死した。
服部正尚は、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者である。鍛冶屋の娘おあいは服部正尚の子の可能性がある?
西郷の局(1552年生~1590年没)戸塚忠春の後妻(西郷家)の子 於愛・おあい
家康の側室で、徳川幕府の二代将軍 「徳川秀忠」 の母。
家康が浜松城に居た天正六年(1578年)、於愛が二十七歳の時、家康の許に側室として召し出された。於愛は西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれたとあるが、戸塚忠春が戦死した後に、西郷正勝の娘と於愛は服部正尚のもとに嫁いでいる。
秀忠の母・於愛は、服部七右衛門(後の青山成重・正尚の弟)の義理の姪になる。正尚の実子の可能性もある。
服部半蔵は伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の伊賀越えの脱出劇に加勢した。
服部一門は、家康によって伊賀組と取り立てられ、服部半蔵を組頭にした徳川家の家臣となった。
伊賀国・服部宗家の服部正尚は、弟の服部七右衛門を自分の代わりに家康の元へ仕えさせた。
服部七右衛門は、やがて服部宗家を継ぐこととなり、さらに、青山(忠重)家に養子入りしている。そして、改名し青山成重となった。(出自は服部宗家の忍者)
青山成重と改名した服部七右衛門は、秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るった。
青山家は、青山忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献している。
伊賀服部宗家が、青山家となっている。服部忍者と徳川家は血縁関係がある。
秀忠の母・於愛(西郷局)は戸塚忠春の子ではなく、服部正尚と西郷正勝の娘との間に生まれた子だったとも考えられる。そして、服部家で育てられ、家康に寵愛されて秀忠を生んだ。そして、もり役として服部宗家の七右衛門(青山成重)が抜擢されることになった繋がりがある。
於愛は幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」である。伊賀忍軍の鍛冶屋の娘・おあいである
服部正尚は、【服部半蔵正成】の一門、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者。
青山成重(七右衛門)は、服部平蔵正信の次男で[大久保長安]の 3男の養父。
「世良田二郎三郎元信・浄慶」の浜松城攻め
桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、奪った竹千代(信康)の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。その後、元康が死す?
※ 淨慶(権現様)が信康の身柄を元康に返還したのが事実なら、1560年に今川から信康を奪還したのは事実で成功したことになる。源応尼の処刑事件
元康の母於大は、水野信元の養女となり、松平広忠に嫁いでいる。浄慶と水野家の繋がりがある。
この時点での世良田二郎三郎元信は浄慶(権現様)であったと思われる。この後、元康暗殺が行なわれて、同じ年の恵新が元康に成り代わることになった。浄慶(勘六?)も元康の影武者であったと思われる。
疑問
浄慶の父・江田松本坊なる人物は忽然と消えている。その後、何者になったのか? 不明である。
勘六(淨慶?)は、後の松平忠政と名のった武士になったが1570年の「姉川の戦い」で死亡となっており、末裔は途絶えていて不明である。家康の影武者として生存していた?
源応尼は(1560年5月6日に処刑された)。家康の母於大と石川家成の母で二人の娘がいる。水野忠政の妻となり娘は於大、のちに松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが死別。不可解な死別では?
於大は源応尼と水野忠政の子となっている。勘六は松平忠政と名のっている。勘六は於大の子で浄慶と同一人物とも思われる。
今川氏真との人質交換による、瀬名、亀姫、奪還の背景
家康と織田信長が同盟を結んだのは、1562(永禄5)年1月とされる。
家康が今川家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めたのは同年の2月である。
家康が上ノ郷城の攻撃を命じたのは、久松俊勝(ひさまつとしかつ)と松井忠次(まついただつぐ)。
俊勝は久松長家(ながいえ)の名前で、家康の実母である於大の方が、家康の父・広忠と離縁した後に再婚した相手である。
於大は服部・伊賀忍者のくノ一である。伊賀、甲賀の忍者衆を動員する力があった。家康は既に影武者の恵新であった筈で、服部忍軍と大窪党の活躍で、久松俊勝は上ノ郷城を攻略した。
城攻めに伴い、酒井忠次は配下の石原三郎左衛門という者に次のような進言を受けたという。(大窪党は酒井忠次の配下である)
「(上ノ郷城は)要害嶮岨(ようがいけんそ)につき、力攻すれば味方の損害も多いでしょう。
さいわい、旗本のうちに江州甲賀衆に所縁の者がありますから、甲賀衆を招き、城内へ忍びを入れ置いて攻めるがよいでしょう」
これを受けて酒井忠次は、甲賀(現在の滋賀県甲賀町など)から伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させた。潜り込んだ甲賀衆は約280人といわれる。
服部半蔵の履歴によれば、半蔵の初陣は三河の「宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして」とある。
宇土城(うとじょう)とは上ノ郷城の別名。1562(永禄5)年の上ノ郷城攻めのこと。
上ノ郷城の攻撃には、伴ら甲賀衆と、半蔵ら伊賀衆の忍者たちが加わっていた。源応尼、於大は伊賀忍者
鵜殿長照は伴与七郎によって斬り殺された。指示系統が失われた城内に本隊の松平軍が討ち入り、難なく城は陥落。
生け捕りにされたのが、長照の息子である氏長と氏次である。(今川との人質交換となる)久松俊勝と於大の功績である。
鵜殿氏は、長照の母が今川義元(いまがわよしもと)の妹とされており、今川氏にとって重臣であり、縁戚だけでなく忠義の面でも固く結ばれていたので、家康の妻子と、鵜殿長照の息子の人質交換を今川氏真は承諾した。
石川数正は、元康の妻子(瀬名と亀姫)を救う為、今川方に単身乗り込んで人質交換交渉を成立させたのである。今川氏真は家康の妻子が、今川氏の重臣の関口氏純の娘や孫であり、処刑を躊躇していた背景もある。
なお、人質交換された鵜殿氏長・氏次兄弟は、氏真が没落した後、ともに家康に仕えている。
酒井忠次のルーツ
西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流。
戦国期に松平氏とともに勢力を広げ、近世には井伊氏・本多氏・榊原氏とともに譜代大名中最高の家格の門閥譜代層を構成し、一族から多数の大老や老中を出している。
14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。
その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は松平親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。
松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。
酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。 新田源氏の末裔を主張
左衛門尉酒井氏は、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない。
1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した。
松平家も酒井家も ルーツが同じで、新田源氏の末裔を主張している。新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る流浪の時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を祖としている。
大窪党 大久保忠俊(宇津・大窪忠俊)の経歴
大久保 忠俊(おおくぼ ただとし)は、三河の松平氏(徳川氏)の譜代家臣。宇津忠茂の子。蟹江七本槍の一人。通称は新八郎、五郎右衛門とも。号は常源。妻は坂部正利の娘。弟に大久保忠員ら、子に忠勝らがいる。
明応8年(1499年)、宇津忠茂の子として誕生した。三河領主松平清康に仕える。
後年に甥の大久保彦左衛門が著した『三河物語』によると、越前の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・清康に伺いを立てると、大窪は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、大窪藤五郎の戦死後に忠俊が「大久保」姓と改めたとされる。
忠俊は大窪党の2代目頭となる。 宇津 ⇒ 大窪 ⇒ 大久保と改名する。越前の大窪藤五郎は百姓の自治、百年王国(加賀一向一揆で壊滅)を築いた一向宗門徒の傭兵である。
天文4年(1535年)、尾張国守山において松平清康が陣中にて急死する森山崩れの後、三河勢は岡崎城に潰走したが、信定に城を占領された結果、阿部定吉らは広忠をつれて更に伊勢国神戸に潰走した。
家臣団は信定派と広忠派に分裂したが、忠俊は密かに広忠派に内通し帰城を謀った。天文5年(1536年)、広忠は今川義元の後援を受けて三河牟呂城に入った。信定は国内で広忠を支持するものが増えていると聞いて、諸士を伊賀八幡宮に集めて起請文を書かせた。三河物語によると大窪家の忠俊には7枚の起請文を三度にわたって書かされたが、忠俊は引き続き弟・忠員、忠久、林藤助、八国甚六郎、成瀬正頼・大原左近衛門らと密議を重ねた。
天文6年(1537年)5月1日についに広忠を岡崎城に迎え入れたが、この功で15貫文の采地、連名の判物を賜り、中野の代官職を与えられ、同地で百貫の采地を与えられた。
天文9年(1540年)、広忠は渡の戦いで敗れたが、忠俊は堤の柳の陰に伏兵を置いて追撃する敵を防ぎ、植村新六の加勢をえて、敵を逆に敗走させた。この年の安城の戦いの前に、忠俊は大窪家の家督を相続した。大窪藤五郎はその戦いで討ち死にした。
天文14年(1545年)、織田信秀が安城城(安祥城)を攻略して三河に侵攻した。広忠は千騎を率いて奇襲でこれを撃破したが、忠俊も戦功があった。
天文17年(1548年)4月、(追放されていた)松平信孝が500騎余りを率いて明大寺辺りに進出し、岡崎城を窺った。忠俊と石川清兼は命を受けて、射手70名を伏兵として隠し、菅原河原を通った信孝を射殺して暗殺した。また同年、織田信秀は荒川新八郎に三河を侵攻させたが、忠俊が兵を出して撃退した。
天文18年(1549年)、駿河の戦国大名今川義元は、三河勢に先導させて織田信広の籠もる安城城を攻めたが、忠俊らが先鋒となった。忠俊らは信広を生け捕ることに成功して、尾張勢(織田)と講和し、人質として捕らわれていた広忠の子竹千代(元康)との捕虜交換を実現させた。
※ 以後、織田に2年程人質となっていた竹千代(元康)は今川の人質となった。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。
酒井忠次の配下、大久保忠俊は大窪党の2代目頭である。初代の 大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒の加賀一向一揆の傭兵である。家康側に付いて三河の一向宗と対峙したが、本気で戦う気持ちはなかった。岡崎城の防備に努めている。
一向宗の味方をした家康の家臣は、影武者体制を嫌った松平家古参の家臣らである。一向宗を撒き込んだ勢力争いの内部分裂であり、松平家を本気で潰す意図はなかった。一揆側の条件丸呑みして、半年での和解が示している。
大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は酒井忠次、大久保忠俊にあったといえる。
後に、石川数正が支持する岡崎城の松平信康の家督相続を嫌い、酒井忠次、大久保忠俊ら浜松城派が、影武者家康の集団指導体制を維持するために、信康切腹に導いて、松平家の乗っ取りを完結させたと思われる。
一向宗を支持した本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、反逆者となり諸国を流浪して、10年後には再度、家康の家臣となる。
父祖以来、徳川氏に仕えるが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。
三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。
この後、大久保忠世のとりなしにより徳川氏に帰参することとなり、初め鷹匠として仕えたという。帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。天正10年(1582年)頃には、既に家康の信任を取り戻していたようであり、この頃以降、重臣として要職を歴任していくようになる。
正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる(『藩翰譜』。但し判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。
慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺(一向宗)では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。
秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠のもとで幕政に参画し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)になった。
慶長17年(1612年)には子の正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)。なお、慶長18年(1613年)の大久保長安事件、慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に関わったとされる。
本多一族と大久保一族の権力争いが勃発した。 本多一族の勝利に見えたが、その後、本多一族も粛清された。3代将軍家光の家督相続にも大きな影響が出た。