前から気になっていた文字があってね。石に点を打った文字なんだけどね。
古い文字と思っていたから、現代語になってから点が抜けただけだと思っていたら、点には意味があるのかな?と思うようになったよ。
私の先祖の文字にも点が打ってあってね。特別な意味があるとも思わずにいたのだけどね。
八王子千人同心のルーツを調べているうちに、「点 `」には意味があるって思うようになったよ。
新撰組で有名な土方歳三の土には「点 `」が打ってあったと聞いたからね、点の意味は何かと調べたら、意味らしきことが分かってきたよ
ネットの情報だけどね 土に「点 `」は御神酒を意味するものとの記載を見つけたよ
確かに、地祭りなどで神主がお祓いをする時は御神酒を上げるからね。山状に盛り上げた土に御神酒をかけるよ。
巨木を切る時も御神酒をかけて事故が起きないように祈願するからね。御神酒は神に捧げるものだからね。
土に「点 `」を付けている人は神事に関わる人かもしれないね。神がかり的な感じがするね。
奈良県川上村の「御首載石]
奈良県の川上村には、石の字に「 、」がついている不思議な地域がある。
奈良県の川上村で不思議なものを見た。石の「口」の上に「 、」がついた奇妙な文字。
「どうやら石屋の看板のようだが、一カ所や二カ所ではすまない。この地域の風習か何かだろうか。。。」
と記載されており、読み通すと川上村の歴史を目にすることができた。。。。。ネット検索より
歴史上の出来事は、
「1392年に南北朝が統一されたが、その後も50年くらい争いは続いた。北朝天皇が南朝との約束を守らなかったことで争いは続き、川上村には悲しい歴史が残っていた。
北朝に対し、南朝は吉野朝廷とも呼ばれており、今回の舞台である川上村あたりにも拠点があった。
ふたつの勢力は互いに争いあって、1443年。南朝は北朝から三種の神器のひとつ、神璽(勾玉)の奪取に成功する(禁闕の変)。
しかし、その後、北朝からは、神璽を取り戻すための兵が川上村に送られ、南朝側の皇子は殺され、神璽は奪われた。
川上村の村民は、神璽を奪い逃げ去った北朝側の兵の追跡をして、これを打ち倒す。
村民は皇子の首と神璽も取り戻したという歴史だった(長禄の変)」
「長禄の変とは、赤松家遺臣らが 南朝系皇子の自天王と忠義王の兄弟を 騙し討って、神璽を持ち去った事件。
南朝を擁護する川上村の郷士が 神璽(勾玉)と自天王の首を奪回して、 石の上に載せ、ひれ伏し拝んだという。」
なんと、この地は南朝系皇子の自天王と忠義王の兄弟が殺された地であり、神璽を奪い合った事件の地であった。
「御首載石」
自天皇の御首と神璽(勾玉)を安置し、ご冥福を祈ったと伝えられる大岩があった。石に「点 `勾玉」を打った文字は「いわ」と読む。
石の上に御首と神璽(勾玉)を載せて、川上村の郷士がひれ伏し拝んだという光景が浮かんでくる。
まさに、石に点の入った文字そのものの情景である。口の上の点 `は、雨だれ、勾玉、修行僧、御首と連想される。
この地の「石には点 `」がある。「御首載石」との関連性があるのだろうか。
「御首載石」をロマンチックに想像すれば、
自天王の御首と神璽(勾玉)を石の上に載せて、川上村の郷士がひれ伏し拝んだという情景を表す石には、口に「点 `」を付けるのかもしれない。
南朝を擁護する者たちが、口に点 `を加えて石の文字とし、自天王の無念を子々孫々に至るまで「忘れてはならぬ」と念じ、南朝の再興を願ったものかもしれない。
( 石に点 `を入れた文字の謎 )
「石に点 `」が打たれた文字は、様々な情景を連想させる。点 `は、何かを意味するものなのか。謎は深まるばかりである。
雨だれ石を穿つ(あまだれ いしをうがつ)
したたり落ちる雨のしずくでも、長期間、石の上に落ち続ければ、やがて石に穴をあけることができる。
「小さい力でも根気よく長期間努力すれば、成功する」ということ。
「石の上にも三年」
辛くても我慢強く辛抱していれば、いつかは成功できることのたとえ。冷たい石の上は、最初は冷たく感じるが、ずっと座っていればだんだん暖まる。
意味は何事も「忍耐力が重要」ということ。
石にも「点 `」が入った文字がある。
茨城の石船神社と三国峠の頂に「石楯尾神社奥之院」と称する小石祠がある神社の石には「点 `」が入った文字を使っているよ。
石楯尾神社(いわたておじんじゃ)は、
「烏帽子岩」という巨石信仰で
『この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬(ひもろぎ)磐境(いわさかい)の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。
ここが富士神界( 肉体ある人の世より前の霊体の神神の世)の中心地・高御座(たかみくら)であった。 (相模の国の奥津宮=総産土神) このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土(うぶすな)路(ろ)にあたり (石楯が粘板岩でここが変成粘板岩) 古代人が神を斎きまつった所・斎庭(ゆにわ)として人々の崇敬の中心となった。』
『三国峠の頂に「石楯尾神社奥之院」と称する小石祠がある。
神宝として石器時代の石棒が完全な形で残されている。(青黒い石棒)
ご神体は本殿前方部の床下の巨石で下方は広くなり土中に没しているという。
祭神として名が残る石村石楯(いしむらいしたて)は当地の住人で高座郡の県主(あがたぬし)であった。』等と記載されていた。
天界から神々が京塚山の頂上の「エボシ岩」に降臨して「国の鎮めとなさっておくだりになった」ということらしいね。
天界から山頂の「エボシ岩」に降臨した光景を表した文字が、石に「点 `勾玉」を打った文字になるのかね?
石の語源から想定すれば口が石(エボシ岩)を表すからね、巨石に降り立った神は「点 `」で表すのかもね。
“一”は天界で、“ノ”は山頂を表し、口は神の宿った巨石と捉えれば、神は「点 `」で表すということだろう。想像だけどね
点 `は勾玉でもある。王に点を付けると玉になる。玉の点は勾玉の首飾りを意味する。王が勾玉の首飾りをした姿を表し「玉」の文字になる。
点 `は勾玉(神璽)の化身でもある。
石楯尾神社(いわたておじんじゃ) 石に「点 `勾玉」を打った文字は「いわ」と読む
石船神社は 石に「点 `勾玉」を打った文字は「いわ」と読む(いわふね神社)
祭神は鳥之石楠船神(トリノイワクスフネ)、別名・天鳥船神(アメノトリフネ)で、「古事記」によれば、建御雷神(カケミカヅチ、常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神)の副使として葦原中国に派遣され、事代主神(コトシロヌシ)の意見を聞くために使者として遣わされた神とされる。また、神々が載る船の名でもあるという。
当神社の御神体は「兜石」と呼ばれる周囲約15mの巨石で、本殿はなく、この巨石を玉垣で囲ってある。社殿前に「岩船川」という清流が流れ、その脇にも舟型をした大きな石がある。
ここで、気になるのは「祭神は鳥之石楠船神、別名・天鳥船神」で、「古事記」によれば、建御雷神(常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神)の副使として、遣わされた神」とされる説明だね。
舟型をした大きな石に載った神の姿を表して、石に「点 `」が入った文字を使っているのかね? 点は神の化身(神璽)かね。
神籬(ひもろぎ)、磐境(いわさか)とは
太古の人々は、気象の動きや自然の移ろいに、神の存在を感じていました。
万物に神々が宿ると信じ、神の力を戴き、神と共に暮らすことを願っていたのです。
そして、神を招き、感謝と祈りを捧げる祭祀を執り行っておりました。それに答えて神が降臨される依代(よりしろ)が、磐境・磐座であり、神籬(ひもろぎ)であり神奈備(かむなび)でした。
神々は、祭祀の度ごとに降臨(こうりん)され、祭りが終わるとお帰りになられました。
神聖とおもえる岩の点在している所や巨石、大きな樹木、森、山などを依代(よりしろ)として神が宿られたのです。
そのほかにも丘、川、滝、海、島というような処にも神々がお降りになられたのですが、現在でも当時の祭祀の片鱗に触れることはできます。こうした磐境神籬(いわさかひもろぎ)は現在の神社の原形といわれています。
まさに、巨石信仰、「神の宿る岩」 石に「点 `」のある最古の神社、石楯尾神社、石船神社って事だね。
いわふね神社
饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」 発音は「いわ」巨石信仰の文字 あめのいわとわけ神
石に「点 `勾玉」を打った文字は「いわ」と発音
石という字の“厂”は、単に崖の意味だけをもったものではなく、
“一”と“ノ”を離すことにより、天界と地上の山の頂を表す文字となり、“ノ”に付く口が山頂の巨石(烏帽子岩・つ)と捉えれば、口の上の「点 `」はまさに烏帽子岩に降臨した神の姿である。
石の「点 `」は神を表すものであり、天界から地上の山頂の巨石に「神」が降り立った光景を表した文字と考える。
石の書き順が違う、天界を横棒で書き、天界から下る神を点で書く、
山のすそ野を書き、山を描く、山頂から突きだした烏帽岩(つ)を書いて「点の入った石」となる
※ 天から神々が京塚山の頂上の「エボシ岩」に降臨して「国の鎮めとなさっておくだりになった」 天石門別神(あめのいわとわけ神)点の入った石でいわと発音
通説では「石」は、
石という字の“厂”は、“雁だれ”と言って、崖の意味をもったもの。“厂”の“ノ”が崖で、“一”は崖の上の平らな所を表わしている。
石の“口”の部分が形を表わしていますが、これだけでは“くち”と区別できないので、崖を加えたもの。
と説明されており、点のない「石」は崖下に転がった石を表現しているようだ。
巨石信仰から生まれる「点 `」の入った「石」の文字は、雁垂れの「石」ではない。山頂の神の宿る巨石(烏帽岩・いわ)である。
「天孫降臨」 神々が降り立った巨石信仰の石、「点 `」の入った「石」は大きな意味が違うと考えられる。
石は石でも石ころではない。巨石信仰の神が宿った、「点 `」の入った「巨石」ということではないかと思う。
石に「点 `」が入った謎である。
真実を知る方がいたら、是非、コメント欄で教えてください!
天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」 巨石信仰の象形文字。
19日
新撰組で有名な土方歳三の土には「点 `」が打ってあったと記載したけどね、点の意味らしきことが分かってきたよ。
八王子千人同心の事を調べたときにね、徳川幕府の大蔵大臣とも言える大久保長安なる人物が出てきただろ。
長安は元姓は大蔵長安で猿楽師の子から武田信玄の家臣たる土屋家の娘婿となり、土屋長安と改名して与力をしていた人物だよ。
武田家滅亡後の徳川政権下では、徳川家康の寵愛を受け、改名して大久保長安と名乗り、老中まで上り詰めて強大な権力を得た人物だよ。
土屋 昌続(つちや まさつぐ・金丸平八郎)は、戦国時代の武将、武田信重の子、金丸光重を祖とする武将だよ。
信玄は奥近習六人衆を寵愛し、それぞれに「昌」の字を与えた。
金丸平八郎は土屋姓へ改姓して土屋昌続と名のる。22歳で100騎の侍大将となる異例の抜擢をされている。
甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。奥近習六人衆、武田二十四将の一人に数えられる。
土屋昌次の名により『甲斐国志』などで知られているが、諱については文書上では土に点を打った「土屋昌続」であることが史料的に確認されている。
「片手千人切り」で知られる土屋昌恒は昌続の実弟にあたる。昌続の死後(長篠の戦)家督を継いだ。
織田信長の武田攻めで、家臣の離反が相次ぐ中、土屋昌恒は最後まで勝頼に従い続けて忠義を全うした。
狭い崖道で織田勢を迎え撃つため、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。
この働きにより、勝頼は織田方に討ち取られることなく自刃した。『理慶尼記』によれば、勝頼の命で自害した夫人に介錯をしたともいわれる。
昌恒の働きは戦後、織田信長からも賞賛され、「よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と『信長公記』に記されている。
土屋家に代々相伝された。刀剣の「影法師」は影武者を表し、所持していた昌続が武田信玄の影武者を務めたためという。
土屋家は影武者の育成担当であり、その印としての「影法師」の銘という説がある。戦場で影武者が討たれた時、それが影武者であることを確認するため、普段は見えない刀の茎部分に「影法師」と彫っていたとも言われる。
娘婿の土屋長安(大蔵長安)は武田家滅亡後、改名して大久保長安と名乗り、老中まで上り詰めて強大な権力を得た人物。
大久保長安は、影武者の育成担当の土屋家に養子入りした特殊工作員である。土屋家は忍者を使っていたといわれる。信玄の御庭番とも思われる。
土屋昌続は、信玄の命で忍の加藤段蔵を討ち取っている。段蔵が厠に入った隙を伺い、馬場信春と共に段蔵を殺害したという。
加藤段蔵は北条の風魔小太郎の忍者で、上杉家に入り込み妖術で上杉を怖れさせ、その後、武田家に忍び込んできた凄腕の忍術使いである。
土屋家は影武者を務め、影武者の育成担当でもあり、特殊工作員である。
武芸にも秀でており、数々の武勲をたてている。信玄の側近中の側近であり、御庭番ともいえる役目を果たしている。
土に点の印は、まさに、正徳大使の時代からの「志能備」の一族かもしれない。
謎たる点は、土屋一族の本流を示すものか、又は、特殊任務に就く一族を示すものと想像できる。
点は御神酒と考えれば、土に「点 `」を付けている人は、神事に関わる人と思われる。
神がかり的な感じがする、神の遣いでもあり、天皇家に仕えた朝臣とも考えられ、「志能備」の一族とも考えられる。
25日
「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。
聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が載っている。
大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているとの事。
聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。
正徳太子が有力部族・秦氏族へ要請されたとする、秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。
伊賀の国人・秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)の三集団である。
忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし)の祖とされる川勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。
(秦氏はユダヤ、ペルシャ人で平家の祖とも言われる)
日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。
この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成ったという、服部氏である。
服部氏は、伊賀郷の忍術者の一族(有名な服部半蔵源左衛門)として江戸幕府・徳川家に雇われている、重要な存在である。
伊賀・服部流と双璧を為すと評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団である。
秦河勝氏の香具師(かうぐし)は歴史的には、「矢師・野士・弥四・薬師(神農・しんのう)・八師とも書き、薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言う。
祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売り、諸国を周る職業である。
情報収集の役目を負っていたと思われる。香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。
祭りに付き物の「見世物小屋」等の関係者が、諜報活動をしていたということだろう。
「文献には、秦氏の河勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述がある。」
全国各地を移動しても怪しまれない職業が、神前での興行や商いをする「香具師」である。
陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。
賀茂氏・役小角は、陰陽修験は村落部では、守備範囲の役割を分けていたと思われる。
甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の町場の氏族相手とする諜報活動群団と、活動範囲を分けていたようだ。
武術の発祥は陰陽修験道からであるから、甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の群団も、修験武術の習得を通して接点があったと思われる。
等々の「志能備」に関する情報を得ることができた。
「志能備」が「忍び・忍者等」のルーツで、聖徳大使の時代から組織があり、諜報活動をしていた。
天皇家の支配体制の組織として「志能備」という特殊能力を備えた群団が、地方に分散して、次第に、地方豪族の支配に組み込まれて存続してきたのが、「忍び」と言われる存在ではないかと思う。
そして、陰陽修験者、武術修験者等を束ねる組織が存在して、天皇家を支えてきたという統治体制が出来上がっていたようだ。
陰陽修験者、武術修験者、諜報活動を主とする者等の群団の存在である。
幕府に支配されない、村の自治による自警団として、発展した一族もあったと考えられる。
この様な「志能備」の末裔の存在であったと推測されるのが、後に出てくる大久保長安の父、猿楽師の大蔵太夫十郎信安らではないかとも推測できる。
「大久保長安は、天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。
長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。
長安は、武田信玄の家臣たる土屋家(信玄の影武者育成)の娘婿となり、土屋長安と改名して与力をしていた人物」
後の徳川幕府の有能な立役者ともなり、「志能備」の特殊能力を備えた末裔と思われる。
石川五右衛門の石にも点がある。旧字体であっても、すべての石川姓に点があったとも思えない。
石川五右衛門は蘇我一族から出た石川姓で源氏の一族でもあり、天皇家に仕えた朝臣の出自である。
蘇我一族の朝臣の流れと思われる
石川五右衛門の誕生地は、丹後・石川城・伊久知城の城主であったといわれる石川左衛門尉秀門の二男(五良右衛門)と同一人物といわれる。
伊久知城落城後、逃げ延びた石川五良右衛門が、父、兄らの無念を晴らそうと秀吉の命を狙い、 伊賀に入って忍者修行をして大盗賊「石川五右衛門」になったといわれる。
石川五右衛門の石にも点がある。聖徳太子の朝臣として仕えた「志能備・しのび」といわれた一族なのか? それとも石に点は伊賀忍者の見印か?(伊賀の国人・秦氏流服部氏族・伊賀流忍術の祖)
石に点の謎である。
明治の戸籍簿の作成時には石に点の文字が書き込まれている字体もあった。
次世代からは点が消えているので、旧字体の使用が禁止され「点のない石」で統一されたとも思われる。
戦国時代 日本三大奇襲戦のひとつをたどる 河越夜戦/埼玉県川越市
1541(天文10)年、北条氏綱は55歳で病死し、その子北条氏康が27歳であとを継ぐ。父の死後、氏康は、しばらくは義兄弟にあたる古河公方足利晴氏と提携し、もっぱら民政に専念した。そして、1541、42年、かれは相模に本格的な検地を実施し、後に武蔵まで検地の手をのばして、新しい課税体制を確立することに成功した。
1545(天文14)年の秋になると、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄が共同して、背後をおびやかし、山内憲政と扇谷朝定は、北条綱成が守る河越城に攻撃を加えてきた。河越城は、いまや古河公方足利晴氏・憲政・朝定の連合軍8万に囲まれて、落城は時間の問題と見られた。
北条氏康は、翌1546(天文15)年の4月に、馬廻衆(親衛軍)8千余騎をかき集め、武蔵砂窪まで進出した。氏康は、合いことばだけを決め、たいまつもつけさせず、精兵をもって暗夜敵陣のまっただなかに強襲(河越夜戦)をかけた。
(北条の家臣・風魔小太郎の忍者300人からの活躍談あり)
連戦に疲れ、落城近しの報にすっかり油断していた古河公方足利晴氏・山内憲政・扇谷朝定の連合軍は、扇谷朝定は戦死し、晴氏と憲政は、かろうじて古河と上野平井城に逃げのびる。
北条氏康の子 北条氏照 (大石源三、北条氏輝、北条陸奥守氏照)
戦国時代 1540年(1541年?、1542年?)~1590年8月10日
父・北条氏康の3男として、兄の北条氏政(北條氏政)の誕生から2年後に生まれたとされ、1540年誕生が有力説。幼名を北条藤菊丸と称した。
激しい気性の持ち主であるが勇猛果敢で、合戦時には自ら先陣を務め、生涯36勝と数々の戦いで武勲を挙げた歴戦の勇士。
学問詩歌を修め多摩の名僧卜山舜悦に参禅して禅機を会得し、父・北条氏康に劣らぬ文武両道に秀でた人物であった。
1546年の河越夜戦で北条氏康が勝利
北条氏照家臣石川土佐守 拝島・羽村・久保・天間・高築の5ケ村の領主 拝島大日堂を再建して、大日八坊といわれる八ケ寺を一族で建立
石川土佐守の一族で、石川但馬直〇の裔に石川源右衛門を名のる者あり。
石に「点 `」が入った名前の、石川源右衛門は何時の時代の武士なのか? 砂久保の激戦区に墓がある。(雑木林で痕跡なし)
【歴史】
三玉城(みつたまじょう) (三ッ玉城・桜田城) 最寄地 宮城県栗原市栗駒桜田中有賀18?11
『佐沼古戦場記』の巻末・「天正年中中奥筋古館主」の中に、「三玉 石川源右衛門」とあり、戦国時代石川氏が城主とみられる。『栗原市教育委員会「三玉城跡発掘調査現地説明会資料」』より。
弘和二年(1382年)頃、八幡伏牛城主・石川清輝の3男石川親康が居城とした。(奥州石川源氏本家か?)
十六世紀中ごろからは大崎氏家臣石川氏が四代に渉って治め、奥州仕置後の一揆の時の当主は石川彦五郎でした。
奥州の清和源氏・源頼親の流れで、石川系図に石川有光の一族が繁栄しており、末裔の「三玉 石川源右衛門」と思われる。家紋は笹竜胆 伊達家の藩士である
『佐沼古戦場記』 ( 宮城県登米市迫町佐沼)
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏、大崎氏は領地を没収される。
大崎、葛西の旧家臣らを中心に一揆が起こり、佐沼城は一揆勢により占領された。
翌天正19年(1591)、伊達政宗は、一揆勢の諸城を次々落とし佐沼城を包囲した。
伊達政宗は、佐沼城の西側の台地に本陣を置き、伊達勢は、白鷺が降り立ったという沼地の浅瀬を渡り、城中の2000人を撫で斬りにして一揆を鎮圧した。
( 宮城県登米市迫町佐沼) 登米市市中心部国道389号線と県道36号線の交差点近く登米歴史博物館脇に佐沼城跡は位置してます。
2022年 8月20日
「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。
天皇家の支配体制の組織として「志能備」という特殊能力を備えた群団が、地方に分散して、次第に、地方豪族の支配に組み込まれて存続してきたのが、「忍び」と言われる存在ではないかと思う。
武士のルーツは朝廷に仕えた武芸集団だった【新発見でここまでわかった! 日本の古代史】
8/20(土) 13:00配信 サライ.jp
駒澤大学文学部歴史学教授・瀧音能之さんが監修した『新発見でここまでわかった! 日本の古代史』(宝島社)から、最新の調査や研究発表を基に、これまでの常識を覆す「古代日本像」を紹介します。
監修/瀧音能之 1953年生まれ。駒澤大学文学部歴史学科教授。
朝廷に仕えた武官が地方で勢力を拡げる
中世の主役である武士の登場については諸説あり、研究者の間でも意見が分かれている。従来あるのは、地方の豪族や有力農民が自衛のために武装し、武士化したという説。都の軟弱な貴族に対し、東国武士は質実剛健(しつじつごうけん)で勇ましく、鎌倉で初めての武家政権が誕生したというのが、昔の教科書や歴史ドラマが描く武士像だった。
しかし、近年はそうした史観に一石が投じられている。初期の武士は宮廷社会の一員であり、東国など地方に派遣されてそのまま土着して武士化したという見方が提起されている。平成19年(2007)に平氏政権を最初の武家政権とする論を発表した高橋昌明(まさあき)・神戸大学名誉教授は、「武士の始まりは朝廷警護の近衛府(このえふ)などの武官」と論じる。征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は蝦夷(えみし) 討伐で名を馳せたが、「武官」であって「武士」ではなかったといわれる。
また、高橋氏は「武芸は遊戯(ゆうぎ)や美術、和歌といった芸能の一種で、和歌で朝廷に仕えた公家がいるように、武芸で仕えた者たちもいた」と述べている。そのなかでも、桓武(かんむ)天皇の血を引く桓武平氏、清和(せいわ)天皇の末裔である清和源氏、藤原氏の傍流(ぼうりゅう)などが地方に赴き、在地して経済基盤を築いた。武士の第1世代としては平高望(たかもち)や源経基(つねもと)、藤原秀郷(ひでさと)などが挙げられるが、彼らは朝廷から位階を授かったので「軍事貴族」とも呼ばれる。
平清盛が築き上げた最初の武家政権
武士が台頭した最初の契機は、平将門や藤原純友(すみとも)が起こした承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱である。鎮圧で功を挙げた者たちの家系が「兵(つわもの)の家」として認知されるようになり、独自の武装集団を形成した。
坂東といえば源氏のイメージがあるが、最初に根を張ったのは桓武平氏だった。北条時政(ときまさ)や梶原景時(かじわらかげとき)、三浦義澄(よしずみ)といった源頼朝を支えた御家人も、土着した地名を名字にしているが、本姓は平である。庶流の者たちは国の下級役人を辞し、地方の荘官(しょうかん)になるなどして勢力を築いた。
平安時代後期には平正盛(まさもり)・忠盛(ただもり)父子が荘園寄進を通じて朝廷に進出し、西国の受領(ずりょう)に任じられて西日本を中心に勢力を拡げた。中央政界でも武士の存在は無視できなくなり、院政を開始した白河上皇は武士たちを北面(ほくめん)の武士や検非違使(けびいし)に任命し、院の警備などを任せた。これによって武士と中央政界のつながりはさらに深くなり、皇室や摂関家の内部対立から起きた保元(ほうげん)の乱で活躍した。
続く平治(へいじ)の乱で勝利した清盛は多くの荘園や知行国(ちぎょうこく)をたくわえ、全盛を築いた。近年、この平氏政権が最初の武家政権であるという見方が一般的になっており、平氏の本拠である六波羅(ろくはら)にちなんで「六波羅幕府」と呼ぶ研究者もいる。平氏政権は傘下の武士団を地方官に任じて地方の支配強化をはかるなど、鎌倉幕府の守護・地頭設置に先んじた試みを行っていた。
『新発見でここまでわかった! 日本の古代史』(瀧音能之・著)宝島社